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第三十章:最初の犠牲

思想安全保持法が可決された翌朝、

榊原陣営の集会拠点――東京都心の地下ホールには、重苦しい沈黙が漂っていた。


誰もが敗北感に包まれていた。

徹夜で抗議声明を出し、討論会を続け、国際社会にも訴えた。

だが、結局、国家権力の巨大な意思は止められなかった。


それでも榊原は、ホール中央の会議テーブルに座り、静かに言った。


「ここからが本番だ。

 法案は成立したが、運用させなければいい。

 我々は、まだこの国に憲法という最後の砦がある。」


その言葉に、沈黙していた支援者たちの顔に、わずかに光が差した。


榊原はまず、かつての同窓であり、今は憲法学界の重鎮となった学者や、

日弁連の人権擁護委員会、青年弁護士団体に接触を開始する。


「これは戦後憲法秩序そのものへの挑戦だ」

「思想の自由、良心の自由、表現の自由、結社の自由――すべてに違反している」


そう確信した憲法学者たちは、次々と違憲意見書を作成し、

臨時に設立された「思想安全保持法違憲訴訟弁護団」は、国内外の憲法学者・弁護士を糾合した。


彼らが目指したのは、単なる法律の瑕疵指摘ではない。

「この法律をそのまま放置すれば、日本は法治国家ではなくなる」という、

国家の根幹に関わる訴訟だった。


違憲訴訟の準備は、水面下で迅速に、そして緻密に進んでいった。

•法案成立直後に、まず 違憲確認訴訟 を提起

•次に、実際の摘発対象となった被害者が出た際に 人身保護請求・行政訴訟・刑事訴訟 で全面対抗

•さらに、 国際人権条約に基づく国際法廷での提訴準備 も進める


この動きに対し、政権中枢は法務省や内閣法制局を通じて対抗法理論を準備させた。

「憲法の保障する自由にも、公共の福祉という制約がある」

「過激思想からの国民保護は公共の福祉に含まれる」


こうして、法廷での思想戦は、政府 vs 市民の全面対決として歴史的訴訟となる構えを見せた。


榊原は法廷闘争と並行して、国内での新たな市民運動を構築した。


もはや従来の「読書会」や「思想討論会」だけでは防ぎきれない。

街頭に、地方に、オンラインに、生活空間のすべてに

「考える自由」「語る自由」「対話する自由」を守る運動を広げねばならなかった。


橘綾子は「思想安全保持法廃止 全国市民ネットワーク(仮称)」を立ち上げ、

学生・労働者・宗教者・芸術家・主婦・企業人・フリーランス――

あらゆる立場の市民が 「私は榊原思想には同意しない、だが自由は守る」 という立場で参加できるよう、間口を広げた。


運動の柱は次の3つ:


