前編
人里離れた山の奥深くには「不釣り合い」だと感じられる、
幅員の広いコンクリート舗装の道を抜けた先に、
それはひっそりと佇んでいた。
バブル期の勢いに乗り建てられた”巨大アミューズメントパーク”──
ふんだんな資金を注ぎ込まれたアトラクションたちは、いまや軒並み撤去されている。
「名残」として辛うじて残っているのは、
”メリーゴーラウンド”の土台と、併設された”宿泊施設”のみ。
それらは使われることもなく、外装は苔と黒ずみに覆われ、
まるで山に取り込まれた”遺物”のような佇まいを見せていた。
かつての盛況を偲ばせるその姿は、今や静かに自然へと呑み込まれつつある。
周囲に人の気配はなく、風が杉の葉を揺らす音だけが空間を満たしていた。
看板に文字は残っておらず、その名を覚えている人間は、もういない。
かすれた風が吹いた。
瓦礫に埋もれたエントランスを抜けた先に広がるロビー。
清掃など手が入ることもなく、”セーヌ川”のように汚れ切った空間でありながら、
”ヴェルサイユ宮殿”を彷彿とさせる装飾は、なおも光を反射している。
早朝、この場所を無言で通り過ぎたのは、10代後半の”ポロシャツ姿の男”だった。
中肉中背で白皙。目鼻立ちは小ぶり。
髪と眉は自らの手で整え、”藤田嗣治リスペクト”の”おかっぱ頭”が”トレードマーク”だ。
一見すれば、可もなく不可もなくといった平凡な風貌の人物に見えたが、
凪いだ湖面のように冷静な瞳の奥には、凡人の及ばぬ領域の”知性”が潜んでいた。
彼の名は「襟人」。
その人物像を語るうえで、まず”卓越した頭脳”という説明を外すことはできない。
まさしく、”ギフテッド”と呼ばれる存在だ。
量子コンピュータ、AGI、核融合発電、室温超伝導──
これらは、いずれも”実用化”にはまだ遠い、”お伽噺”じみた産物。
しかし、彼ならそれらを”ノンフィクション”へと引きずり出すことができるだろう・・・
過去にはそうした才覚を買われて「スーパー中学生」などとマスメディアに取り上げられ、
地元テレビ局のローカル番組に出演した経験もあるほどだ。
その時点で、志望校である灘高等学校の模試判定はすでに「A」。
それどころか、見据えるはるか先──東京大学理科一類の合格基準すら超えている。
いずれは海を渡って、”ロスアラモス国立研究所”に身を置き、
”核兵器”や”神の杖”といった”軍事研究”に携わる――
そんな”キャリアビジョン”まで、在りし日の彼は構想していた。
その”果てしなき野望”たるや、
「秀才」や「優等生」のような月並みの言葉の射程をはるかに凌ぎ、
その名の由来たる「選ばれし者」を意味する言葉の体現だと言える。
襟人は、軋む踏板に気を付けつつ、階段を上り、屋上へとたどり着いた。
誰もいない扉の前で、乱暴に足を振り上げ、勢いよく蹴りつける。
耳を劈く音とともに扉が倒れ、その先に広がっていたのは──
錆びた丸い金属製の水タンクに、朽ち果てたテレビやラジオのアンテナ。
そして、遥か遠くの山々を一望できる、どこまでも開けた風景だった。
彼は床に腰を下ろして両膝をつき、パラペットを机代わりに両手を置く。
静かな目で下界を見つめながら、ふと脳裏に浮かんだのは、
かつてこの「シャトー」が賑わいと笑い声に満ちていた頃の光景だった。
快楽と興奮の只中で、”バカンス”に踊る”ファミリー”の姿。
その幻が、注目と称賛の只中で、問題を解く自分自身の姿に淡く重なって見えた。
やがて、彼はカバンの中から一台の古びた”ノートPC”を取り出す。
それは、小学生の頃、塾の全国統一試験で首席となった際に贈られた記念品だった。
今やメモリも足りず、起動も遅い。
だが、彼は今でもそれを手放さなかった。
手に馴染んだキーボードに触れながら、彼の表情にわずかな”翳り”が射す。
かつて、生まれ持ったその”異能”で世界を圧倒してきた青年は、
今、この廃墟の上で──
自らもまた、どこか「時間の止まった存在」であると感じていた。
静かに風が吹き、彼の前髪を揺らした。
「私は・・・”いらない人間”だったのですね・・・」
彼の視線は遥か彼方の山並みに向けられていたが、その焦点は、どこにも合っていなかった。
自らの”レゾンデートル”さえも見失い、漂う、ただならぬ”悲壮感”。
現在の襟人は18歳。大学一年生にあたる年齢だ。
しかし、彼は東大生ではない。
それどころか、灘高校に進学することもなく、最終学歴は──「中卒」。
就職もせず、職業訓練を受けているわけでもない。
これはいわゆる”Not in Education, Employment, or Training”──
つまり”ニート”の条件に合致する。
彼は中学三年生から今日この日まで、”引きこもり生活”を続けていた・・・
彼の人生を振り返ってみると、そこに”失敗”という言葉は”存在しなかった”。
まだ言葉を覚えはじめたばかりの頃、
彼の口からはすでに円周率の小数点以下、数百桁が正確に並べられていた。
5歳にして日本語・英語・仏語の三ヶ国語を自在に操り、
6歳で微積分を解き、
10歳にして大学院生の勉強会に混じり、議論を交わすまでに成長していた。
どんな課題であれ、周囲が頭を抱える中、
彼だけは顔色ひとつ変えず、目から鼻に抜けるようにあっさり乗り越え、
己の”目標”に向かって”邁進”してきた。
蛇は寸にして人を呑む──
その”特性”はまさしくそうしたものだった。
春秋に富み、”人類への貢献”を夢見て疑わなかった、”輝かしい少年時代”。
だが同時に、その”天賦の才”は、図らずも周囲を蛇に睨まれた蛙へと変えてしまった。
”栄光”の裏で、彼は常に”孤独”の中。
周囲の”嫉妬”と”警戒”の眼差しの中で、
誰もが表面上は敬意を装いながら、裏では爪を立てる機会をうかがっていた。
そして──それは、ついに”事件”という形で訪れた。
生まれてこの方、襟人は”友達”が一人もできたことがなかった。
クラスの中で自分が”浮いている”ことを、彼自身もはっきりと自覚していた。
そんな彼にとって、言葉を交わしたことのある相手といえば、
襟人に次いで常に”学年2位”の成績を誇るクラス委員長が、
行事について伝えてくれる、その時くらいのものだった。
ほんの僅かな”業務連絡”にすぎない。
それでも襟人は、その時間を素直に嬉しく思い、彼に”感謝”していた。
同世代の他人と話すひとときは、
彼にとってささやかながら、確かな”楽しみ”だったのだ。
彼には”夢”があった。
それはいつか”週刊少年ジャンプ”の話題について委員長と語りたいというものだ。
文学、哲学、代数学、幾何学、解析学、統計学、言語学、
物理学、植物学、動物学、化学、地学、歴史学、地理学、法学、政治学、経済学──。
あらゆる学問分野に精通していた襟人だったが、
彼が最も強い興味を向けていたのは、
アニメや漫画といった”サブカルチャー文化”だった。
理由は「特になし」。
論理的な説明を試みたところで、それらはすべて”後付け”だ。
強いて一つ挙げるとすれば、結局のところ「直感」としか言いようがない。
これが「赤い糸」というものなのだろう。
「大人顔負け」と評される彼も、
”趣味嗜好”の面においては、いたって”年相応”である。
なかでもジャンプへの”こだわり”は強く、
