第6話:味のしない食卓
王宮の主厨房は、夕食の準備が終わると一瞬の静寂に包まれた。大理石の調理台は磨き上げられ、銅鍋は壁に整然と吊るされている。王宮の夕餐に携わった料理人たちが、一様に疲れた表情で次々と厨房を後にしていく。
エルベルトは厨房の隅で手早く身支度を整えていた。厨房服から普段着に着替え、腰に結んでいた布を丁寧に畳む。いつもなら他の料理人たちと共に酒場へと向かうところだが、この数週間、彼の足取りは別の場所を目指していた。
「お! エルベルト、今日も行くのか?」
背後から聞こえた声に、エルベルトは動きを止めた。振り向くと、同期のヨハン・メイヤーが揶揄うような悪い笑みを浮かべていた。がっしりとした体格と赤褐色の髪が特徴的な男。
「なあ、エルベルト。女でもできたか? 最近仕事終わりにそそくさと外出してるみたいじゃないか」
ヨハンの冗談めかした問いに、エルベルトは冷ややかな視線を送るだけで、着替えを続けた。
「まさか、王宮の料理人が街場の料理店に入り浸っているなんて噂は本当か? 料理長にはバレるなよ?」
その言葉に、エルベルトの手が一瞬止まった。ヨハンの口調は軽いが、その意図は明らかだった──王宮の料理人が街の小さな店で働くことは、暗黙の了解で禁じられていた。それは王宮料理人としての誇りを汚すとされていた。
「はぁ……ヨハン。人のことより、自分の腕を磨くことだな。お前が作ったヴァンルージュソース、勝手にバター入れてただろ。料理長がキレてたぞ」
「あれでいいんだよ。料理長も歳で、舌がいかれちまってんのさ」
ヨハンはきっぱりと言い切ると、荷物を手に厨房を後にした。
王宮の裏門から出ると、夕暮れの街が広がっていた。エルベルトは東区へと足早に向かう。何故こんなにも急いでいるのか、自分でも理解できなかった。ただ、あの小さな厨房に立つ彼女の姿を思い浮かべると、なぜか足が自然と速くなるのだった。
◆◆◆◆◆◆
初めて『銀の厨房』を訪れてから三週間が経っていた。あれ以来、エルベルトは休日だけでなく、仕事の合間を縫って店を訪れるようになっていた。
「包丁は力任せに真下に押し付けるな。刃元から刃先まで、全体を使って押し出すように切るんだ」
彼は厳しい口調でシルヴィアを指導していた。不器用な彼女に料理の基本を教え始めたのは、純粋に「見ていられない」という気持ちからだった。しかし、彼女の真剣な眼差しと努力する姿に、次第に関わらずにはいられなくなっていった。
そして何より、彼女の作る料理の不思議な魅力に惹かれていた。宮廷料理の完璧さとは対極にある、ぎこちないけれど優しい一皿。それは彼が忘れかけていた何かを呼び起こすような気がしていた。
「今月の収支はどうなってる?」
エルベルトはカウンターに座り、シルヴィアに問いかけた。店は閉店時間を迎え、二人きりになっていた。夕暮れの優しい光が窓から差し込み、小さな店内を柔らかく照らしている。
シルヴィアは困ったような表情で帳簿を開いた。
「えっとね……」
その言葉に続く沈黙に、エルベルトは眉をひそめた。彼はため息をつくと、彼女の肩越しに帳簿を覗き込む。数字はあまりにも明らかだった──店は確実に赤字だった。
「こんな状態じゃ、あと一月ともたないぞ」
厳しいが現実的な指摘だった。彼は腕を組み、真剣な表情でシルヴィアを見つめる。
「なぜ商売として成り立つ工夫をしない? 料金を上げるとか、子供にタダで食べさせるのを止めるとか」
シルヴィアは帳簿を閉じ、真っ直ぐにエルベルトを見返した。
「できないわ。だって、お腹を空かせている子を見捨てることなんて」
「それじゃ、自分が先に潰れるぞ」
エルベルトの声が少し大きくなった。彼は感情を抑えようと、深く息を吐く。
「なぜそこまで頑固なんだ? 自分の店が続かなければ、誰も助けられなくなるんだぞ」
「でも──」
その時、店の窓から覗き込む小さな影に二人は気づいた。
シルヴィアは言葉を切り、すぐに立ち上がって店の扉へと向かう。
扉を開けると、そこには以前エルベルトと出会った日に食べ物を分けてあげた少年が立っていた。今日は一人ではなく、もう一人小さな女の子を連れている。少年の手には、野の花で作った小さな花冠が握られていた。
