第5話:危うい優しさ
夕暮れの柔らかな光が、『銀の厨房』の窓から差し込んでいた。厨房に立つ二人の姿が、壁に長く影を落としている。
エルベルトはシルヴィアに調理の基本を教えながら、何度も彼女の手元を直した。不器用な彼女の手つきは少しずつ良くなってきたように見えたが、それでも十分とは言い難かった。
「はぁ……これくらいにしておこう。そろそろ帰る」
彼はぶっきらぼうに腰に巻いたエプロンを解き、小さく首を回す。
「あら? もう帰っちゃうの? 残念」
シルヴィアは口元に笑みを浮かべながらも、素直に立ち上がり、店の扉まで彼を見送ろうとした。その髪は相変わらず乱れていた。だが、彼女の笑顔には不思議な輝きがあった。
「明日は忙しいんだ」
エルベルトは短く答え、扉に手をかけた。
店の扉を開け、外に出た瞬間、二人はそれに気づいた。
扉のすぐ脇で、小さな男の子が一人、羨望の眼差しで店の中から漏れる温かい光と美味しそうな匂いを嗅いでいたのだ。
痩せこけた体に合わない大きな服を着た少年は、不意を突かれたように身をすくめた。逃げようとする様子を見て取り、シルヴィアはすぐに声をかけた。
「あら、こんにちは」
その声は、エルベルトに向ける時とはまるで違う、優しさと穏やかさに満ちたものだった。彼女は子供の前まで歩み寄ると、「少し待ってて」と優しい声で告げた。
シルヴィアは小走りで厨房へ向かう。パンと、仕込みで余った野菜をいくつか手に抱えて戻ってくると、彼女はゆっくりと腰を落とし、子供の目線に合わせた。
「少ししかないけど、どうぞ」
昼間の悪戦苦闘が嘘のように穏やかな笑顔だった。子供は一瞬ためらったが、空腹には勝てず、差し出されたパンにかじりついた。
シルヴィアはその様子を、慈しむような、どこか自分を重ねるような目で見つめていた。彼女の目には温かな光が宿り、それはエルベルトが今まで見たことのない表情だった。
エルベルトは黙ってその光景を眺めていた。その時、彼の脳裏に不意に浮かんだのは、彼女のポトフの味だった。あの不器用でありながら、温かな味わいの源泉を、今、目の前で見ているような気がした。
しかし同時に、彼はその光景に強い危うさを感じて眉をひそめた。これは商売ではない。ただの自己犠牲だ。これでは客から金を取る前に、自分のほうが先に飢えてしまう。
「……はぁ。これじゃ店も、すぐに消えてなくなるぞ」
思わず、心の声が漏れた。
シルヴィアには聞こえなかったようだ。彼女は子供が食べ終わるのをじっと待ち、最後の一口が終わると、さらに尋ねた。
「おかわりする?」
「い、いいの?」
「もちろん。お腹いっぱいになるまで食べていいのよ」
そう言って彼女が差し出した二個目のパンに、子供の目は輝きに満ちた。
子供が何度もお礼を言って駆け去っていくのを、シルヴィアは通りの角を曲がるまでずっと見送っていた。その表情には、どこか遠い記憶を辿るような物思いが浮かんでいる。
彼女がようやくエルベルトに向き直った時、彼女の顔には清々しい表情が戻っていた。
「ねえ、そういえば、まだ名前を聞いていなかったわね。聞いてもいい?」
「……エルベルトだ」
「エルベルト、ね」
彼女はその名前を噛みしめるように繰り返した。その唇の動きに、彼は一瞬目を奪われた。
「キミ、ただの料理人じゃないでしょう? それとも王都には、キミみたいなのがゴロゴロいるの?」
シルヴィアの探るような視線に、エルベルトは居心地悪く体重を移動させた。
「……王宮で、料理人をしている」
「宮廷料理人なの? どうりで……」
シルヴィアは納得したように頷くと、顎に人差し指をあてて何か考え、そして悪戯っぽく微笑んだ。その表情は、少年に向けたものとも、仕事中の真剣なものとも違う、何かを企んでいるような輝きを持っていた。
「じゃあ、また時間がある時でいいから、私に料理を教えてよ」
その申し出に、エルベルトは一瞬言葉に詰まる。
彼女の料理が持つ、「何か」には強く惹かれる。技術はないのに、どこか心に響く味。
だが、経営者としての致命的な甘さも見た。この危うい優しさの上に成り立つ『銀の厨房』は、あまりにも気がかりだった。
エルベルトは数秒考え込んだ後、両肩をすくめた。
「……まあ、気が向いたら」
それが、彼に言える精一杯の返事だった。
「ふふっ、ありがとう!」
シルヴィアは明るく笑うと、突然真剣な表情になった。
「でも、私、キミにお礼なんてできないわよ……どうしようかしら」
シルヴィアはそう言うと、悪戯っぽく自分の体を指し示す。
「この体で、払うとか?」
その言葉と共に彼女は色っぽく瞬きをした。夕陽の光を浴びた彼女の姿は、不器用で汚れまみれながらも、どこか神々しい輝きを放っていた。
「……馬鹿言うな。とんでもない女だな」
エルベルトは呆れたように低い声で返し、今度こそ本当に背を向けた。背後でシルヴィアが楽しそうに笑う声が聞こえる。
「また来てね!」
その明るい声が、夕暮れの空に響いた。
夜の雑踏に紛れながら、エルベルトは知らず知らずのうちに穏やかな表情になっていたことに、まだ気づいていなかった。
帰り道、彼は考えていた。あの子供に向けた彼女の眼差し。そこには単なる同情以上の何かがあった。それは彼女自身の傷が生み出した、特別な優しさなのかもしれない、と。