彼はデジタル版を”定期購読”していた。
発売日の月曜深夜0時になるや否やブラウザに飛びつき、
掲載される漫画については”ジャンル”を問わず、
最初のページから最後のページまで、余すことなく噛みつくす。
何もせずとも一日の睡眠時間が三時間ほどの”ショートスリーパー”であるというのに、
その日は決まって、まんじりともせず朝を迎えることを繰り返していた。
ジャンプへの”愛情”は、”サン・マロ湾”よりも深く、”ピレネー山脈”よりも高い。
その想いを、誰かと分かち合いたい。
たとえば、”ヒット作”から”打ち切り漫画”にまで広く及ぶ、
自分の”お気に入り漫画”について”長広舌”を振るい、
自分の目の前にいる誰かと議論することができたなら──
それだけで”御の字”だと、
当時の襟人は、いつもそう考えていたのである。
彼はその日も、食堂で昼食を摂りながら、
今週号のジャンプのことで頭の中を埋め尽くし、
暢気にも、”モンブラン”の標高に匹敵するほど心を高揚させていた。
しかし、人目を憚らずに表情を”にやにや”とさせていたことが、
自分自身の”破滅”を”助長”することになるとは・・・
そのような展開、夢にも思っていなかっただろう・・・
襟人が教室に戻ると、そこは上を下への大騒ぎになっていた。
その”混乱”の”当事者”は、委員長だった。
なんと、金銭や定期の入った”長財布”が、何者かによって盗まれていたというのだ。
目の前で起きている出来事に、襟人は”激しい憤り”を覚えた。
だが、その直後──
背後から、クラスメイトの一人に肩を叩かれる。
「・・・おい、これ・・・お前の机から出てきたぞ」
その言葉の意味を、襟人は理解できなかった。
いや──理解することを、拒んだ。
「やっぱりお前だったのか!!!
コイツ、さっき飯を食ってる時、不気味に笑っててさ。
滅茶苦茶”怪しかった”んだよなあ!!!」
一人のクラスメイトの声が、その場の空気を鋭く切り裂いた。
「”巾着切り”の正体が、まさか襟人君だったなんて・・・
”ショック”だよ・・・君は、なんて”浅薄な人間”なんだ・・・」
委員長は、嵩に懸かるように襟人を非難し、
その言葉を吐き終えると同時に、両手で顔を覆った。
周囲の視線が、一斉に「被疑者」へと向かう。
あまりにも”露骨な仕掛け”に、現実感がなかった。
襟人は、誰が仕組んだのかを瞬時に悟った。
委員長の口元に、隠しきれない微かな笑み――
その”表情の歪み”が、何よりも”雄弁”だった。
そして、クラスメイトたちの”過剰な反応”。
演技じみた悲鳴と、正義を気取った非難の声。
彼は理解した。
自分は――完全に”嵌められた”のだ、と。
委員長は長らく”万年2位”の立場に”鬱屈”を抱いていた――それはまだ良い。
しかし彼は、努力によって襟人を超えるという”正当な手段”を選ばずに、
邪魔者を陥れて”繰り上げ1位”になろうとする、”屑”だったのだ。
クラスメイトたちもまた、彼の”卑劣な計画”を疑うことなく受け入れ、
共に襟人の足を掬うべく、打てば響く”豺狼”ばかり・・・
「先生!!!私ではありません!!!大体、考えてください・・・
仮に私が”犯人”だったとして――
盗んだものを、自分の机に入れたままにしておくなんて、
そんな”不用心”で”稚拙”な真似、するわけがないでしょう!!!」
襟人は声を荒げながらも、理路整然と”無実”を訴えた。
だが、担任は彼の話に取り合おうとはしなかった。
深いため息をひとつつき、冷たく言い放つ。
「・・・”くだらない弁明”はやめろ。少しばかり頭がいいからって、何でも通ると思うな」
その言葉に、襟人の体が凍りついた。
向けられた眼差しには、”心当たり”があった。
数ヶ月前──授業中に説明の誤りを指摘したとき、教師が見せた”敵意の目”。
その瞬間、彼は悟った。
”真実”など、最初から”どうでもいい”。
ただ、自分という存在が”目障り”だったのだ。
”排除”するのに、ちょうどいい”口実”が欲しかっただけ。
襟人は、教室のざわめきを遠くに聞きながら、心の中で何かが崩れていくのを感じた。
――この世界に、”自分の居場所”など、”最初からなかった”のかもしれない。
それから、彼は学校へ行かなくなった。
「なんて仕打ちだ・・・
私が望むのは”権力・財産”のような大それたものでなく、”安常処順”だけ。
なぜそれを手にすることが許されないというのでしょうか・・・
”吉良吉影”みたく、”気色悪い人殺し”もしていないというのに・・・」
委員長に煮え湯を飲まされ、すっかり”人間不信”となった襟人は、
一日中モニターの前で”自分の殻”に閉じこもる生活を送っていた。
だが、現在――
ノートPCに文章を綴るその風采は”清潔”で、背筋も”真っすぐ”伸びている。
彼は、どんなに落ちぶれても、人間としての”美しさ”を捨てることはなかった。
毎日欠かさず筋トレとストレッチで体を動かして、”運動不足”を解消し、
風呂で汗を流したあとには化粧水でスキンケアを施し、
Panasonic製の頭皮エステでのマッサージも怠らない。
外出は極力控えていたが、それでも3ヵ月に1度ある歯科の定期健診だけは欠かさなかった。
”規則的な生活”を守り、”健康”を保つことに気を配っていたのだ。
しかし、”精神”は”肉体”とは対照的に、ゆっくりと蝕まれていった。
”社会的地位”を何も持たない自分──。
1年、2年と、ただ時間だけがあっという間に過ぎていくことに、
次第に”将来への不安”を覚えるようになった。
このままではいけないと思い立ったのが、つい2週間前。
彼は重い腰を上げ、”求人サイト”を開いた。
目に入ったのは、近所にある飲食チェーン店の募集。
「未経験歓迎」とうたわれたそのページには、
「特別な技術は必要なし」、
「簡単な作業から一つ一つ覚えていけばOK」、
「些細なことでも質問できる先輩スタッフがいる」など、
業界について知らない人間でも安心して働けるような”アピールポイント”が並んでいた。
最後には、「アルバイトデビューも応援します」という”励ましの言葉”も。
”やり直せる場所”があるのなら、自分も”前”を向いて歩みを進みたい。
彼はそう願って、必要な情報を入力し、静かに”応募ボタン”をクリックした。
面接の日、襟人は向こう鉢巻きで臨む”真剣さ”を示そうと”背広”に身を包み、
履歴書を手に取って”威儀”を正した。
迎えたのは、本日面接を担当する店長。
求人の文面の明るい口調とは打って変わり、声の調子は”冷淡”で、”業務的”だった。
最初に問われたのは、”経歴の空白”について。
「お恥ずかしい話、私は今の今まで進学もせず、就職もせず、”惰眠”を貪っておりました」
襟人は、店長からの”白眼視”にも怯むことなく、堂々と答えた。
備えあれば患いなし。
彼は事前に”情報収集”と”イメージトレーニング”を重ね、苦心惨憺していた。
自分にとって不都合なことを聞かれたときは、ごまかさず端的に答えるのが良い――
そう、”対策”に関する複数の記事に書いてあった。
面接は進み、重点的に問われたのは、
「なぜうちで働くことを選んだのか?」、「あなたに何ができるのか?」という2点だった。
”志望動機”については、”人間の幸福”に欠かせない”食事”に関わることで、
