シモーヌのタイムスリップ
階段の途中でシモーヌは茫然と立ちつくしていた。
シモーヌは自分がタイムスリップしたのではなく、康之とロランがタイムスリップしたのだと考えていた。
そして、自分が階段の途中に立っていることに気が付いて辺りを見回す。
〝あれ・・・どうして私こんなところに立っているんだろう?
上の廊下にいたはずなんだけどな・・・〟
その時、階段の上で部屋の扉が閉まる音が聞こえた。
この家の使用人の誰かだろうと考えたシモーヌが振り返ると、一人の男が階段を下りてこようとしているのが目に入った。
階段の途中から自分を見上げるシモーヌに気付いて、男が一瞬立ち止まる。
二人の視線が合った時、シモーヌは「あっ!」と小さな声を上げた。
〝あっ、あの人、ヤンと一緒にあの機械に写ってた人だ!
なんであの人がここにいるの?
えっ、やだっ!〟〟
目を大きく見開いたシモーヌが低い悲鳴を上げた。
〝・・・どうしよう・・・私がタイムスリップしたんだ!〟
〝どうしたんだ、あの子? 階段の途中に突っ立って・・・。
なんで鳩が豆鉄砲くらったような顔で俺のこと見てんだろ?
どこかでお会いしましたっけ・・・〟
不審に思いながらも、徹は女の子の横をすり抜けて階段を下りようとした。
すれ違いざま「トオル・オカモト・・・」と自分の名前を呼ぶ微かな声が耳に届いて、徹が足を止める。
女の子は今にも泣き出しそうな顔で徹を見つめていた。
〝えっ、なんで俺の名前知ってんの・・・しかもフルネーム。あんたホテルの人?
女の子に声をかけようとした時、階段を駆け上がってくる足音を耳にして、徹は階段の下
に目を向けた。
「ジュリアン!」
上から悲鳴のような声が降ってくる。
「・・・ベルニエ・パンのお姉ちゃん?」
赤いリボンを首に巻いた少年が唖然とした顔で彼女を見上げていた。
そして次の瞬間、弾かれたように階段を駆け上がって女の子に飛びつく。
少年を抱き止め、頭にひとしきり頬ずりをした後、女の子はしゃがみ込んで少年の顔をのぞき込んだ。
「・・・ああ、ジュリアン。みんなで心配してたのよ。
あなた・・・ここにいたんだ。」
行きががり上、その場を離れることができなくなった徹が黙って二人を見つめていると、女の子が立上がって徹に顔を向けた。
「びっくりさせてごめんなさい。私、オカモトさんを知っています。
それと、ヤン・・・いえ、ヤスユキ・アサカワがどこにいるのかも。」
康之が姿を消し、連絡が途絶えてから既に十日以上が経っていた。
すぐにでも連絡があるだろうと考えていた徹は三日目ともなると、さすがに顔色を変えた。
ホテルのオヤジに話をすると、チェックアウトもまだらしい。
そしてオヤジは「またか・・・」と言って頭を抱えた。
オヤジの話では、この四ヶ月くらいの間にホテルの宿泊客が突然行方不明になる事態が何件も起こっているらしい。
日本の大使館に駆け込んだ徹が事情を説明すると、犯罪に巻き込まれた可能性もあるとの判断が下され、大使館は地元の警察に捜索を要請した。
その時、事情がはっきりするまで可能な限りパリに滞在して欲しいと依頼を受けた徹は、旅の予定を変更し、少しでも料金の安いこのホテルに移っていたのだった。
二人を自分の部屋へ連れて行った徹はシモーヌに椅子を勧め、ジュリアンと並んでベッドに座った。
「・・・僕のことを知ってるって言ってたけど、シモーヌさんは浅川と知り合いなの?」徹の問いかけにシモーヌが頷く。
身を乗り出した徹が康之がどこにいるのかをシモーヌに尋ねようとした時、ジュリアンが蚊の鳴くような声で言った。
「シモーヌお姉ちゃん・・・僕、お腹へった。」
はっとしてシモーヌがジュリアンに目を向ける。
「・・・こっちに来てから、お菓子くらいしか食べてないの・・・」
それを聞いたシモーヌが驚きの声をあげた。
「ジュリアン! あなた、こっちに来てからって・・・四カ月も!」
シモーヌの叫び声のような言葉をはっきりと聞き取れなかった徹がキョトンした顔でジュリアンに目を向ける。
「ううん、こっちに来てからまだ十二日目・・・
三日前に菓子もなくなっちゃって・・・それから何も食べてない。」
「えっ、まだ十二日目・・・?」
怪訝な表情を浮かべるシモーヌをよそに、徹が目を丸くして驚きの声を上げた。
「ちょ、ちょっと待てよ。三日もごはん食べてないの?」
〝十二日目ってどういうことなんだろう・・・もう四ヶ月以上も経ってるのに・・・?〟「大変だ、死んじゃうよ。すぐ何か食べに行こう!」
二人を促して徹が立ち上がる。
「・・・すみません。私たちこっちのお金、持ってないんです・・・。」
シモーヌがすまなそうな目で徹を見上げる。
その場の展開に流されて、シモーヌはいまジュリアンが言った言葉の意味を問い質すことができなかった。
「こっちのお金・・・?
