幕間五
録音機材の赤いランプが、規則的に点滅を続けていた。
静かな室内。窓の外では初夏の風が揺れ、カーテンの端をやや乱暴に撫でていく。そのわずかな音が、まるで時を測るメトロノームのように沈黙の隙間を埋めていた。
海藤仁はその沈黙に慣れているように見えた。かつて、国政の只中で言葉を磨き、沈黙を重ね、真意を隠しながら何度も言葉を選び直してきた男。その面影は今も皺の深く刻まれた表情の中に残っていた。
コーヒーのカップが小さく音を立てた。彼は冷めきったそれを口に含み、苦みの奥にある金属的な後味に遠い記憶を重ねるように目を細めた。
インタビュアーは、筆記具を握ったまま問いを投げかける。
――「“市民討論会”が全国に広がりはじめた頃、あなたはどこにいましたか?」
海藤はわずかに笑った。その笑みには、苦々しさも懐かしさもない。あるのはただ、記憶に対する慎重な距離感だった。
「……現場にいたよ。もちろん名乗らず、ただの聴衆としてね。榊原の元秘書が市民運動に顔を出してるなんて知れたら即座に摘まれてた。公安も、マスコミも、当時の政界も……敵だらけだったからな」
彼は腕を組み、しばし視線を天井に移した。天井の模様を目でなぞりながら、言葉を選ぶ仕草は、まるでそれが一種の儀式であるかのようだった。
「討論会って言っても、最初はただの雑談の場だった。大学生やフリーター、元技術者、主婦、定職を持たない若者……みんな小さな場所に集まって、“日本をどうにかしたい”って、もごもご言ってるだけだった。けどな――あの時代、そういう“もごもご”が、いちばん危険視されてたんだよ」
喫茶店の片隅でかわされた雑談に、公安の監視が及ぶ。討論会の告知を出したブログに、謎のアクセス障害。街角の掲示板に貼られたチラシが、翌朝には全て剥がされている。
「誰もそれを明言しなかったが、皆が感じていた。『これは……何かがおかしい』ってな。言葉が権力の監視対象になるなんて、かつての全体主義の話かと思ってたよ。まさか自分の国で見ることになるとはな」
――「あなたは“主権貸与政策”に本心から賛同していたのですか?」
一拍の沈黙。インタビュアーの声には抑制された鋭さがあった。それに呼応するように、海藤の目も鋭さを取り戻した。
「正直に言えば……最初は否定的だったよ。そんな発想、あり得ないとすら思った。“日本の主権を貸す”? ふざけるなってな」
彼の声には、かすかに怒りと懐疑の名残があった。それは過去の否定ではなく、過去の自分への誠実な再確認だった。
「でも、榊原が本当に恐れていたのは、“この国が一度も外部に支配されたことがないまま、静かに崩壊していくこと”だったんだ。誰にも壊されたことのない家ってのは、案外、風にもろい。だからあえて“外の目”に晒すことで、日本人自身に問おうとしたんだよ。――この国を、どうしたいのかってな」
言葉の端々にはもはや怒りはなく、ただ疲弊と焦燥の重なった響きがあった。
――「では、あなたは榊原の同志だった?」
海藤は少しだけ眉を上げ、皮肉っぽく笑った。
「同志かどうかは……いまだに分からないな。あいつは、“味方”を求めない男だった。孤独に慣れていたし、孤立を選ぶことでしか言葉に力を持たせられないと思ってた節がある。誰かと一緒に語れば、理想は妥協になるとでも言いたげにさ」
彼は、コーヒーの空になったカップを見つめた。まるでその底に、榊原の背中が映っているかのように。
「けど……それでも惹かれたよ。ああいう狂気には、抗いがたい引力がある」
――「あなたは歴史の“歯車”になったと感じますか?」
この問いに対し海藤は一瞬目を細め、そして――乾いた笑みをこぼした。
「そんな立派なもんじゃない。ただの……道具だったんだと思う。政策草稿を整え、議事録を処理し、影で取引を取り付ける。秘書ってのは、そういう職業だ。主人の思想に飲まれすぎると、使い捨てになる」
目元に刻まれた深い皺のひとつが、光の加減でわずかに浮かび上がった。
「だけどな。一度でもあの草稿に手を入れた以上、それはもう、“私の言葉”でもある。ほんの一文でも、自分の指で選んだ単語が混ざっていたら、それはもう“他人事”じゃない。それが今の私の矛盾だよ」
――「その矛盾に答えは出ましたか?」
長い、長い沈黙が落ちた。
海藤は目を閉じ、やがてわずかに首を横に振った。
「……いや、出てない。たぶん、これからも出ないだろうな。矛盾に答えを求めるほど、私は若くない」
録音機材の赤いランプが、一定のリズムで点滅を続けていた。
「でも、せめて誰かには伝えたかったんだよ。“あれは過ちだった”っていう今の常識に、ノーを言いたかった。“あれは、ひとつの問いだった”って。それだけだ」
インタビュアーは、何も言わなかった。ただ、一枚の紙をめくる音だけが、部屋に微かに響いた。
カップの中は、もう空だった。




