承
「そんな……!?」
襟人は駆け寄り、屋上の端から下をのぞき込む。
ここから地面までの高さは、およそ34メートル。
マンションの12階と同じ高さだ。
落ちれば骨はくだけ、即死する。
「……いない」
地面に、ベレー帽の少女の姿はなかった。
血の跡も、服の切れ端すらない。
誰もいないコンクリートだけが、冷たく広がっていた。
「まさか……跡形もなく消えた……?」
混乱する頭を打ち消すように、後ろから声がした。
「僕はここです!!!」
振り返った、その先──。
屋上のど真ん中で、腕を組み、鼻高々に勝ち誇った笑顔を浮かべるベレー帽の少女がいた。
最初から一歩も動いていなかったかのように、堂々と立っている。
「どういうことですか……!?」
襟人の声に、初めて恐れが混じった。
理屈も、当たり前のルールも──。
今この瞬間、そのすべてが壊れ去った。
世界が狂っているのか?
それとも、夢か幻でも見ているのか?
だが、目の前には確かに彼女が立っていた。
この世界の当たり前を、笑い飛ばすかのように。
「──これは『バグ』です。 『マンヒョンびゅう2階分の高さから、グラタンと叫んで飛び降ぎると、きょく前にいた場ひょへワープするというバグ』です」
「……『マンション12階分の高さから、グラタンと叫んで飛び降りると、直前にいた場所へワープするバグ』!?」
襟人はその言葉の意味をすぐには理解できず、ただそのまま聞き返すことしかできなかった。
「例えば、ゲームで遊んでいると、プログラムの欠陥で思いがけない動きが起こって、普通ならできないことができるようになることがあぎますよね?」
「ええ、あります。 昔の私は、PlayStation 2の『ドラゴンボールZ Sparking! METEOR』でよく遊んでいたのですが、壁をすり抜けるバグを使って入れない建物に入り、本来ありえない状況を楽しんでいました」
戸惑いながらも答える襟人に、彼女はニッコリとうなずいた。
「電脳世界にバグがあるように、この世界にもそれは存在ひます。 デタラメな行動で予想外の影響を与えることで、人はときどき、神様のような奇跡を起こすことができるんです。 僕は今──そのお手本をを、貴方にお見せひました!!!」
ベレー帽の少女の声が、静かな屋上に響く。
「こういったバグを見つけだすのが──『デクーヴゥール』です」
「バグ」──現実に存在する、ありえない現象。
襟人の常識が、大きな音を立てて崩れていく。
「……なるほど。 これを上手く利用できれば、人類の困りごとを解決することにもつながるかもしれませんね……」
彼は驚きながらも、目の前にあらわれた新しい考え方を、早くも理解しようとしていた。
「昔、『ファイナルファンタギースギー』というゲームで、あるプログラマがバグを活用して、限界を超えたスピードで飛空艇を動かひた……みたいな、不可能なことを可能にするパワーが隠されているんです!」
ベレー帽の少女は、身近なゲームなどの知識も交えて、嬉しそうに話に混ぜてくる。
「ナーシャ・ジベリのことなら、その伝説は嘘の話ですよ。 彼がすごいプログラマーなのは確かですが、その技術はバグに頼らなくても、正しいプログラミングで作ることができます」
だが誤った情報だったので、襟人はすぐに間違いを指摘した。
「えっ、そうだったんですか……」
ベレー帽の少女は、口をぽかんと開けた。
その瞬間、襟人は「しまった」と気まずい顔になる。
頭に浮かんだのは、過去に間違いを指摘したとき、怒ったり逆うらみしてきた大人たちの顔だ。
担任教師のように、後から意地悪をしてくる者もいた。
そうやって自分は嫌われてきたのだと、彼は思い出していた。
「僕、今まで仲間を集めるたびに、このはなひをひていたのに……」
少女は、しゅんと肩を落とした。
襟人は、彼女が次に何を言い出すのかと怯える。
「でもこれで、これからは間きがえずに済みます。 あぎがとうございます!!!」