1. 「沈黙しない日」全国街頭対話デー


→ 全国主要都市で同時に「自由とは何か」を語り合う街頭対話イベントを開催。

 マイクや拡声器は禁止し、あくまで対話の形を守った。


2. 「思想自由防衛基金」設立


→ 違憲訴訟や摘発者の法的支援、市民活動の運営資金としてクラウドファンディング。

 多くの著名人が匿名・実名で寄付し、社会的な広がりを見せた。


3. 「思想安全保持法違憲・廃止国民署名」開始


→ オンライン・紙媒体で署名を集め、全国で300万人超の署名を目指す。


この運動には、従来無関心だった層――

たとえばサラリーマン、地方の高齢者、若い主婦層なども

「言論の自由が奪われる怖さ」に気づき始め、少しずつ参加し始めた。



だが、政権もまた反撃の準備を進めていた。


公安庁は、これら市民運動の背後に「外国勢力による干渉」を疑い、水面下で関係者の監視リストを拡大、一部には 職場や学校への密かな圧力 を強めていった。


与党内では「このままでは全国的反政府暴動になる」という危機感から、「次の摘発」を早期に実行し、世論の空気を鎮静化すべきだという声が高まる。


こうした状況下、榊原鷹彦は再び全国放送の独立系メディアに出演し、こう語った。


「私が求めているのは、思想の勝利ではない。

 自由の勝利だ。

 私は私の思想が否定されてもよい。

 だが、その否定すら自由のうちに行われるべきだ。

 国家が自由を恐れるとき、国家はもはや国家ではない。

 それはただの巨大な管理機構に過ぎない。

 日本よ、あなたは本当にそれでいいのか?」


この言葉は、一部の国民に深く響いた。

だが、政権支持層や保守系メディアは「詭弁」「国家転覆思想」として激しく批判。


こうして、国内世論はますます二極化していく。


榊原陣営は理解していた。

「このまま活動を続ければ、いずれ誰かが逮捕される。

 最初は我々ではなく、若い活動家かもしれない。

 それでも止まらない覚悟はあるか?」


陣営は静かに頷いた。

ここから先は「思想の正しさ」ではなく、

「どこまで恐怖に屈しないか」の闘いだった。



摘発されたのは、東京都心でもなく、政界関係者でもなく、

日本列島の西端、九州の地方都市・福岡県北部にある、静かな街だった。


青年の名は 松井廉まつい れん、26歳。


もともとは地方国立大学の法学部出身。

司法試験に落ち、地元の信用金庫に勤めながら、榊原の思想に出会った。


榊原の著書に衝撃を受け、数年前から「主権貸与政策」の草の根読書会を仲間数人と開き、SNSで全国の読書会と情報交換をしながら、地元での討論会も地道に続けていた。


松井は過激な活動家ではなく、むしろ「議論による理解」を信じる穏健な青年だった。

しかし、思想安全保持法成立以後、彼の活動は 「過激思想の拠点」として公安庁の監視対象となった。


公安庁の地方支部では、中央からの指令に基づき、

「まず地方で小規模な摘発を実施し、全国の活動家に萎縮効果を与えろ」

という方針が決まっていた。


地方摘発ならば全国的な批判は限定的に抑えられ、

同時に都市部の活動家たちにも「次はお前たちだ」という警告になる。


公安庁福岡支部の若手職員たちも一部は葛藤していた。

「松井廉は危険人物というより、ただの議論好きな青年だ」

「だが法が成立した以上、執行しなければならない」


命令は静かに、しかし確実に下された。


逮捕は、松井が毎朝通っていた信用金庫の通勤途中、

まだ陽も高くない早朝7時半に実行された。


自宅アパートの前で、スーツ姿の公安庁職員と、警察官が待ち構えていた。

彼らは一礼し、静かに告げた。


「松井廉さん、あなたを思想安全保持法違反の疑いで拘束します。」


松井は一瞬、言葉を失った。


「……俺が? どうして?」


だが、職員たちは淡々と手錠を差し出した。


「ネット上での過激思想の拡散、および未成年者への思想影響が確認されています。」

「任意同行ではありません、逮捕です。」


彼は静かに頷き、自ら手を差し出した。

「わかりました。だが……これは歴史に残るぞ。」


松井の逮捕は、地方紙に小さく「思想安全保持法違反容疑 初摘発」と報じられた。

だが、SNSでは瞬く間に拡散された。


「信用金庫の青年、思想で逮捕」

「日本の地方都市で何が起きているのか?」

「思想犯、現る」


地元では同僚たちが驚き、信用金庫では慌ただしく内部調査が行われ、地域の市民たちは

「本当に危険人物だったのか? それとも、政府のやり過ぎか?」

と困惑し、口を閉ざしていった。


地元の読書会仲間たちは恐怖と怒りで震えた。

「もう集会は開けない」「次は自分かもしれない」

そう思いながらも、静かに連絡を取り合った。


東京、榊原陣営。

この報せが届いたのは、摘発からわずか30分後だった。


海藤仁が緊急会議で声を落とした。

「……ついに、来た。」


橘綾子は沈痛な顔で言った。

「この逮捕、目的は思想の封殺じゃない。恐怖の植え付けよ。

 本命は榊原、あなたよ。」


榊原鷹彦は静かに首を振った。


「違う。本命は国民全員だ。

 この法律が怖くて、沈黙する国民こそ、彼らが得たい成果だ。」


榊原陣営は急ぎ、

•松井廉支援のための弁護団派遣

•国内外メディアへの緊急声明

•SNSを通じた「松井廉氏を忘れない」キャンペーン

など、迅速に動き出した。


日本社会は、この逮捕にどう反応したか。


保守系メディアは「国家に逆らう過激思想犯」「地方にもテロリスト予備軍がいた」と報道。

政府支持層は「当然の措置」「思想の自由にも限度がある」と冷笑した。


一方、リベラルメディアや独立系ジャーナリストは「思想による逮捕は戦後初」「法の暴走」と報道。

国際人権団体も「日本政府は国際人権規約違反の疑いがある」として強く抗議した。


街では一部の若者が抗議デモを始め、

「#私は松井廉ではないが、自由を守る」

「#思想犯にされた普通の青年」

などのハッシュタグが急速に広まった。


内閣は冷静を装った。


「思想安全保持法に基づく適法な捜査である。国民の安全を守るための措置だ。」


だが、外務省や一部与党中堅からは「これは国際世論の怒りを買う」「経済界への悪影響も懸念される」と危機感が高まる。


首相はただ一言、こう言い放った。


「恐怖を超える思想ならば、堂々と裁判で証明してみせろ。」


松井は拘置所で孤独な戦いを始めていた。

弁護士接見の制限、家族との面会制限、

取り調べでは「君は国家に危険な思想を広めた」と繰り返し詰問された。


だが、彼は静かに答えた。


「私は思想を語っただけだ。

 行動も、暴力も、何もしていない。

 この国は言葉を恐れるのか?」


榊原陣営は考えていた。

•これが最初で最後の摘発か?

•次に狙われるのは誰か?

•いずれ、榊原自身が「国家転覆思想犯」として逮捕されるのか?


彼らは次の戦い――

松井廉の裁判闘争、思想安全保持法の違憲訴訟、

そして、市民社会の沈黙を破る運動へと、

歩みを止めることなく、進み続けた。




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