”モチベーション”を高く保ち、”社会の一員”として長く”貢献”したい旨を伝えた。
”スキル・特技”については、
かつて参加した大学院生の勉強会での”話のさわり”を、できるだけ噛み砕いて説明した。
内容について分かりやすくまとめるなら──
「タイムスリップが実現し、誰かが過去を改変したとしても、
もとの世界は変化せず、新たなパラレルワールドが誕生する」
という理論である。
つまり、『ドラゴンボール』の”セル編”で描かれた出来事が、
”先人の研究”によっては現実でも起こり得るのではないか、と提唱されているのだ。
それは当然、飲食業とは”全く関係のない領域”だったが、
”何かに真剣に取り組んだという経験”は、分野を問わず通じる――
その”姿勢”を理解してもらいたかったのだ。
だが、次第に”息苦しさ”が襲ってきた。
”手応え”というものが、まるで感じられない。
最後の逆質問の番になり、
襟人は、懐からシャープペンシルとメモランダムを取り出して、
あらかじめ箇条書きしておいた項目を、一つずつ尋ねようとした。
だが、3つほど尋ねたところで、言葉は途中で遮られてしまった。
「質問はこのくらいでいいですか?採用・不採用にかかわらず、数日中に連絡します」
店長の突き放すような態度に、襟人は”這う這うの体”で店をあとにした。
「なんて仕打ちだ・・・
私が望むのは”権力・財産”のような大それたものでなく、”安常処順”だけ。
なぜそれを手にすることが許されないというのでしょうか・・・
”吉良吉影”みたく、”気色悪い人殺し”もしていないというのに・・・」
綿のように疲れたその足取りは、ひどく重かった。
突きつけられたのは、”集団生活”からの”拒絶”。
出端をくじかれたその姿は、もはや”ピエロ”として笑われることすらなかった。
それでも、彼は信じた。
どの質問に対しても、沈黙することなく答えを提示し、
”言葉のキャッチボール”は確かに成立していた。
”最低限のコミュニケーション能力”は保証できており、
自分の”パフォーマンス”は、間違いなく”最善”だったといえる。
あとは――人事を尽くして、天命を待つのみ。
彼は、祈るように日々を過ごした。
そして、携帯電話が鳴った。
襟人は震える指先で、着信画面の緑の受話器マークをスワイプする。
「採用の件ですが──」
電話口の店長は、あの時と変わらぬ”淡々とした口調”で話を進めた。
襟人は息を呑む。
「今回は、見送ります」
全身の力が、どっと抜けた。
「・・・分かり・・・ました・・・お疲れ様です・・・」
何とか言葉を絞り出すと、数秒の沈黙ののち、電話はプツリと切られた。
襟人は、後ろに数歩よろめき、糸の切れた操り人形のようにベッドへ倒れ込んだ。
”好意的”に解釈すれば、
「あなたには他に相応しいところがある」ということなのかもしれない。
だが、少しでもそう思うなら、
最後に「今後のご活躍をお祈り申し上げます」と、
せめて定型句のひとつでも添えるぐらいは惜しまないはずだ。
「未経験歓迎」などという言葉は畢竟、最初から”方便”にすぎなかったのだ。
”理屈”で考えれば、”業界経験者”に働いてもらいたいに決まっている。
募集ページのあの柔らかな文章は、
そういった人間を”安心”させて、”鈴なり”と集めるための”餌”だったのだ。
本当は分かっていた。
だが――それでも信じたかった。
”一度ドロップアウトした人間”にも、”救いの道”はあると。
襟人の頭に、委員長、担任、店長が順番に思い浮かぶ。
「自分さえが良ければ、それでいい」と、
他者を”欺瞞”して”切り捨てる”ことが”まかり通る”この社会に、
彼はすっかり”倦厭”していた。
手元の携帯電話の光がその顔を照らす。
追い打ちをかけるように”あること”を知った瞬間、顔色はさらに沈んでいった。
そして次に彼が起き上がったとき、
その胸の奥では、「次の計画」――いや、「最後の計画」が静かに動き始めていた。
「・・・”乱雑”と考えていないで、真一文字に”死にましょう”・・・
”成功の蓋然性を上げる”ためにも、”迷い”は”厳禁”です」
呟きは誰にも届かず、風にさらわれて消えていく。
だが、それでいい。思いはすべて、このノートPCに託してある。
襟人は”最期の言葉”を完成させた。
遺書.txt
今は、”インターネット”を通じて手軽に「他人の考え」を知ることができる時代です。
アルバイトの面接で不採用となった私は、その”理由”を探し求めるうちに、
”副産物”として一つの「採用における考え方」に触れ、
”肺腑を抉られる思い”をしました。
面接予定者が来なかったとき、忙しいので特に対応しない──
それ自体は理解できます。
私も、”約束を守らない人間”のために手間を取ろうとは思いません。
けれど、もしその人の身に何かが起こっていたとしたら──
私はつい、そんな”極端な可能性”を考えてしまいます。
しかし、採用担当者の立場からすれば、
「どのみち、うちで働けないなら関係ない」という理屈になると知りました。
──”人と人とのえにし”を軽んじる、その”冷たさ”。
そこには”合理”だけがあり、”感情”は置き去りにされています。
どちらが良い、という話ではありません。
”極端”に振り切ることが「正解」だというのなら、
私たちの生活に根付いた”問題”は、とっくの昔に”解決”しているはずです。
「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」──
両者を併せ持ち、その”塩梅”を考え続けることにこそ意味があるのだと思います。
なのに、その”労苦”を厭い、
”表面上の判断材料”だけで早々に”結論”を出し、”楽な道”を行く。
──”抽象化”すれば、それこそが私の憎む”社会の一面”です。
”相手の立場”を想像できない人間は、
”自分がやらないこと”を他人にしてもらえると思っているのでしょうか。
──「お互いが支え合える世界」を作るには、
まず自分が”誰かの手”を取らなくてはならない。
私はそう信じています。
ですが、そんな考えは今の世界では「異端」なのかもしれません。
それを証明するかのように、
私はいつしか人の群れからはぐれ、坂道を転げ落ちていきました。
この箸にも棒にもかからぬ状況から抜け出すことも叶わず、ただただ時間を浪費する明け暮れ。
──私は、「必要とされる人間」にはなれませんでした。
彼はCtrlキーとSキーを軽く押し、保存した。
そのままゆっくりとノートPCを閉じ、靴を脱ぎ、丁寧に並べる。
立ち上がると、わずかに足元が揺れた。
襟人は昨晩から、何一つ口にしていない。
道中で美味しい物でも食べておけばよかったか――
そんな考えが、ふと脳裏をよぎる。
彼の”好物”は、「イオンのフードコートで一人食べるカツ丼」だ。
油で揚げたホクホクの豚の”カツレツ”に、
だしの効いたとろとろの”卵”、
そしてずっしりと構えたふわふわの”白米”。
それらが一体となった完成度は高い。
サクサクだった衣は、甘辛い割り下と半熟の黄身を吸って程よくしんなりし、
肉の旨味と脂の甘み、だしの香りが相性良く米粒と結びつく。
その結晶を口に運べば、サクサクとトロトロが入り混じった食感もまた忘れがたい。
