守城の名将:袁崇煥:第6章:悲運の章④
1630年の寒い冬のことだった。
袁崇煥――明の最後の英雄であり、国を守った名将が処刑された後、妻の黄青桂は深い悲しみに沈んでいました。
黄青桂。彼女は聡明で強い女性でしたが、その日々はまるで氷のように冷たかったのです。夫を失い、幼い息子・袁文弼と二人だけの世界に閉じこもっていました。
袁文弼はまだ5歳。母親の悲しみを知りません。無邪気に遊ぶ姿が、黄青桂の心に切なさを募らせます。
「こんなに幼いのに、これからどうやって生きていけというのでしょう……」
黄青桂はぽつりとつぶやきました。
その頃、袁崇煥の元部下たちは動き始めました。祖大寿、満桂、何可綱。彼らは皆、袁崇煥のために命をかけた男たちです。
祖大寿が眉をひそめます。
「このままじゃ、妻子が危ない。守らねばならん。」
満桂が少し笑って、だが真剣に言います。
「おい、祖さんとご子息の命。俺たちが守らなきゃ、誰が守る? 腹をくくろうぜ。」
何可綱はそわそわしながらも、
「な、な、名前も変えて、ひっそり隠れるしかないですよね。北京じゃ、危険すぎる。喰うのも困ります。
幸い、袁崇煥様の弟君を見つけました。広東の弟君の元に身を寄せてもらいましょう」
こうして、袁崇煥の妻、黄青桂と袁文弼は、北京を離れました。
袁崇煥の弟である、袁崇煜の元に送られたのです。
その後、黄青桂と息子・袁文弼は、名前を変えて静かに息をひそめて暮らす事になります。
祖大寿がぽつりとつぶやきます。
「名を変えても、袁家の誇りは消えぬ……」
黄青桂は、今はまだ悲しみにくれているが、心の奥底には、かすかな希望が灯っていました。
「この子の未来だけは、絶対に守る……」
そう誓いながら、母と息子は新しい生活を歩み始めたのでした。
◯1631年──赤い空の遼西
空が赤く染まっていました。
それは、朝日ではありませんでした。 燃えているのは、村々でした。 北から攻め入ってきた後金、のちの**清**の軍勢が、集落を焼き払っていたのです。
ここは、北の守りの要、遼西の寧遠城――。 かつて明の将軍・**袁崇煥**がこの地を守り、「明の盾」とまで呼ばれた鉄壁の城です。
その城壁の上に、ひとりの壮年の将軍が立っていました。 顔には深いしわ。眼光は鋼のように鋭いのです。
「……また、奴らが来やがったか」
彼の名は祖大寿。 以前、袁崇煥の片腕として勇名をとどろかせた名将です。 ただ力任せに戦うのではなく、知恵にもたけ、部下の心をつかむのが上手い男でした。 けれどその心には、ひとつだけ、まだ癒えぬ傷があったのです。
「将軍、敵の動き、見えましたぜい!今夜にも三手に分かれて、包囲してくるようです。ぶっ殺してやる~~!」
そう言って背後から姿を現したのは、満桂でした。 細身で長身、年は若いが、その勇猛さは軍一とも噂されています。 地形を読み、敵の動きを読み、作戦を立てるのが得意な、頼れる武将です。
「……落ち着け、満桂。策はあるか?」
「はい。正面から攻めさせるフリをして、あえて側面の門を開けておきます。敵が油断して入ってきたところを、伏兵で挟み撃ちにしましょう。 よっしゃー!燃えてきたぜ~~!」
「ふん、いいじゃねえか。奴ら、寧遠が欲しくてたまらねぇんだ。きっと罠にかかる」
祖大寿は、ぐっと拳を握り、わずかに笑いました。 けれどその瞳は、赤く染まる空の向こう――過去の戦友の姿を追っていました。
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敵は、満洲の地から起こった後金の軍勢です。 その総帥はホンタイジ。先代ヌルハチの子で、今や清と名乗って新たな国を築こうとしていました。
ホンタイジは、戦の腕も知略も一流で、明の城をひとつずつ切り崩していました。 そして、袁崇煥のいない今―― かつての防衛線は、音を立てて崩れていったのです。
なぜ、袁崇煥がいないのか。
それは、悲しい誤解によるものでした。 忠義の将・袁崇煥は、皇帝・**崇禎帝**に「裏切り者」と疑われ、無実の罪で処刑されてしまったのです。
「袁将軍がいればなァ……もっと、アツい戦いができたのによぅ。」
満桂がぽつりとつぶやきました。 だがその言葉に、祖大寿の目が光ったのです。
「――その名前を、軽く口にするな」
「……失礼しました。ただ、あのお方の志は、我々が受け継ぐべきだと、俺は思っていますぜ!」
「……ああ、そうだな。あの人の思いを、無駄にしてはならん。あれっきり、終わらせられない」
祖大寿の拳が、また固く握られました。 それは、燃える村を前にしても揺るがぬ決意のあらわれでした。
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そのころ、寧遠の西――錦州では、別の戦が始まっていました。
「ぎゃーっ!?北も南も後金の軍ばっかりだ!逃げ場がないですぞぉっ!」