大丈夫だ! 金なら僕が持ってるから。ほら二人とも、早く行こっ!」
徹が二人を連れて行ったのは〈アンリの店〉だった。
「うわっ、すっごい!」
運ばれてきたカス・クルットサンドを見てジュリアンが歓声を上げた。
「なっ、言っただろう! ここのカス・クルットはハンパないって。」
徹がジュリアンに片目をつぶって見せる。
「ジュリアン、ゆっくりよ。ゆっくり、よく噛んで食べるのよ・・・
急いで食べるとお腹痛くなっちゃうよ。」
ジュリアンはシモーヌに笑顔で頷くとカス・クルットにかじりついた。
ジュリアンが食事を始めるとシモーヌは店内に視線を移した。
〝ヤンから聞いてはいたけど、すごいな・・・ここ百年以上も前からやってるんだ。
店の中の感じも変わってないみたいだし、椅子なんかも新しいのに混じって確かに見覚えのあるのも置いてある。
ああ、あれがヤンの言ってた髭のご主人かな・・・
あの人がロジェのお孫さんってこと・・・?
はあ~、なんだか私の頭、どうにかなっちゃいそう・・・〟
シモーヌがふと徹に視線を向けると、何も知らない徹はサンドイッチを頬張るジュリアンをうれしそうに眺めていた。
〝この人なら、私たちの話を信じてくれるかな・・・〟
「はあ・・・?」
シモーヌの口から語られた突拍子もない話にポカンと口を開けたまま、徹はシモーヌを見つめ返した。
「だ・か・ら、簡単に言うとお兄ちゃんの友達のヤンっていう人が僕たちの時代に行っちゃって、それと反対に僕たち二人がこっちの時代に来たって事じゃない。
そうだよね、お姉ちゃん?」
徹をさ悟すような調子でシモーヌの話を要約したジュリアンが呆れたように鼻からふ~っと息を抜いた。
〝こっちの時代に来ちゃったって・・・タイム・・・スリップってこと・・・?
えーっ! それって、映画とか小説の中だけの話なんじゃないの?
しかし、俺のことをだましたって何の得もないだろうし・・・
それにあの真剣な顔・・・うそ言ってるとは思えないよな・・・〟
「いや、その・・・タイムスリップしちゃったって話は・・・分かった。
いや、分かったっていうか、話としちゃ分かったんだけど・・・、そのなんて言うか・・・」「あっ、お兄ちゃん、僕たちの話を疑ってるんだ。」
ジュリアンに断定されて徹が慌ててプルプルと首を振る。
〝それはそうよね。初対面の人間にいきなりこんな話をされて、それをすんなり信じろっていう方がおかしいか・・・〟
そこまで考えた時、シモーヌは以前〈アンリの店〉に行った時のことを思い出した。
その頃出回り始めたカメラを新しもの好きのアンリが手に入れ、店の前にみんなで並んで記念撮影をしたのだ。
〝あの時の写真、まだ残ってるかな?
〈アンリの店〉でご主人から昔の写真をたくさん見せられたって、ヤンが言ってたけど・・・〟
〈アンリの店〉に取って返した三人は、いま休憩中だという主人を強引に呼び出してもらった。
徹はパリにおけるカフェの歴史を研究している学生だと主人に自己紹介すると、この店が百年以上も前から続いていることを知って話を聞きにきたのだという作り話をでっち上げた。
そして開業当時からの写真があったら見せてもらえないかと頼み込んだのだった。
話し好きのオヤジは徹の話を聞くと満面に笑み浮かべて三人を店の奥のテーブルに案内した。
三人に飲み物をすすめたオヤジは揉み手をしながら話を始めた。
あっちこっちに話がそれるオヤジを徹は犯人を尋問する刑事のような巧さで誘導したが、ついにオヤジの口からヤンという名前が出てくることはなかった。
話が一段落して、オヤジが持ってきた大量の写真の中にそれは混じっていた。
セピア色に退色した一枚の写真。
夫婦ものらしい男女と、その二人の前に彼らの息子だろうと思われる少年が立っている。
少年の肩に手を載せていかめしい顔でカメラを睨んでいる男のすぐ横には、今、目の前に座っているシモーヌと康之が並んで立っていた。
テーブルに付くほどまで顎を落として、徹はじっとその写真を見つめた。
「ごめん、ひと部屋しか空きがなかった。この部屋の隣。
そこはシモーヌに使ってもらって、ジュリアンは俺と二人でこの部屋でいいか?」
ドアを開けるなり、徹がそう言いながら部屋に入ってきた。
「じゃ、取りあえず荷物を部屋に・・・」
そこまで言って徹は、はたと気が付いた。
〝荷物は・・・無いのか。
二人とも着の身着のままでこっちに来たんだ・・・〟
それならば、着替えや身の回りのこまごましたものなども必要なのではないかと考えた徹は二人にそれを伝え、三人で買い物に出ることにした。