オマケに付いてくる温かい”みそ汁”で、体も芯から温まる。
空腹時はもちろん、少し疲れた日にも心に刺さる食べ物だった。
一食につき一枚もらえるクーポン券を七枚貯めれば、
無料でカツ丼一杯と引き換えられる。
彼にとって、店舗は山ほどあれど、ほかを選ぶ理由はなかった。
「まあ、どうでもいいです」
しかし、もはや”食への情熱”など”消え失せてしまっている”。
そのまま、何度も確認したうえで、おもむろにパラペットの上に登った。
風が、一瞬止む。
襟人は背筋を伸ばし、足元を見つめながら、さっきまで眺めていた山並みに背を向けた。
いかなる場合においても、彼は”完璧”を求めている。
”もやい結び”や”練炭”についても調べたが、”重力”が「最適の道具」だと判断した。
”躊躇”はない。
”助けられる可能性”も、ひとつひとつ想定し、すべて入念に潰し続けた。
この場所を”死に場所”に選んだのも、救命が確実に遅れる”地の利”があったからだ。
あとは、両手を広げ、背中から倒れこむように落ちれば”即死”。
姿勢さえ崩さなければ、”失敗”はない。
そう、”自殺”でさえ、”正しいフォーム”があるのだ。
──その時だった。
「そこの”ムッヒュ”!!!待きなさいッ!!!」
”玉を転がすような声”が、山奥の静寂を裂いた。
それは突き刺すように鋭く、あまりにも突然だった。
襟人の動きが止まり、目が見開かれる。
前かがみになったその視線の先に──”いた”。
──いや、”出た”という表現のほうがふさわしい。
その人物は、まるで空気の歪みから生まれたかのように、
時間と空間の裂け目から立ち現れたようだった。
一切の足音も、気配も、まるでなかったというのに──
それでも、そこに確かに”存在していた”。
”花顔雪膚”の”ベレー帽の少女”。
彼女はさながら「清純派女優」──
”左翼”の”言葉狩り”によって今や失われつつある”艶やかな表現”がよく似合う。
たちどころに芸能界のスターたちの顔を思い浮かべても、見劣りしない”透明感”だ。
ウェーブのかかった”ベージュ色”の長い髪が風に揺れ、
大きな灰色の猫目が、襟人をまっすぐに射抜いている。
全体的にやや色の薄い容貌とは対照的に、
その小柄な体は、全身黒づくめの軍服風の服装に包まれていた。
片手に持つ大きな”アタッシェケース”のせいで、その姿はまるで”人形”のように見える。
そして、首元のネクタイが緩みなく綺麗に結ばれ、
”凛々しさ”を感じさせる一方で、
ミニスカートからすらりと伸びた細い脚は、
”オーバーニーソックス”に包まれていて、どこか”あどけない”。
まるで”2次元の世界”から飛び出してきたかのような理想的な”シルエット”を持つ──
”萌え萌え美少女”だった。
襟人は、思わず自分の”常識”を疑った。
この世界の自然法則について、彼は誰よりも精通していようと、
平生より学びを怠ったことがない。
だが、いま目の前で起きていることは、理の外にあった。
まるで”トロンプ・ルイユ”でも見た後かのように、現実がにわかに歪んで見えた。
「誰・・・です?」
ようやく絞り出した声は、蚊の鳴くように弱く、小さかった。
ベレー帽の少女は、静かに言った。
「──貴方には、”役目”がある。この世界から消えるのは、まだ許されていない・・・」
その声には、全身を震わせるような何かが宿っていた。
襟人の中で、”完全無欠”だったはずの”予定”が、音を立てて崩れ始める。
「僕は貴方に、「生きろ」とは言いません──
だけど、どうせひぬなら、”デクーヴゥール”になってからひになさい!!!」
ベレー帽の少女は、戦場へ赴く兵士に命を下すような口調で言い放った。
襟人は顔を顰める。
彼女は至って真剣な表情で訴えかけてくるが、各所随所で”発音がおかしい”のが気になった。
「「デクーヴゥール」・・・?」
だが今は、それ以上に耳に残った”聞き慣れない音節”のほうに意識が向く。
思い当たるとすれば──「découvreur」。
これは日本語で「発見者」を意味する単語だ。
何を”発見”するのか?
彼はこれまでの状況の流れや、ベレー帽の少女が先ほど発した言葉といった──
”僅かな文脈”から、その”意味”を導こうと試みる。
「それはもしかして、”蟹漁業”や”鉱業”といった
”強制労働”を私に行わせるつもりですか?
ある”資源”を入手する過程で、”何らかの危害”が及ぶ可能性がある場合に、
その”リスク”を、私のような”死に場所を求める人間”に負わせる──
それが、”貴方の目的”なのですか?」
彼は瞬時に一つの”仮説”を立て、静かに尋ねた。
「すごいですね・・・僕、まだ何も言ってないのに・・・”良い線”ですよ」
ベレー帽の少女は、驚きと感心が混じったような表情を見せた。
「デクーヴゥールについて、ご教授ください」
襟人はやおら慎重に屋上の内側に降りた。
「好奇心」──、
それは、この世のあらゆる知識を飽くことなく貪ってきた彼にとって、
”生”と等価の感情だった。
彼が”安全圏”に戻ったことを確認すると、
ベレー帽の少女は安堵の吐息を漏らし──そして、不敵に笑った。
「喜んで!僕はデクーヴゥールのメンバーですから!」
声が、空に突き刺さるように響いた。
「「デクーヴゥール」とは何なのか?──これはまず、見たほうが早いです」
そう言うや彼女は歩き出し、アタッシェケースを先にパラペットの上へ置くと、
軽やかに自分もよじ登った。
「貴方・・・何をしようというんですか!!!」
襟人が叫ぶ。
これでは、さっきと”立場”が”逆転”してしまっているではないか。
「おお・・・高いわね。
でもまあ、”エッフェル塔”や”凱旋門”よか低い、と考えれば怖さも薄れるわ」
そんな彼を気にも留めず、
彼女はアタッシェケースを片手に持ち直し、下を眺めて暢気に呟く。
そして──
「”グラタン”!!!」
”何の脈絡もない単語”が、彼女の喉から炸裂した。
理解が追いつくより早く、
彼女の身体は重力に引かれ、建物の外へと吸い込まれていった。
「逝ってしまった・・・
あの人は”精神疾患”を患っていて、
私に対して”意味深長”なことを言っていたのも、
単なる”妄想”だったのですかね・・・?」
襟人は駆け寄り、屋上の縁から下を覗き込む。
ここから地上までの高さは”約34メートル”──
ちょうど”マンションの12階分の高さ”に相当する。
落下すれば、骨は砕け、内臓は潰れ、”大抵の場合”、命はない。
「・・・いない」
地面に、ベレー帽の少女の姿はなかった。
血の痕も、肉の破片も、衣服の一端すら見当たらない。
空虚なアスファルトだけが、冷たく光っていた。
「まさか・・・跡形もなく消えた・・・?」
混乱した思考を断ち切るように、背後から声がした。
「僕はここです!!!」
振り返った、その先。
そこには──
屋上のど真ん中で、腕を組み、鼻高々と勝ち誇った笑みを浮かべるベレー帽の少女の姿があった。
まるで最初から一歩も動いていなかったかのように、影一つ揺らいでいない。
「どういうことですか・・・!?」
襟人の声には、初めて”恐れ”という成分が混じった。
論理も、道理も、真理も──
今この瞬間、そのすべてが、彼の掌から零れ落ちた。
世界が狂っているのか?
