第十八章:静かな発火点
炎は燃え上がる前に、長い沈黙を孕む。
榊原鷹彦の思想は、ある講演動画という火種によって広く拡散された。だが、その火はすぐには爆ぜなかった。代わりに、静かに、ゆっくりと、社会の隙間に潜り込むようにして、言葉として形を変えながら、浸透していった。
それは言葉を通じた発火だった。
最初に集まったのは、名もなき若者たちだった。
場所は東京・高田馬場、古びた喫茶店の二階にある貸し会議室。コーヒーの香りと、窓の外の電線が軋む音だけが支配するその空間に、十人に満たない人々が集った。誰一人、代表を名乗る者はいなかった。ただ一人、眼鏡をかけた青年が切り出す。
「……きっかけはあの動画です。けど、議論したかったのは、誰が投稿したかじゃない。この国が、これからどこに行くのかです」
彼らの大半が、草稿のPDFを印刷して持っていた。余白には、びっしりと書き込みがあった。
「主権を貸与する?そんなの受け入れられるはずないよ、って最初は思った。でも読んでるうちに、これは“選択肢”の話なんだって、気づいた」
「俺たちには何もできないと思ってた。でも、何もしないで終わるのは、それ以上に怖い」
話は夜まで続いた。制度、経済、世代間の断絶、希望と絶望……その空間には、怒号も涙もなかった。ただ、思考があった。議論があった。
彼らはそれを「討論会」と呼んだ。名もない、そして形のない、小さな“火”だった。
その火は、思った以上の速さで全国へ波及していった。
東京の翌週には、京都の学生が会を開き、続いて福岡、札幌、仙台へと広がっていく。どの会にもリーダーはいなかった。SNS上の小さな告知、誰でも来てよい、誰も代表ではない。
内容は統一されていなかった。ただ、一つだけ共通していたことがある。それは「この国は、もう“自分たちの声”で変えられると信じたい」という、切実な祈りに近い動機だった。
東京・下北沢のレンタルスペース。その夜、海藤仁は、誰にも名乗らずにそこにいた。黒いフードのついたパーカー、マスク、ノートを抱えたまま、静かに最後列に座った。
若い男が口を開く。
「“主権を貸す”って、売国だって言う人もいる。でもさ、何もせずに国家が崩れるのを見てるだけの方が、俺はもっと怖いと思う」
「うちの親、あの動画見て『こんなやつら、国を潰す気か』って怒鳴ってた。でも、あれを見て、初めて“政治って今も変えられるんじゃないか”って思ったんだよね。皮肉だけど」
沈黙の中に、本音が響く。
帰り道、海藤は地下鉄の駅へ向かう途中、信号待ちの最中にポケットの中の名刺を取り出していた。そこには、もう使うことのなくなった肩書――
「衆議院議員秘書 海藤仁」
消えかけたインクを、しばらく見つめていた。
数日後、高村匠は公安庁内で“非公式の聴取”を受けていた。
「君は読書会以後も、榊原の思想に関与していたか?」
「市民討論会に関与している?」
「草稿PDFは誰が公開した?」
室内には複数の記録装置が隠されていた。質問者は表情を変えず、慎重な口調だったが、ひとつひとつの言葉の裏には、はっきりと「踏み絵」が込められていた。
高村は答えなかった。否定も肯定もせず、ただ、記録用紙の上に手を置いたまま目を閉じた。
市民討論会の内部でも、次第に意見の分裂が起こり始める。
「これはもう思想運動ではない。政治運動にするべきだ」
「国会前で座り込みをやろう。署名を始めよう」
だが、異論も多かった。
「それをしたら、ただの過激派にされる。そうなったら終わりだ」
「いまは“語ること”こそが武器だ。形にしてしまったら、攻撃されるだけだ」
決裂は避けられなかった。一部のグループが独立し、別団体を名乗り始めた。そのとき、討論会は“草の根”から“運動体”へと変わりかけていた。
公安庁はすでに、各会場への非公式の監視を配置していた。カフェの防犯カメラ、参加者のIPアドレス、動画の再生ログ、PDFのダウンロード履歴……
だが、草の根側も黙ってはいなかった。匿名掲示板でプログラマーたちが集まり始め、VPN経由の通信網、チャット暗号化、使い捨ての連絡アカウント……彼らは「思想のサイバー防衛」を名乗り、動き始めた。
国家と市民とのあいだに、言葉とコードによる新たな情報戦が始まっていた。
ある雨の日、榊原と海藤は、小さな寺の書院でふたたび顔を合わせた。
榊原は、何も語らない時間をしばらく続けた後、ぽつりと言った。
「これはもう、私の手を離れたな」
「そうですね……でも、あなたが火を点けたことは、間違いない」
「いや、点けたのは私ではない。読み取った人々だ。今は、彼らの国なんだ」
沈黙のあと、海藤は少しだけ身を乗り出して訊いた。
「次にやるべきことは、何だと思いますか?」
榊原はしばらく考えたあと、静かにこう言った。
「いま必要なのは、声を上げることではなく、“守る”ことだ。思想を、言葉を、まだ見ぬ未来を。燃えすぎる前に、その火を護れ」
こうして、第十八章は終わる。
思想は、群れになろうとし始めた。国家は、それを無言で追い詰めようとしていた。だが、どちらが勝つかという話ではなかった。まだ、そのどちらも、“正しさ”にはたどり着いていない。
炎は、確かに灯った。
そして、その火種は誰にも消せなくなりつつあった。