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第二十九章:強行採決

思想安全保持法案の提出を受け、榊原陣営内部では深刻な議論が続いていた。

「国内でどれだけ訴えても、政権は強行するつもりだ」「このままでは、討論会すら禁止される。もはや時間がない」


橘綾子は静かに提案した。

「ならば、外に声を届けるしかない。日本が再び言論弾圧国家になるという危機を、世界に知らせるのよ」


こうして榊原陣営は、国際的な人権ネットワークへの接触を開始する。

海藤仁は、旧知の国際NGO職員や元外務官僚、海外在住の日本人学者を通じて、水面下で情報提供ルートを確保。

橘は、国連人権高等弁務官事務所(UNHCHR)、国際人権連盟(FIDH)、アムネスティ・インターナショナル、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、国境なき記者団など、主要な人権団体に向けて「思想安全保持法案」に関する詳細な英文報告書を作成した。


この報告書には:

•法案の条文と危険性

•榊原やその支持者が受けている監視・脅迫・不当逮捕の事例

•日本国憲法および国際人権規約(ICCPR)違反の可能性

•政府と大手メディアによる世論誘導の構図

•国内法だけでは防げない人権侵害の現状


などが、法律的・実務的な視点から丁寧にまとめられていた。


報告書は国際人権団体の内部で即座に共有され、複数の団体が共同声明の準備に入る。

「戦後日本が築いてきた民主主義と法の支配が危機に瀕している」

「日本政府は思想と言論の自由を保障する国際公約に違反してはならない」


海外メディアの中でも、ニューヨーク・タイムズ、ガーディアン、ル・モンド、シュピーゲルといった一流紙が相次いで日本の動向を報道。

「東アジアの民主主義国・日本における思想弾圧の危機」

「中国やロシアに続き、民主主義国家でも起きる『思想の犯罪化』」

といった見出しで、国際的な問題として取り上げられた。


アジア太平洋地域の市民団体や、欧州議会の人権委員会でも日本政府への懸念決議が検討され始め、

米国国務省からも「日本政府は基本的人権を尊重すべきだ」という声明が出された。


日本政府は激しく反発した。

「これは日本の内政問題である」「事実無根の誹謗中傷だ」「外部勢力による内政干渉を許さない」と強い抗議を表明。

だが、国際世論は次第に日本政府の説明不足や態度の硬化を問題視するようになっていく。


外圧に敏感な外務省は慌て、内閣官房でも「法案の成立が対外信用を失わせるのではないか」と懸念の声が上がった。

一部の中堅与党議員や経済界も「これでは外国企業の日本離れが進む」「国際的な孤立を招く」と反対に回り始める。


しかし、首相は強硬だった。

「これは国家主権の問題だ。海外がどう言おうと、我々の国家秩序を守る」


だが皮肉にも、榊原が主張していた「国家主権の柔軟な貸与・共有」とは対照的に、

政権は「主権を絶対視し、国際社会から孤立する方向」に突き進んでいた。


国際世論の反応を受け、榊原陣営は次に「国際公開討論会」をオンライン開催することを決定。

海外の人権活動家、憲法学者、政治家、日本の市民運動家たちが登壇し、

「思想の自由とは何か」「国家と市民社会の関係とは何か」を問う場を設けた。


この討論会は、英語・フランス語・中国語・スペイン語・日本語で同時配信され、

世界各地から注目を集めた。


討論会の最後、榊原はこう語った。


「日本は世界の一部であり、孤立しては生きられない。

 だからこそ、国内で孤立した思想を、世界に問う。

 それは国家を売ることではない。国家に閉じ込められた市民を、世界と再びつなげることだ。」


こうして「思想安全保持法案」は国際社会からの強い監視下に置かれ、

日本政府は法案審議を急ぐ一方で、一定の文言修正や「適用範囲の限定」を余儀なくされる。


ただし、完全な撤回や廃案には至らず、

国内では「修正によって正当化された」とする保守派と、

「本質的には弾圧法のままだ」とする反対派が、激しく対立し続けた。


そして、榊原個人に対しては「外国勢力と通じる危険思想家」というレッテル貼りがより一層強化され、

彼自身が思想犯として拘束・排除される危機が、ますます現実味を帯びていく――



思想安全保持法案が国会に提出されてから数週間。