それとも、これは夢か?錯覚か?幻覚か?
だが、確かに彼の視界に、彼女は立っていた。
その存在が、”すべての理”を嘲笑うかのように。
「──これは、”バグ”です。
「マンヒョンびゅう2階分の高さから、グラタンと叫んで飛び降ぎると、
寸前にいた座標にワープするというバグ」」
「「マンション12階分の高さから、グラタンと叫んで飛び降りると、
寸前にいた座標にワープするというバグ」!?」
襟人はそのフレーズの意味を咀嚼しきれず、ただ鸚鵡返しするしかなかった。
「例えば、コンピュータ・ゲームで遊んでいると、
稀に、”プログラムの欠陥”によって”意図せぬ挙動”が発生ひ、
”普通ならできない動作”が可能になることがあぎますよね?」
「ええ、あります。
昔の私は、PlayStation 2の『ドラゴンボールZ Sparking! METEOR』でよく遊んでいたのですが、
ステージに設置された建物の中へ「すり抜けバグ」を使って侵入し、
”正規のプレイではあり得ない状況”を何度も面白がっていました」
戸惑いながらも言葉を返す襟人に、彼女はにこやかにこくりと頷いた。
「”電脳世界”に”バグ”があるように、この”俗世界”にも、それは”存在”ひます。
”出鱈目な振る舞い”で今の世界に”想定外の影響”を与えることによって、
人間はときに、”神がかった事柄”をその場にもたらすことがあるんです。
僕は今──
その見本の一つを、貴方にお見せひました!!!」
空間に重く響くベレー帽の少女の声は、”不気味な静けさ”を孕んでいた。
その文言は、襟人の脳内で何度も反響する。
「こういうフェノメンを見つけて、”再現性”を確認するのが──
デクーヴゥールという生業です」
「バグ」──現実に存在する”例外の現象”。
この世界は”整合性”で成り立っていると思っていた襟人の”常識”が、
脆くも音を立てて崩れていく──。
「・・・なるほど。これを上手く”利用”できれば、
”人類の抱える課題”の”解決”にも繋がるかもしれませんね・・・」
彼は驚きながらも、目の前に現れた”未知の概念”を、早くも理解しようとしていた。
「かつてスクウェア・エニックスの『ファイナルファンタギースギー』で、
ある”プログラマ”がバグの活用によって、
性能の限界を超えた「飛空艇のはき倍速スクロール」を組み込んだような──
”不可能”を”可能”する出来事を、
ゲームの外でも引き起こせる”可能性”が秘められているんです」
ベレー帽の少女は、どうやら”サブカルチャー文化”に関する知見に自信があるらしく、
話の中に織り交ぜてくる。
「ナーシャ・ジベリの伝説なら、それは”ガセネタ”ですよ。
彼が”天才プログラマ”であることには違いありませんが、
「飛空艇の8倍速スクロール」に関しては
わざわざバグに頼る必要はなく、”正規のプログラミング手法”で”実装可能”です」
だが、”誤った情報”だったので、襟人はすぐに指摘した。
「えっ、そうだったんですか・・・」
ベレー帽の少女は、口をあんぐりと開けた。
その瞬間、襟人はしまったと”決まりが悪い顔”になる。
彼の脳裏に浮かんだのは、かつて自分に”間違い”を指摘され、
「顔から火が出る思いをさせられた」と”逆恨み”してきた人々だ。
その場で”逆切れ”するならまだ良いほうで、
中学時代の担任のように、後になってから”復讐”してくる者もいた。
そうやって自分は他の人間に嫌われて生きてきたのだと、彼は振り返った。
「僕、今まで毎回”スカウト活動”の時に、このトピックに触れていまひた・・・」
ベレー帽の少女は、しゅんと肩を落とした。
襟人は、彼女の”次の言葉”を恐れる。
「でもこれで、これからはミスを犯さずに済みます。
あぎがとうございます!!!」
──だが、彼の予想を裏切るように、彼女は”満面の笑み”で感謝を告げた。
「・・・どういたしまして」
その”素直な表情”に、襟人は心が洗われるような気がした。
そうだ。
別に、”間違えること”は”恥ずかしいことではない”。
それは、”正しいこと”を知るための”きっかけ”を与えてくれるものだ。
自分もこれまで、そんな機会を幾度となく”糧”にして、”知識の泉”を少しずつ涵養してきた。
そのことを理解している彼女は、なんと”気持ちの良い人間”なのだろう──
そう思ったとき、彼は彼女に”好印象”を抱いていた。
「それはともかく」
しばらくして、襟人は顔色ひとつ変えず、静かに口を開いた。
「話は全部見えました。
「マンション12階分の高さから、グラタンと叫んで飛び降りると、
寸前にいた座標にワープするというバグ」──
これをひとつ見つけるのに、今までどれだけの”時間”と”命”が費やされたのでしょうね」
「・・・・・・・・・」
彼の問いかけに、彼女は小さく下を向き、口を噤んだ。
その瞬間、周囲から風の気配すら消えてしまった。
「”試行錯誤”の”連続”ですよ。
キーワードや姿勢、場所や時間帯・・・
”考えうるすべての組み合わせ”を検証する必要があります。
飛び降りるたび、多くの人間がロクな収穫すら得られずに死んでいったことでしょう。
”デクーヴゥール”とは、「巨人の肩の上に立つ」ことで成り立っています。
当然、”今ある命”も、その巨人を形作る一部として”捧げなくてはなりません”。
つまり、この業界は”慢性的な人手不足”に悩まされている・・・ということですね?」
「そうですね・・・
「機関」に必要なのは、言わば「使い捨て」・・・
それを求めて東奔西走させられている人間は、僕以外にも”全世界”にいます・・・
聞いたところによれば、「負債」のような”弱み”に付け込み、
”穏やかではない手”を使って強引に引き込んだ例もあるようです・・・
貴方のように”生きる希望の無い人間”を”有効活用”できるよう、
どうにか働きかけろという”命令”を、僕は受けています・・・」
ベレー帽の少女は、背中を丸めながら言葉を絞り出した。
そのしゅんとした姿は、その短躯もあってか、まるで”叱られている子供”のようだ。
「も、もきろん・・・!この”勧誘”は”強要”ではないです!!!
