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第23話(最終話) 止まらない仕組みと、未分類の感情

 季節が一巡した。


 オークヘイブンは、もう「辺境の飢えた村」ではなかった。

 流れは止まらなかった。ギルドの検査が来ても、通行税が上がっても、三貴族家が圧をかけても。


 止まらなかったのは、健治一人の力ではない。仕組みを回す人間が、一人から十人に増えた。十人になれば、一人が倒れても止まらない。


 それが「佐藤ロジスティクス」の形だった。


 もちろん王都ほど賑やかではない。石畳もなければ、豪奢ごうしゃな建物もない。


 だが村の入口には新しい柵が立ち、井戸は修理され、荷車は毎日何台も出入りしている。人間の村だった場所に、今では角を持つ魔族の従業員が普通に立ち働き、子供たちはそれを当たり前の景色として見ていた。


 広場の端には、大きな木板がある。


【本日の入荷】【本日の出荷】【交換予定】【休み番】


 相変わらず炭書きだが、前よりずっと整理されている。文字の横には簡単な印もつき、誰でも一目でわかるようになっていた。


 元鍛冶屋の空き家だった場所は、今ではしっかりした木造倉庫と土間どまを備えた拠点になっている。表では荷受け、奥では仕分け、裏では保存処理。


 ダンとルークが荷車を回し、エマが相変わらず一番怖い顔で保存班を仕切り、ミナはもう帳面を片手に村長より話が早い。


 そして、壁際には新しい看板が掛かっていた。


【佐藤ロジスティクス】


 立派な字だ。


 王都の職人が気を利かせて作ったらしい。だが、その下に誰かが小さく、木炭で書き足していた。


【佐藤ロジ】


 どう見ても、こっちのほうが馴染んでいる。


「正式名称が泣くぞ」


 健治が言うと、ミナが帳面から顔も上げずに返した。


「長いからダメ」


「まだ言う」


「みんな「佐藤ロジ」って呼んでるし」


「王都の書類だけは長いの使って」


「それは使ってる」


「偉い」


「そこだけね」


 トウマが、もうトウマ少年と呼んでいいくらいには背が伸びた姿で走ってくる。


「ケンジー! 月光草の箱、どこに置く?」


「第三棚の奥。湿気避けろ」


「はーい!」


 その後ろでは、魔族の若い女が笑いながら黒曜石こくようせきの選別をしていた。最初はぎこちなかった人間と魔族の距離も、仕事を挟むと案外縮まる。もちろん全部が綺麗にいくわけではない。喧嘩もするし、警戒も残る。


 先週も、荷の積み方で揉めた。人間側は「箱を縦に積む」、魔族側は「横に寝かせる」。どっちが正しいかではなく、百年間別々に暮らしてきた習慣の違いだ。健治が間に入って「中身が潰れない方で統一する」と裁いたが、翌日また同じことが起きた。


