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幕間六

あの朝のことを、私はいまだに夢で見ることがある。

驚くほど静かな朝だった。窓の外に車の音も、人の声もなかった。

まるで、この国全体が何かの呼吸を止めていたようだった。


榊原さんが公安に連行されたのは、午前九時三分。

あらかじめ知らせを受けていた私は、その場にいた。

彼は何一つ抵抗せず、ただコートの襟を整え、

玄関先で私に向き直ってこう言った。


「記録してくれ、この国の“今”を。」


あの言葉が、私の人生の三十年を決定づけた。

私はそれ以来、ずっと「語られなかった思想」を、

語り続けてきた。


その後の数年間は地獄のような日々だった。

弁護団の活動は逐次妨害され、

マスメディアは逮捕を「秩序維持の成功例」と報じた。


彼の裁判は結局、ほとんど非公開で行われた。

「国民の感情を逆なでする可能性がある」という、

およそ近代国家とは思えない理由で。


一部の判決文は今でも閲覧不可能だ。

彼の最終弁論は録音も記録もされていない。


つまり、あの時代の「真実」は、いまもこの国には存在していない。

その不在を私は三十年、ずっと書き続けてきた。


それでも、彼の思想は死ななかった。


むしろ、逮捕によって燃え上がったのだ。

地下に潜った読書会は、やがて市民連帯ネットワークへと進化し、

海外で拡散された榊原文書は、

「Post-Liberalism(ポスト自由主義)」という理論体系に昇華された。


皮肉な話だが――

彼が語ることを封じられたことで、

 多くの人々が語ることに目覚めたのだ。


若者たちは榊原の言葉を音楽にし、演劇にし、

無数の対話集会が匿名の地下カフェで開催され、

やがてその言葉は、地方議会を、教育現場を、

国民投票を動かす力にまで育っていった。


そしてあのとき、

誰よりも彼の逮捕に加担していた政治家たちが、

後にその思想を「国是」として掲げて当選することになる。

これが歴史の皮肉でなくて、何だろうか。


今、私はある大学の小さな思想史研究室で教えている。

正式な講座名は「戦後日本思想と21世紀市民理論」だが、

学生たちはこう呼んでいる――「榊原クラス」。


彼の名を冠するわけではない。

だが、その文体、語り口、問いかけのスタイル……

どこかに彼の影が残っているのだ。


毎年初回の講義で私はこう問う。


「もしあなたが、何かを語ることで逮捕されるとしたら、

 それでも語るだろうか?」


手を挙げる者もいれば、目を伏せる者もいる。

それでいい。

思想とは、全員が答えを出すものではない。

 “答えを持ち得ない自由”そのものなのだから。


誰もが知っているように、

この国はいま、榊原思想に基づく「協約内閣」が存続している。


だが彼は――彼自身としては、いまだに「帰ってきていない」。

死んだのか、生きているのか、それすらも明確にはされていない。

遺体も、死亡診断書も、確認されていない。

だから、「榊原鷹彦 総理」とは、法律上は不在のままだ。


それでもこの国の首都の一角には、

かつて彼が演説した広場が残されており、

そこでは今でも毎年、思想継承の集会が行われている。


「彼のいないこの国で、

 彼の思想が生きているとはどういうことか――」

それを語るために、私たちはいまも記録し続けている。


彼が最後に語ったのは、「主権とは貸し得るものか?」という問いだった。

いま、多くの市民がこう答えている。


「主権は、貸し得る。ただし、思想は貸せない。」


私自身、その問いに明確な答えを持っているわけではない。

だが、彼の背中を見ていた時間のすべてが、

いまも私の思考の骨組みを形づくっている。


だから私は、こう書き続ける。

語られなかった思想の記録を。

そして、この国がいつか再び、思想を語る勇気を持つ日のために。


……彼の裁判記録は、機密指定のまま、封印されている。

だが、あの時代の“熱”を生きた者として、

私は知っている。

思想が裁かれるということの意味を。


それでは、続きを話そう――

あの冬、法廷に立った彼の姿から。

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