断ってもらって、全然構いません!!!」
彼女は襟人の顔色を窺い、慌てて一歩引いた。
「・・・・・・・・・」
腕を組んで黙考に沈む彼が、怒っているのではないかと疑った。
だが、そういうわけではなかった。
襟人は、デクーヴゥールの”是非”について肯定も否定もしなかった。
ただ、本来なら自分の理解を超えているはずのその存在に、
どこか”不思議な感覚”を覚えていた。
それは畏怖でも懐疑でもない──むしろ、微かに”懐かしい感触”。
まるで、自分はもともと「デクーヴゥール」を知っていたかのように。
その正体はまさしく──”デジャヴ”。
記憶の靄の奥から、ひとつの映像が輪郭を帯び始める。
──視界が歪む。血に濡れたコンクリートの上。
そこに横たわるのは、一人の青年。
全身を砕かれ、”命の灯火”は今にも消えようとしている。
それでも、その口元はなお動いていた。
「・・・”カナッペ”・・・”テリーヌ”・・・”ヴィシソワーズ”・・・
”テルミドール”・・・”ソルベ”・・・”ブフ・ブルギニョン”・・・
”カマンベール”・・・”クレーム・ブリュレ”・・・”マカロン”・・・」
かすれた声が、途切れ途切れに、”料理の名”を呟く。
だが、それは死の間際に脳裏をよぎる走馬灯ではない。
彼は、デクーヴゥールだった。
”何か”が起こるその時まで、ただ延々と、
その生涯をかけて、気が遠くなるほど”奇行”を繰り返し、
時には”生命に関わる危険行為”にさえ手を染める。
それでも最期まで、彼は”自らの職務”を全うしようとしていたのだ。
──それが誰なのか、襟人には分からなかった。
けれど、”確信”だけが心に残った。
「・・・あれは、私だったのですね・・・」
そう思えた。いや、そうとしか思えなかった。
自らの奇跡のような知能、分析力、常人離れした直感──
”自分の存在そのもの”が、あの死の瞬間、
命と引き換えに生じた”バグ”だったのかもしれない。
「・・・?」
襟人が呟いた言葉に、ベレー帽の少女は首をかしげる。
「──”面白い”・・・!」
そんな彼女の反応すら意に介さず、襟人の唇は意志を帯びた笑みへと変わっていった。
「ありがとうございます!貴方は、私の”命の恩人”です。
私は”悲観”の感情に囚われ、”視野狭窄”となってしまっていました。
見えていたのは、”死”へと続く一本の道だけ。
いつしか考えることすら放棄し、その道へと歩むだけだった私に、
貴方は一度”立ち止まる機会”を与えてくださったのです。
そのお蔭で、私にはまだ他の道が残されていると気づけました。
私は──”貴方が見せてくれた道”を、
一意専心・一意奮闘・一意攻苦して進むことを誓います!」
「え・・・それって、デクーヴゥールになるということですか!?」
ベレー帽の少女は、自分が”スカウト”したはずなのに、
襟人の高らかな宣言にひどく動揺して声を荒げた。
「その通りです。
”バグ”という概念を知って──私の胸は久々に”高鳴っています”。
こんな「漫画」・・・いや、「バンドデシネ」みたいな話があるなんて・・・
こんなにも”晴れやかな気分”になるのは、いったい何年ぶりでしょうか・・・
「艱難汝を玉にす」・・・
「生きるとは呼吸することではなく、行動することだ」・・・
「幸運は用意された心のみに宿る」・・・
「人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである」・・・
そんな”前向きな言葉”が、ひっきりなしに頭に浮かんできますよ!
今の私なら、何でもできるような気さえしてきました!
そういうわけで──早速、バグを見つけに行ってきます!!!
デクーヴゥールとしての華麗な”デビュー”です!!!」
襟人はそう宣言すると、迷いの影ひとつ見せずに屋上の縁へと駆け出した。
その脚には躊躇も恐怖もなく、声色の通りの昂揚だけがみなぎっていた。
”前世の記憶”は、その大部分が失われていて、決して完全ではない。
それでも、魂には確かに刻まれている。
”バグ”という存在への感応力、そして、違和感を嗅ぎ分ける鋭い嗅覚。
彼は腕に覚えがあると感じていた。
従来の知識と分析力に、魂の記憶が加われば──
”デクーヴゥール”として活躍するには、十分すぎる、と。
そして、襟人はパラペットに身を乗り出し、叫んだ。
「”スフレ”!!!」
乾いた空へその声を放つと同時に、彼の身体は建物の下へと消えた。
「待って!!!それは”フライング”よ!!!
そんな簡単にバグを見つけられるはずがないわ!!!
ルーキーはまず”安全な拠点”で、”いろんなオブギェ”に向かって、
”あらゆるラング”を浴びせ続ける”簡単な作業”からスタートするのよ!!!」
ベレー帽の少女は、襟人の向かった方へ駆けながら、
割れ鐘のような声を屋上に鋭く響かせた。
「ああ・・・ああ・・・どうひよう・・・」
彼女は涙目のまま、パラペットから地面を覗き込んだ。
「・・・あれ?」
地面に、襟人の姿はなかった。
血の痕も、肉の破片も、衣服の一端すら見当たらない。
空虚なアスファルトだけが、冷たく光っていた。
「・・・いない?・・・まさかッ!」
その瞬間、不意に背後から声が降ってきた。
「私はここですよ!」
軽く笑う襟人の声に、ベレー帽の少女は思わず胸を撫で下ろす。
「よかった・・・生きてた・・・」
しかし、彼女が振り返った次の瞬間──
「って、その恰好は何なんですかあああ???」
そのツッコミは、本日一番の金切り声だった。
そこに立っていたのは、まさしく”江戸時代の武士”そのものの格好をした襟人だった。
裃を身にまとい、頭には見事な月代、腰には刀まで差している。
「答えは簡単です」
ふっと笑みを浮かべ、自らの袖に視線を落としながら語る。
その目には、すでに”デクーヴゥール”としての覚悟と誇りが宿っていた。
「私は──
「マンション12階分の高さからスフレと叫んで飛び降りると、
江戸時代にタイムスリップできるというバグ」
を発見しました」
「なんですって・・・」
屋上を吹き抜ける風が、まるでその事実を祝福するかのようにそよいだ。
「もちろん、このバグは”片道切符”です。
タイムスリップすれば、それっきり──戻れません。
なので私は、江戸の町で暮らしながら、現代に戻れる”別のバグ”を探し続けました。
約19間・・・つまり、マンション12階分の高さの”欅の大木”が近くにありましてね。
何回登って飛び降りたか、数え切れませんよ。
結局4か月ほど寄留していたでしょうか・・・
いや、感覚的にはもっと長く感じたかもしれません。
とにかくその過程で、結果的に私は──”714個”のバグを発見してみせました」
「な・・・ななひゃくぎゅうよん個!?」
「例えば、これは割と最初のほうに発見した、
「プレタポルテと叫んでマンション12階分の高さから飛び降りるバグ」なのですが・・・」
襟人はそう言うや否や再び飛び降りた。
刹那、空へ響く叫び──「”プレタポルテ”!!!」
その直後、元のポロシャツ姿の襟人が、
まるで何事もなかったかのように屋上へひょっこりと現れた。
「”オートクチュール”で江戸時代の服装になって、
”プレタポルテ”で現代の服装に戻る。
これは、そういうシステムなんです」
先ほど剃り上げられていた額から頭頂部にかけての髪も、”フサフサ”に元通りだ。
「おおっ・・・!」
ベレー帽の少女は目を丸くし、思わず拍手を送った。
「そこまで分かってるんですね・・・!!!