「あら、こんにちは」
シルヴィアの声は、先ほどの緊張が嘘のように柔らかく温かい。少年は恥ずかしそうに花冠を差し出した。
「この前の……お礼です」
「まあ、私のために? ありがとう!」
シルヴィアは嬉しそうに花冠を受け取ると、すぐに頭にのせた。その仕草は、まるで王冠を授かったかのように大切そうだった。
「今日はお友達も一緒なのね」
彼女は女の子にも優しく微笑みかける。そして店内に戻り、すぐにパンと余ったポトフをを器に注ぎ、二人分用意して戻ってきた。
「今日はちょうどいいわ。二人分あるの」
シルヴィアは子供たちに食べ物を分け与え、その様子を温かな眼差しで見守った。エルベルトは店内から、その光景を黙って見つめていた。
子供たちが食べ終わり、何度もお礼を言って去っていくのを、シルヴィアは通りの角を曲がるまで見送っていた。その横顔は、先日と同じように穏やかな微笑みを浮かべていた──しかし、エルベルトの鋭い目は、その目尻に浮かぶ微かな涙を見逃さなかった。
シルヴィアが店内に戻ると、エルベルトは両腕を組んで彼女を見つめていた。
「なぜそこまでする? ああいう子供はここじゃ珍しくない」
真剣な問いに、シルヴィアは一瞬言葉に詰まった。彼女は頭の花冠に触れ、遠い目をする。
「……そうね。少し話をしても、いいかしら?」
エルベルトは小さく頷き、シルヴィアは椅子に腰掛けた。
「実はね? ……こう見えて私、貴族のご令嬢なの!」
「……貴族様のご令嬢なんかが、こんなところで油売ってていいのか?」
エルベルトは驚くわけでもなく、眉間に皺を寄せる。
「あ、あら? 驚かないのね?」
「驚くも何も、あんたの掃除も洗濯も、ましてや料理の不器用さを見てれば、なんとなく分かる」
彼は肩をすくめてさらに言った。
「単なる物見遊山でやってるわけでもないんだろ? なんで料理もろくにしたことない貴族が、料理人なんかやってる?」
シルヴィアは窓の外を見つめ、少し考え込むような間を置いてから口を開いた。
「んー、そうね……自分で自分の思ったように生きたいと思ったから……かしらね」
彼女の声には、いつもの明るさが消えていた。
「思ったように生きたい?」
「そう。小さい頃から、政略結婚の駒として育てられてきたから、両親にとって私は『娘』ではなく『家の資産』だった。勉強や礼儀作法、音楽に舞踏――すべては『良い婚約者』になるためのもの。私自身が何を望むかなんて、誰も聞いてくれなかったから」
シルヴィアはテーブルの上で手を組み、それをじっと見つめながら続けた。
「それから数年後、父は私の婚約者を決めた。まるで馬や土地を取引するように。その人は……私を見もせず、ただクライネルト家の財産と地位しか眼中になかった」
シルヴィアの声に、次第に強さが戻ってきた。
「だから、私は逃げ出したの。全部捨てて」
エルベルトはしばらく黙って聞いていた。腕を組んだまま、視線を逸らすこともなく。やがて、静かに口を開いた。
「……事情は分かった」
その声には、先ほどまでの厳しさとは違う、どこか噛みしめるような響きがあった。
「家を捨てたこと自体は、あんたの勝手だ。俺がとやかく言うことじゃない」
だが、と彼は一拍置いて続けた。
「それと『料理』は別の話だろう。自由に生きたいなら、他にいくらでも道はあったはずだ。仕立屋でも、花屋でも、なんでもいい。……なんで、よりによって料理なんだ?」
その問いに、シルヴィアの手が小さく止まった。
組んでいた指先が、無意識に自分の手の甲をなぞる。まるで、遠い記憶の中にある何かを、手探りで辿るように。
長い沈黙が落ちた。窓の外では、夕暮れの最後の光が建物の影に溶けていく。
「……味がしなかったの」
ぽつり、と零れた言葉は、あまりにも小さかった。
「……なに?」
「私がいたの食卓は、いつも沈黙に満ちていたの」
シルヴィアの視線は、もうここではない、どこか遠い場所を見つめていた。