 仕組みで解決できる問題と、仕組みでは届かない問題がある。後者のほうが、たいてい根が深い。


 でも、「回る」という事実が、少しずつ感情を追い越していく。


◆ ◆ ◆


 健治はそれを、丘の上に吊ったハンモックから眺めていた。


 今日は朝の出荷だけ確認して、あとはほぼ現場任せだ。冷えたエールを片手に、風へ身を預ける。


 残業ゼロ。ノルマなし。

 必要なときだけ動いて、あとは回る仕組みを見ている。


 理想に近い。


「働いてますか?」


 下から声が飛んできた。


 見れば、丘の下にアリシアが立っている。今日は公務用の堅い服ではなく、動きやすい簡素な旅装だ。その後ろに護衛はいるが、前ほど数はいない。


「視察ですか」


 健治が声を返す。


「ええ。王国と交易先の現況確認です」


「つまり公務」


「公務です」


「じゃあ仕方ない」


 健治はハンモックから半身を起こした。アリシアは丘を上がってきて、呆れたように見下ろす。


「相変わらず、働いているのか寝ているのかわかりませんね」


「それが理想の働き方なんで」


「皆がそうなれるといいのですが」


「だから仕組みを作ってるんでしょう」


 アリシアは周囲を見渡した。


 荷車。掲示板。人間と魔族の従業員。荷受け表。


 笑い声。少し前なら想像もできなかった景色だ。


 砦にはレオンが残っている。最後に届いた手紙には、ガレスの下で訓練に明け暮れていると書いてあった。


 カイルは交易護衛の巡回に加わったらしい。あの怒りは消えていないが、拳ではなく足で稼ぐことを覚え始めている。


 セレナは王都の治癒院で研修中だと聞いた。砦で診た重傷者の経験が、向こうでも役に立っているという。


「本当に、作ってしまいましたね」


「何を」


「流れです」


 その言い方に、健治は目を細めた。


「まあ、まだ途中ですけど」


「途中のわりには、皆ずいぶん慣れています」


「現場は強いから」


「そうですね」


 アリシアはそこで間を置き、それから咳払いした。


「ところで」


「はい」


「今日は視察のあと、昼食を共にしていただけますか」


「それも公務?」


「最初の半分は」


「半分だけ?」


「残りをどうするかは、まだ決めていません」


 健治は少しだけ笑った。


「じゃあ、後半の扱いは飯を食いながら考えましょう」


 アリシアが、ごく小さく笑った。


 風に乱れた髪を片手で押さえながら、彼女は丘を下り始めた。その背中は、泥だらけで砦に立っていた頃と同じ人なのに、今日は不思議と少し遠く見える。遠いのに、目が離しにくい。


 何だろう、これ。


 役目だ、と言い聞かせる。彼女は王女で、自分は物流屋だ。仕組みの中と外を分担する、ただの仕事仲間。


 それ以上を望むのは、たぶん分不相応だ。


 彼女がいる場所と、自分がいる場所は、最初から違う。泥だらけの砦で一緒に走り回っていたときは忘れていられた。でも、さっきの正装を見たとき、それを思い出した。


 あの人は国を動かす側で、自分は荷物を動かす側だ。並んで立つのは、仕事の間だけでいい。


 ——本当に?


 自分に聞いて、答えが出なかった。


 考えかけて、やめた。在庫の中に「未分類」の棚がある。名前がつけられないものは、そこへ置いておく。今の自分にはまだ、この感情を正しい棚に入れる力がない。


 でも、未分類のまま捨てる気にもなれなかった。


 それともう一つ、聞けていないことがある。砦であの人が目元を押さえた夜のこと。千里眼を使ったあとの、かすかな歪み。気づいていないふりを続けているのは、たぶんお互い様だ。


 棚の名前は、たぶんもうわかっている。ただ、ラベルを貼るのはもう少し先にする。


◆ ◆ ◆


 風が吹く。


 丘の下では、誰かが「佐藤ロジー! 次の荷!」と叫んでいる。正式名称は立派でも、みんなが呼ぶのはもうそっちだ。


 健治はハンモックから降り、拠点の看板をもう一度見上げた。


 正式には『佐藤ロジスティクス』


 けれど、村の誰もそんなふうには呼ばない。

 皆が口にするのは、もっと短くて、もっと馴染みがよくて、今の自分にはちょうどいい名前だ。


 ——佐藤ロジ。


 ふと、思い出した。

 召喚陣の記録が、王宮の書庫にあるらしい。ルーファスが事務的に報告してきた。


 理論上は、逆方向の術式を組めば帰還の可能性があるという。


 帰る。元の世界へ。あの会社へ。


 一瞬だけ考えて、健治は鼻で笑った。帰ってどうする。


 また在庫表を睨んで、上司に詰められて、終電を逃す生活に戻るのか。

 それとも「あちら側にも佐藤ロジが必要です」とか言って、元の世界でも物流革命でも起こすのか。


 どっちも違う。


 帰らないのは、こっちに「やること」があるからだ。帰れないのではなく、帰らない。その違いは大きい。選んでここにいる。それだけで、あの六年間よりずっとましだ。


 世界を救ったかどうかは、正直もうどうでもよかった。


 少なくとも今日、ここでは物が流れ、人が食べ、ちゃんと休める。


 それで十分だ。


◆ ◆ ◆


 その日の夕方、王都の商業ギルド本部に、一枚の報告書が届いていた。


「辺境における無登録流通網の拡大について」


 差出人の名前は、あの日市場で健治の前に立った検査官だった。

 報告書には、佐藤ロジスティクスの一年間の取引量、推定利益率、影響を受けた王都内流通業者のリスト、そして——魔族との直接取引の実態が記されていた。


 ギルド長が報告書を読み終え、机に置いた。


「辺境の物流屋が、一年でここまで育つとはな」


 傍らに立つ副長が低く言った。


「野放しにするのですか」


「今すぐは動けん。王女の後ろ盾がある。顧問契約で王宮とも繋がっている」


「ですが、このままでは」


「ああ。このままでは、ギルドの存在意義が問われる」


 報告書の最後には、赤いインクで一文が添えられていた。


『対応を要する。——検査局長』


 王都の歯車は、ゆっくりと、しかし確実に回り始めていた。


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