では僕もこのバグを使えば、”和風のお姫様”になれますか?」
襟人の”頼もしさ”に”圧倒”されたのか、
ベレー帽の少女は思わず職務も忘れ、見た目相応に心躍らせる。
「バグは当然、男性と女性という”条件の違い”によって上手くいかない場合もあります。
ですが、これに関しては問題ありません。すでに”検証済”です。
ですので、実演してみましょう。
そのためにまず──
「デッサンと叫んでマンション12階分の高さから飛び降りるバグ」を発動します」
襟人はまたも飛び降りる。
その動きには何の感情も込められておらず、もはや”作業的”だ。
そして次に、ベレー帽の少女の前に姿を現した彼の姿は、思わず目を疑うものだった。
「わ、僕・・・!?」
そこに立っていたのは、ベレー帽の少女と寸分違わぬ容貌・背格好・服装の襟人だった。
まるでこの屋上に「合わせ鏡」が出現したかのようだ──。
「このバグによって、
自分の肉体を”最後に会った人”のそれへ変化させることができるんですよ。
つまり今の私は、完全なる”女性”です。
”パン・ド・ミ”と叫んで飛び降りれば元の自分に戻れるので、
この”切り替え”によって、一人でも”多様な条件下での検証”ができるということですね」
今の襟人はその”声紋”も、ベレー帽の少女と完全に一致している。
「とはいえ、自分の姿を勝手に借りられるのは”愉快なことではない”でしょうから──
女性にも「オートクチュールと叫んでマンション12階分の高さから飛び降りるバグ」が
”使用可能”であると証明してしまいましょう。
”オートクチュール”!!!」
彼は気遣うように早口で説明すると、そそくさと飛び降りた。
「おお・・・!!!映えますね・・・!!!」
屋上に舞い戻った襟人の姿は、
島田髷を結い、華やかな意匠の振袖をまとった見事な”時代劇のお姫様”そのもの。
ベレー帽の少女は、もう一人の自分の変貌に息を呑んで感嘆した。
目的を果たした襟人は早急に元に戻ろうとしたが、
彼女は、もう少しだけその姿を眺めていたいと、携帯を片手に「撮影会」を始め出す。
ポーズまで要求され、実に過ごし辛い時間だ・・・
結局、借り物の体から解放されるまで、小一時間ほどかかった。
「これを見ては、和服を着てみたくならないわけがないです!!!
僕も早速、貴方が見つけたバグを試ひてきます!!!」
そして、いよいよテンションが最高潮に達した彼女は、
もはや迷う素振りすら見せず、屋上の縁へ駆け出した。
「えっ、いや・・・」
襟人が何かを言いかけた時には、すでに遅かった。
彼女は軽やかにジャンプし、嬉々とした声で叫ぶ。
「オートク”キュ”ール!!!」
──その瞬間、時が止まったようだった。
ドンッ!!!
建物の下から、乾いた衝撃音が響いた。
ベレー帽の少女は、バグの発動に”失敗”した。
「・・・いの一番に、貴方は「オートクチュール」と正しく発音できないのだから、
このバグはやめたほうがいい、と言っておくべきでした・・・」
屋上から地面を見下ろした襟人の視界に飛び込んできたのは、
周囲に血痕をまき散らし、ぐにゃりと不自然に折れ曲がったベレー帽の少女だった。
「あっちゃー・・・これは酷い・・・
こんなにもしょうもない”無駄死”が他にあるでしょうか・・・」
彼女は顔面を含む全身を激しく打ち付けられており、
ほんの数分前まで”萌え萌え美少女”だった面影は、跡形もない。
内部のピンで髪に留められたベレー帽だけが、辛うじて彼女であることを示していた。
その無残な姿に、襟人は思わず目をそらした。
「せっかく、
「マンション12階分の高さから、グラタンと叫んで飛び降りると、
寸前にいた座標にワープするというバグ」があるのですから、
叫んで飛び降りる際、最後に”グラタン”と言うようにしていれば、
絶対に”安全”だったのですが・・・
私が江戸時代で大量にバグを発見できたのも、すべては”グラタンのお蔭”です。
このバグは”史上最も素晴らしい”・・・
”パラシュート”や”モンゴルフィエ”と叫んでも”何も起きない”というのに、
先人はよく”グラタン”を導き出せたものです・・・」
襟人の声は、地面に転がる遺体に向けられているとは思えないほど”平静”だった。
「まあ、私の推測だと・・・
彼女はデクーヴゥールの「機関」において、
普段は業務として”人事活動しか”やらされておらず、
バグの扱いには”不慣れ”で、そこまで頭が回らなかったのでしょうね・・・」
”非常事態”が発生しながらも、襟人の表情は穏やかだった。
その目の奥では──すでに”次の一手”が緻密に組み立てられ始めていたからだ。
「いやあ・・・”こんな時に使えるバグ”も見つけておいてよかったです・・・」
襟人は、急いで階段を下りて地上に降りて、
地面に横たわるベレー帽の少女を丁重に抱きかかえると、
そのまま慎重に階段を上がって屋上へ戻った。
風が吹き抜ける中、襟人はまず彼女をパラペットに静かに寝かせ、
続いて自分もゆっくりと登り立つ。
彼は短く息を整え、もう一度、ベレー帽の少女の身体を抱き上げた。
腕の中の温度は、すでに失われつつある。
それでも──襟人の目は一片の迷いも帯びていなかった。
「・・・「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」」
彼はその言葉を微かに噛みしめるように呟く。
彼の中ではすでに、彼女の”蘇生”を確信していた。
そして──
「”アンコール”!!!」
乾いた屋上にその声を轟かせながら、
襟人はベレー帽の少女と共に、迷いなく空へと身を躍らせた。
バグが発動し、二人はやはり屋上へと舞い戻る。
しかし──今回は、ほんのわずかに様相が違っていた。
”光の粒子”が、吹雪のように舞いながら渦を巻き、
襟人の両腕の中に存在するベレー帽の少女へと吸い込まれていく。
その光が彼女の体表をなぞるたびに、
陶器が割れる瞬間を”逆再生”するかのように、
裂けた皮膚は静かに縫い合わされ、
砕けていた骨は欠片を寄せ集めて元の形を取り戻し、
損壊していた細胞組織も、ひとつ、またひとつと”本来の姿”へと近づいていく。
かつて”散乱”していたはずの生命の構造が、
”完全”へ向かって秩序立てられ、”再結合”していくその様は、まさに「魔法」だった。
「覆水が盆に覆される」──”不可逆”の”逆転”。
その”奇跡の所業”がを襟人は腕の中で息を殺して見つめている。
その表情には驚きよりもむしろ──
”想定された挙動”が”確認”できたという「研究者」めいた”落ち着き”があった。
「・・・あれっ、僕・・・」
ベレー帽の少女は、まぶたをゆっくりと開いた。
まだ意識の焦点が定まらないように、視線がふらつく。
「良かった・・・目覚めてくれましたね・・・」
襟人は胸を撫で下ろしながら、限りなく優しい声を掛けた。
「あ・・・あの・・・」
ようやく状況を把握した少女は、自分が今”お姫様抱っこ”されていることに気づき、
目を丸くしながら頬を真っ赤に染める。
腕の中でもぞもぞと落ち着かず、視線をそらしては戻し、またそらす。
「あっ、す、すみません!!!今下ろします!!!」
襟人は弾かれたような声を上げ、
しかし動作だけは大事を取って、そっと彼女の身体を地面へと下ろした。
そして──
「申し訳ございません!!!貴方のお体に色々と触れてしまいました!!!」
次の瞬間、勢い余ったように地面へ額をこすりつけ、
全力で”平謝り”を始めた。
「いえいえ、お気に病まないでください!!!