「正装して、背筋を伸ばして、音を立てずに食事をする。誰も会話を楽しむわけじゃない。ただ、食事という『儀式』をこなしているだけ。……どんなに手の込んだ料理が並んでいても、何を食べても同じだった。口に入れて、噛んで、飲み込む。それだけ」
彼女の声は淡々としていた。けれどその淡々さの底に、幼い日の孤独が沈んでいるのを、エルベルトは感じ取っていた。
「味がしないっていうのは……つまり」
「そのままの意味よ」
シルヴィアは小さく笑った。自分でも可笑しいと思っているような、けれど笑えない種類の笑みだった。
「でもね――」
ふいに、彼女の声が柔らかく変わった。懐かしむように、そして寂しさを滲ませる声音で。
「マルタは……乳母は、私にとって本当の母親のような存在だった。両親が不在の時、彼女はこっそり私のために料理を作ってくれた。それは料理人が作る華美な料理とは違って、とても素朴なものだったけど……」
シルヴィアの目に、温かな光が灯った。それは、この話をしている間だけ、彼女の中の幼い少女が目を覚ましたかのようだった。
「あの料理だけが、私にとって『ちゃんと味がする』ものだったの。特に彼女のポトフは……今でも忘れられない。ごろごろした野菜がたくさん入っていて、不格好で、お屋敷の食卓には絶対に出てこないような見た目なのに、一口食べると胸の奥がじんわり温かくなって……」
シルヴィアは一度言葉を切り、自分の手のひらを見つめた。
「あれは単なる料理じゃなくて、私への愛そのものだったから。だから、このポトフだけ教えてもらっていたの」
エルベルトの脳裏に、初めてこの店で食べたポトフの味が蘇った。技術は拙い。盛り付けも雑。しかし、口に広がったあの不思議な優しさ――あれは、そういうことだったのか。
シルヴィアは深く息を吸った。次の言葉を口にするために、覚悟を決めるように。
「……ある日、父が予定より早く帰宅して、私たちを見つけたの。マルタが作った料理を美味しそうに食べる私を……」
シルヴィアの声が震えた。
「父は激怒した。『平民の粗末な料理を食べるなど、クライネルト家の恥だ』って……マルタはその日のうちに追い出されたわ。私は必死で止めようとしたけど……それがかえって事態を悪化させただけだった」
沈黙が、二人の間に横たわった。店内に差し込む光は、いつの間にか夕焼けの赤みを帯びていた。
シルヴィアはゆっくりと顔を上げ、エルベルトをまっすぐに見つめた。その瞳には涙の跡があったが、その奥にある光は揺らいでいなかった。
「だからマルタのように、誰かを笑顔にするための料理を作りたいって思ったの。……マルタがいなくなってから、ずっと。あの味だけが、私が誰かに愛されていたっていう、たったひとつの証だったから」
彼女はそっと、先ほど子供からもらった花冠に指を触れた。
「たとえ下手でも、たとえ商売にならなくても……私の作った料理を食べて、誰かの顔がほころぶのを見ると、思うの。ああ、マルタもきっとこんな気持ちだったんだなって」
少し恥ずかしそうに微笑んで、シルヴィアは言葉を結んだ。
「だから、料理なの。他の何でもなくて、料理じゃなきゃ、だめだったの」
その言葉を聞いて、エルベルトは初めてシルヴィアという人間を理解した気がした。期待に裏切られ、心を殺して厨房に立つ自分。全てを捨て、心を伝えるために厨房に立つ彼女。
しかし、それはあまりにも対照的で、彼女が今のエルベルトには眩しく思えた。
「身分を捨てたことは後悔はしてないのか?」
エルベルトの問いに、シルヴィアは一瞬きょとんとした後、ふわりと微笑んだ。それは、これまでのどんな笑顔よりも儚く、そして美しい笑顔だった。
「ええ、これっぽっちも微塵もね!」
彼女はきっぱりと頷いた。
「確かに、お店を続けることは難しいのかもしれない。毎日失敗ばかりで、キミに怒られてばっかりだし。でもね……」
シルヴィアは自分の店を愛おしそうに見回す。
「あの家にいた時を思えば、自分の手で誰かのために料理を作って、『ありがとう』って花冠をもらえる。……こんなに嬉しいこと、他にないわ」
シルヴィアの話が終わり、厨房に静けさが広がる。
そしてエルベルトは黙って立ち上がると、一人厨房へと向かった。