だが、彼の予想を裏切り、彼女は満面の笑みで感謝を伝えてきた。
「……どういたしまして」
その素直な笑顔に、襟人は心が洗われるような気がした。
そうだ。
間違えることは、決して恥ずかしいことではない。
それは、正しいことを知るためのきっかけだ。
自分もそうやって知識を身につけてきたのだから。
それをちゃんと分かっている彼女は、なんて気持ちの良い人なのだろう──。
そう思ったとき、彼は彼女に好感を抱いていた
「それはともかく」
しばらくして、襟人は顔色ひとつ変えず、静かに口を開いた。
「話は全部分かりました。 『マンション12階分の高さから、グラタンと叫んで飛び降りると、直前にいた場所へワープするバグ』──。 これを見つけるために、今までどれだけの時間と命が失われたのでしょうね」
「……」
彼の問いかけに、彼女は小さく下を向き、口をつぐんだ。
「何度も挑戦と失敗を繰り返したはずです。 言葉や姿勢、場所や時間帯……考えられるすべての組み合わせを試す必要があります。 飛び降りるたび、多くの人間が何も成果を得られないまま死んでいったのでしょう。 デクーヴゥールとは、多くの犠牲の上に成り立っている。 つまり、この業界は、ずっと重い人手不足に悩まされている……ということですね?」
「そうですね……機関に必要なのは、言わば使い捨て。 聞いたところによれば、負債のような弱みに付け込み、穏やかではない手を使って強引に引き込んだ例もあるようです……。 貴方のように生きる希望の無い人間を有効活用できるよう、どうにか働きかけろという命令を、僕は受けています……」
ベレー帽の少女は、背中を丸めながら申し訳なさそうに言葉を絞り出した。
その小さく縮こまった姿は、まるで怒られている子供のようだ。
「も、もきろん……! この勧誘は強要ではないです!!! 断ってもらって、全然構いません!!!」
彼女は襟人の顔色をうかがい、慌てて一歩引いた。
腕を組んでじっと考える彼が、怒っているのではないかと思ったのだ。
だが、違った。
襟人は、デクーヴゥールの良し悪しについて怒っていたわけではなかった。
ただ、自分の理解を超えているはずのその存在に、どこか懐かしい感覚を覚えていた。
まるで、自分は最初から『デクーヴゥール』を知っていたかのように。
記憶の霧の奥から、ひとつの場面が浮かんできた。
──血にぬれたコンクリートの上に横たわる、一人の青年。
全身の骨が折れ、命が消えようとしている。
それでも、その口元は動いていた。
「……カナッペ……テリーヌ……ヴィシソワーズ……テルミドール……ソルベ……ブフ・ブルギニョン……カマンベール……クレーム・ブリュレ……マカロン……」
かすれた声で、料理の名前を言い続けている。
彼は、死に際まで自分の仕事をやり遂げようとしていたのだ。
それが誰なのか、襟人には分からなかった。
けれど、確信だけがあった。
(……あれは、私だったのですね……)
そうとしか思えなかった。
自分の異常な頭脳や分析力、天才的なひらめき──。
自分という存在そのものが、あの死の瞬間に生まれた「バグ」だったのかもしれない。
「……?」
襟人が呟いた言葉に、ベレー帽の少女は首をかしげる。
「──面白い……!」
襟人の口元が、強い決意を込めた笑顔に変わった。
「ありがとうございます! 貴方は私の命の恩人です。 私は落ち込む気持ちにとらわれ、周りが見えなくなっていました。 見えていたのは、死へと続く一本の道だけ。 考えることすらやめていた私に、貴方は一度立ち止まるチャンスをくれたのです。 おかげで、自分にはまだ他の道が残されていると気づけました。 私は──貴方が見せてくれた道を進みます!」
「え……それって、デクーヴゥールになるということですか!?」
「その通りです!」
襟人はで高らかに声を上げた。
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