国内外の批判、知識人・学生・市民団体の反発、海外人権団体の抗議声明――

それらすべてを押し切り、政府・与党は強行採決の日を迎えた。


永田町には、薄曇りの夏の朝が静かに広がっていた。

だが、その静寂の下では、かつてない政治的緊張が渦巻いていた。


自民党・保守系与党議員たちは、議事堂内の控室で顔を曇らせ、

「反対票を投じれば次の選挙は戦えない」「賛成すれば歴史に汚点を残すかもしれない」

――そんな葛藤を胸に、静かにネクタイを締め直していた。


公明党や維新など連立与党の中道派もまた、

「本当にここまでやるべきなのか」「支持層が離れるのでは」と最後まで逡巡していた。


だが、内閣総理大臣の一言がすべてを押し流した。


「迷うな。国家を守れ。」


午前10時、衆議院本会議。

国会議事堂の重厚な扉が静かに閉ざされ、

日本の戦後史上、最も暗い採決の幕が切って落とされた。


議場には異様な沈黙が漂っていた。

野党第一党の議員たちは、開会前から「思想と言論を弾圧する法案は絶対に認められない」として

プラカードを掲げ、怒号とともに登壇席前に詰めかけていた。


だが、与党議員の多くは無言で席に着き、ただ機械的に賛成票を投じる準備を整えていた。

その表情には、信念ではなく義務、納得ではなく諦念の色が浮かんでいた。


議長席に立ったのは、老練な与党議員。

淡々とした声で「思想安全保持法案、採決に入ります」と告げた。


その瞬間、野党側から激しい怒号が飛ぶ。

「違憲だ!」

「この国をどこに連れていくつもりだ!」

「あなた方は戦前の亡霊か!」


だが議長は表情一つ変えず、静かに告げた。

「起立により採決いたします。賛成の方はご起立ください。」


その一言で、議場の空気が一瞬止まった。

次の瞬間、与党席がゆっくりと立ち上がる。


まるで無言の軍隊。

思想も倫理も、すべてを飲み込み、ただ組織の命令に従う機械のように。


わずかに迷い、座り続ける者もいた。

だが彼らの横で、若手議員や保守派の幹部たちは毅然と立ち上がった。


「我々は国家を守る」と言わんばかりに。


一方、野党席は総立ちとなり、怒号と拍手で抗議を続けた。

一部の議員は「暴力的採決!」と叫び、壇上に詰め寄ろうとしたが、

衛視隊が静かに壁となり、物理的な衝突は防がれた。


議長は冷静に言い放った。


「賛成多数により、本法案は可決されました。」


その瞬間、議場に静寂が落ちた。

日本の戦後民主主義が、ひとつの時代を終えた瞬間だった。


野党側からは「議会制民主主義の死だ!」と叫ぶ声が響き、

一部の議員は泣き崩れ、

一部は無言で拳を握りしめ、

一部は静かに席を立ち、議場を後にした。


議事堂の外では、すでに市民たちが集まり、

「思想弾圧法反対」「自由を返せ」と叫んでいた。


SNSでは「#日本終了」「#思想弾圧法成立」「#NeverForget0706」などのハッシュタグがトレンド入りし、

独立系メディアは「言論の自由が死んだ日」と速報した。


海外でも直ちに速報が流れ、国連人権高等弁務官事務所が緊急声明を発表。

アメリカ・EU・カナダ・オーストラリア各国政府も「深い懸念」を表明した。


採決後、官邸の一室。


内閣官房長官は沈黙し、

外務大臣は深いため息をつき、

法務大臣は机の上の法案原本をただ見つめていた。


だが首相だけは、静かに言い放った。


「これでいい。

 この国を守るのは、理想ではない。現実だ。」


その言葉は、周囲に冷たい重みだけを残した。


その夜、榊原鷹彦は地下スタジオから、世界に向けて声明を配信した。


「国家は今日、言葉に対して法で報いた。

 それは敗北ではない。むしろ、国家が言葉を恐れた証拠だ。

 私は問う。

 あなた方はこのまま黙って見ているのか?

 それとも、あなた方自身の言葉で応えるのか?」


この声明は、国内外で広く共有され、

一方で政権支持層からは「外国勢力の手先」「国家反逆者」としてさらに強く批判された。


こうして「思想安全保持法」は成立した。

だが、榊原とその支持者たちはまだ屈していなかった。


次の闘いは、

「この法律に基づく初の摘発」か、

「憲法裁判での違憲訴訟」か、

あるいは「さらなる国際社会からの圧力」か。


闘いは終わっていない。

むしろ、これからが本当の始まりだった。


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