二人が着ている洋服にしても、よく見ると今の時代のものとはやはり違っている。
部屋にキッチンは付いていないから、食事は外ですることが前提となる。
そのたびに変に目立つのも良くないだろうと徹は判断したのだった。
「なにーっ! 前にも来た事があるう?」
徹はナイフとフォークを取り落としそうになった。
三人で夕食を摂りにきたレストランでジュリアンが何気なく言った一言に、徹が裏がえった声を張り上げた。
口に運ぼうとしていたニンジンのグラッセをフォークに刺したまま、空中でピタリと手を止めて、シモーヌが固まっている。
「あれ、僕、さっき言わなかった・・・?」
「聞いてないっ!」
二人が声を揃えてジュリアンに身を乗り出す。
「いったいどういう事?」とシモーヌ。
「それじゃ、どうして帰れなくなった?」と徹。
「そんな、一度に答えられないよ。」
ジュリアンは頬張っていた鴨のオレンジソース煮を飲み込むと、涼しい顔で二人に言った。
「う~んとね、一番初めが・・・確か夏休みだったかなあ~。
・・・ロランと二人でね。」
「ロランって誰?」
「ジュリアンの双子の弟!」
ジュリアンに目を据えたまま徹に顔も向けずにシモーヌが答える。
「それでジュリアン、あなた、帰る方法は知ってるの?」
シモーヌがジュリアンに詰め寄る。
「知らない。」
ジュリアンは、あっさりそう答えると付け合せのジャガイモを口に入れた。
「・・・知らないって・・・だって、前にきた時は帰れたんだろう?」
顔をのぞき込んでくる徹にジュリアンが澄ました顔で頷く。
「うん。でも、あれって、たまたまだったのかなあ?
この前に来た時もロランと二人で帰れなくなっちゃってさ。
二人でうろうろしてたら、いつの間にか帰ってた。」
「いつの間にかって・・・」
あきれた顔でそう言うと、徹は〝頼むよ・・・〟とつぶやいて頭を振った。
「ねえ、ジュリアン。落ち着いてその時のこと、思い出してみて。」
シモーヌが猫なで声でジュリアンに問いかける。
ナプキンでゆっくりと口をぬぐったジュリアンが宙の一点を見つめて話し始めた。
「・・・最初の時はね、階段の正面にある部屋の扉を抜けたんだ。
帰る時も同じだった。
あそこ扉を抜けると、もとの時代に帰れたんだ・・・その時はね。
でも、この前は違ってた・・・
二人でまた行ってみようかって事になったんだけど、扉が抜けられないんだ。
何度やってもね・・・
それで諦めて二人で階段を降りようとしたの・・・そしたら、こっちに来てた。
でも、同じところから帰ろうとしたら帰れなくなってて・・・
・・・ロランと二人で違うとこを探したんだ。
部屋の扉も全部試してみたんだけど、どれもダメでさ。
疲れて廊下に座ってたら階段の方からロランの声がするんだ。
〝ジュリアン、早く〟って・・・
それで僕、急いで階段の方に行ったんだけどロランが見当たらないんだ。
どこに行っちゃたんだろうと思ってウロウロしてたら〝どん〟って何かにぶつかって・・・
びっくりして顔上げたらロランが立ってた。それまではそこに誰もいなかったんだよ。
そして辺りを見回したら・・・帰ってた。
だから、入口は家の一番上の階のどこかか、そこから下へ行く階段の辺りだと思うんだ・・・
だけど、はっきりとは分からない。
でもね、一つだけはっきり分かる事があるんだ。
それはね、家の一番上の階からこっちへ来れる時は身体の奥がうずうず痺れるような感じがするんだ。
それでそれはこっちにいるあいだ中、ずっと続いているの。
一番上の階に行った時くらいじゃないかな・・・あの感じがするのって。
僕、他じゃ感じたことない。
ロランも同じだって言ってた。
だから、今もここから離れないで、一日に何回も一番上の階に行ってみるんだけど、全然感じないんだよね・・・
僕、心配なんだ。
これからず~っとあの感じがしなかったらどうしようって・・・」
ジュリアンがため息をついて、小さな肩をスっと落とした。
「ちょっと待って ・・・それじゃ、あそこの最上階で身体の奥にそのうずうずした感じがあれば移動できるってこと?
・・・ひょっとしてシモーヌもそうだったの?」
それまでジュリアンの話を目を点にして聞いていた徹が急に大きな声を上げて、二人を交互に見つめる。
「確かに最上階は最上階だったけど、どうなのかな?
・・・うずうず痺れるっていうより、寒かったのかしら・・・
ゾクッとしたのは覚えてる。」
「う~ん・・・じゃあ、その〝うずうずした感じ〟ってのはみんなに共通ってわけでもないのか・・・」
三人は顔を見合わせて途方にくれた。