僕を助けるための行為だというのは分かっています。
謝るのは迷惑をかけた僕です。
”側音化構音”であることを忘れて、はっきゃけすぎまひた・・・」
ベレー帽の少女は、心底申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
「やはり、そうだったのですね・・・」
襟人の静かな声が、彼女の言葉を受け止める。
”重度”の「側音化構音」──
これこそが、ベレー帽の少女の”エキセントリックな話し方”の正体だったのだ。
本人は至って真面目に話しているつもりなのだが、
「し」、「ち」、「り」、「じ」など、主に「イ段」の音を正しく発音できず、
本来の音が横へ逃げ、歪んだ響きに変質してしまう。
その原因としては、舌の筋力不足や動作の癖などが考えられる。
”バグ”とは、たしかにこの世界においては非常に”便利な存在”であるが、
彼女が、それを上手く扱うことができないように、決して”万能ではない”のだ。
失語症や失声症、吃音症や聴覚障碍などにも言えることだが、
発動条件が”発音”という人間の不確かな機能に依存している以上、
そこにはどうしても避けられない”決定的弱点”が存在している・・・
「僕が”妊婦”だったら、”ぎゅう産”ひてたところですね・・・」
「・・・”流産”どころでは済まないと思いますよ」
「いったい貴方は、どうやって僕を救ってくださったのですか?
”蘇生”に関するバグは、いまだ発見されていません。
まさか、貴方はそれを見つけ出ひたというのですか?」
「その”まさか”です。
私は──「死体を抱えてマンション12階分の高さからアンコールと叫んで飛び降りると、
その死体が生き返るというバグ」を発見しました」
襟人は、特に自慢げになる様子もなく、さらりと答えてのける。
「ああ・・・なんてことなの・・・
・・・その・・・どうなんですか、これ?
私は今は普通ですけれど、”あるべき法則”を捻じ曲げているわけですから・・・
何か”対価”や”制約”があったぎするんですか・・・?」
ベレー帽の少女は、古来、”禁忌”とされてきた行為が、
自分のすぐ目の前──
いや、自分の身に対して──
これ以上なく明白な形で”実現”してしまったという事実に、息を呑んだ。
その瞳には、触れてはならない領域に踏み込んでしまったかのような”畏れ”が混じり、
”怯えた色”がゆっくりと浮かび上がっていた。
「その辺は、まだ全然分かりません。
だからこそ”検証”が必要ですし、そのためにも設備や資料など──
「機関」の”協力”は”不可欠”でしょう。
私は、今すぐにでもデクーヴゥールになりたいと考えています。
”契約の手続き”は、どのような流れになるのですか?」
人類の長い歴史の中で”夢物語”として語られ、
多くの人間が願いながらも誰ひとり成功しえなかった
”壮挙”を成し遂げてみせたというのに、
襟人の声音には一切の驕りも高ぶりも無かった。
そこにはただただ、”迷いのない意志”だけが滲んでいた。
「本当に・・・デクーヴゥールになると宣言するのですね・・・
そうですか・・・う~ん・・・」
彼の決意とは裏腹に、ベレー帽の少女はどこか”気の進まない様子”だった。
「・・・えっ、ちょっと待ってください・・・」
そんな彼女の態度に、彼はガーンとショックを受けた。
「もしかして”不採用”なんですかあああ!?」
襟人は、先ほどまでの冷静さはどこへやら、声色を荒らげる。
先日、アルバイトの面接で冷たくあしらわれた記憶が、
脳裏に”フラッシュバック”していた。
「い、いったい・・・私の何が”駄目”だというのでしょうか!!!
私は他人とやり取りするにあたって、
誰にでも分かりやすい言葉選び、理路整然とした構成を心がけ、
常に”ベストを尽くしている”つもりです!!!
それなのに、どうして私は相手にすらされず、
”価値のない存在”として切り捨てられてしまうのでしょうか?
これでは”会話以前の問題”です。
もしかすれば、私には人間が一目見ただけで、
”拒絶感情”を抱かせてしまう「何か」があるのではないでしょうか?
思えば、今日ここに来るため電車に乗っていた時も、
私の両隣の席は空いていました・・・
座席自体は埋まっていなかったので、
わざわざ私の横に来る理由がなかっただけ──
これは”考えすぎ”なのかもしれません。
ですが、もし”避けられていた”のだとしたらと思うと、
恐ろしくて身の毛がよだちます。
ですから、ここで”明白”にさせてください!!!
平に”私と共に働きたくない理由”を、最後に明言して頂きたい!!!
通常の採用面接では、そうしたことを教えないのは承知していますが、
私は貴方の「命の恩人」です。
本当は、こんな”恩着せがましい真似”はしたくありませんが、
どうかご容赦ください!!!」
彼はベレー帽の少女に深く頭を下げる。
「あっ・・・い、いえ。
別に、貴方に問題があるわけではあぎませんよ?」
彼女は即座に襟人の思い込みを否定した。
「貴方はデクーヴゥールに向いていると思います。
少なくとも、僕のように浮かれすぎて、
”無様”を晒す”無能”よぎは、はるかに”有能”です。
ただですね・・・」
彼女は一息置く。
「貴方はこれから強制的に働かされて、本当に良いんですか?
僕が貴方に言ったことって、
「ひぬならアマギフくれ」って言ってるのと”同義”ですよ」
「えっ・・・」
自分の職務そのものに異を唱えるかのような言葉が、彼女の口からこぼれ落ちた。