叫んでいたのは、何可綱―― もとは補給担当の武官でしたが、なぜか軍の指揮をする羽目になった、運の悪い男です。 戦は苦手ですが、おどおどした優しい性格で、兵たちには意外と好かれていました。
「じゃあ、いっそ籠城しましょうかい?酒と食い物さえあれば何年だって戦ってやる。」
と軽口を叩いたのは満桂です。
暑苦しい男ですが、戦になれば誰よりも先頭で槍をふるう、勇敢な将です。
「うむ……食い物はなぁ……そんなにはないかなか……」
「ならば、城を出てアツく戦わなきゃ!」
兵たちは一斉に笑いました。 その笑いの奥に、不安と覚悟がまじっていることを、誰もが知っていたのです。
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一方その頃――
北京の紫禁城では、若き皇帝・崇禎帝が、重たいため息をついていました。
「……なぜ、あの者を、斬ってしまったのだ」
袁崇煥の処刑のとき、空に雷鳴がとどろき、宮城の上には黒雲が立ちこめました。 あれは、天が悲しんでいたのです。
「袁崇煥さえ、生きていれば……」
皇帝の視線は、地図の上に落ちていました。 遼西、寧遠、錦州、山海関―― かつては明の盾だった土地に、今や真っ赤な敵軍の印がびっしりと刻まれていました。
ホンタイジは、もう辺境の将ではありませんでした。 国を名乗り、王になろうとしていました。 それは、北から南へと押し寄せる、虎のような勢いでした。
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そして夜――
寧遠の城壁の上で、再び祖大寿は空を見上げていました。
手には一本の矢。それを空に掲げます。
「来るなら、来やがれ……」
その言葉に怒りはありませんでした。 ただ、託された思いへの、祈りが込められていました。
「俺は、あなたの築いた壁を、守ってみせる。 どれだけ裏切られようと、信じたものを裏切らない。それが、俺の戦だ」
冷たい風が吹きました。
その風の中に、ふと、誰かの声がした気がしました。 それは、風でしょうか。それとも遠き友の魂でしょうか――
今夜、またひとつの戦が始まります。 ですが、明の大地に灯る志の炎は、まだ、消えてはいませんでした。
◯1632年
風が、凍えるように冷たかったのです。
場所は、遼東――今の中国東北部にある寒い土地です。ここは、女真族と呼ばれる騎馬民族が、たびたび明という国に攻めこんでくる最前線でした。
この地で、砦をまもっていたのが、武将の祖大寿でした。
祖大寿は、かつて明の名将・袁崇煥の部下として、何度も女真族と戦ってきた勇士です。顔はぶあつく、無口で、いつも鎧を身にまとっていました。仲間からは頼れる親方のように思われていたのです。
そんな祖大寿のもとに、雪煙を上げながら、一軍の騎兵が駆け込んできました。
「叔父上!」
先頭で馬を走らせていたのは、若き武士・**呉三桂**でした。祖大寿の甥であり、まだ十五歳とはいえ、剣術も弓術も人並み以上にこなす、将来有望な少年です。
「遼陽から援軍を率いてまいりました!五百騎でございます!」
彼の背後には、鋼の鎧に身をかためた兵士たちが、冷気をものともせず馬上に並んでいました。凍えるような風のなか、その姿はまるで一陣の烈風であったのです。
祖大寿は、しばらく黙っていましたが、ふっと鼻で笑いました。
「ワシの許可なく、勝手に来おって……だが、ありがたい加勢だ。使えそうなら、使うまでだ」
その横で、やかましい男がひとり、あわてて駆けてきました。
「うわー、マジかよ!アツい事をする、坊ちゃんだな!しかも五百騎連れて!?初陣だろ!?こいつは、やる奴だぜ!」
これは**満桂**という武将で、騎馬の名手ではありますが、常にハイテンションで、よく喋る人物でした。
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その日は、女真族の兵がまた雪原を渡って攻めてきていました。
太鼓の音が鳴り、馬のいななきが響きます。
呉三桂はすぐに城壁の上に登ると、風を読み、弓を構えました。
「落ちろ……っ!」
放たれた矢は、矢尻に鋼鉄をつかった特注で、見事に敵の騎馬武者の眉間を貫いたのです!
敵の軍勢が一瞬止まります。
満桂が目を見開きました。
「な、なんだ今の!すげえ!まじでスナイパーじゃん!すっごいぞ坊っちゃん!いや、呉三桂!」
矢は二本、三本と連なり、次々と敵を倒していきます。
祖大寿は静かにうなずきました。
「……初陣にしては、悪くない」
呉三桂はまっすぐに前を見ながら言いました。
「叔父上の背中、いつか越えてみせます」
祖大寿の顔に、わずかに笑みが浮かびました。
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そう、この時代は戦国の世です。だれもが、命をかけて戦い、生き抜こうとしていました。
雪の降る中、ひとりの少年が、五百騎を率いて初めて戦場に立った――それは、やがて大きな歴史の波へとつながっていく、小さな始まりだったのです。




