守城の名将:袁崇煥:第6章:悲運の章②
◯1629年・冬 北京
灰色の空に雪がちらつく朝──。
明の都・北京では、重臣たちがそわそわと広間を行き来していた。朝廷には緊張が立ち込め、宮中の空気はどこか濁っていた。
「な、なんと……袁崇煥どのが、後金と内通しているらしい!」
「馬鹿な!あの将軍が敵と通じているだと!?」
「いや、聞いた話では、わざと敵を引き入れ、戦の功績をひとり占めしようとしておるとか……」
文官たちが顔をひそめて話す。彼らは筆と口先で政を動かす者たち。戦場の土を知らぬ者たち。
この「後金」とは、満洲の部族を束ねて急成長した強国。初代皇帝・ヌルハチの後を継ぎ、皇太極(ホンタイジ)が治めている。彼らは今、明の国境を脅かしていた。
その後金を迎え撃つべく、北辺の守りを任されていたのが、名将・袁崇煥であった。
遼東を守り、何度も敵を撃退してきた忠義の士──。だが、そんな彼に、突如「反逆」の噂が巻き起こったのである。
そして、その渦中にあったのが、若き皇帝・崇禎帝であった。まだ二十歳を過ぎたばかりの若者で、即位から数年しか経っていない。
──信じてよいのか、それとも……
そんな迷いを抱えながら、彼はついに袁崇煥を呼び寄せた。
*
雪が舞うなか、軍装をまとった男が静かに御前へと進み出る。
袁崇煥。その風貌は鋭く、だが瞳の奥に確かな覚悟を宿していた。
「陛下、お呼びにより参上いたしました」
その声音は静かで低く、宮廷の空気を切り裂くようだった。
崇禎帝が、おずおずと問いかける。
「袁将軍……。なぜ後金の軍が、ここまで迫れたのだ……?」
その言葉に、袁崇煥は静かに答える。
「引きつけ、討つ。それが最も効果的と考えました。敵を都に近づけることで、動きを読むのです」
「……だが、なぜ我の許しもなく動いた?勝手に講和を持ちかけたという噂もあるぞ」
「戦場には、一刻の判断が命を分けます」
その一言に、ざわめく文官たち。肩をすくめる者、目を伏せる者、あるいは袖の下でほくそ笑む者──。
「おおかた、戦を理由に軍費を懐に入れたのだろう」
「将軍といえど、独断専行は許されませぬな」
口々に非難の声が上がる中、袁崇煥は一歩、前へ出た。
「命は兵に与えました。金は城を守るために使いました。──信じられぬなら、私を縛って裁くがよいでしょう!」
その言葉は、刀よりも鋭く広間に響いた。
崇禎帝は言葉を失い、まなざしを伏せる。
「……そなたを、信じたいとは思っておる。だが……」
迷いの声。その背後には、すでに毒が広がっていた。
──宦官たちが陰で動き、
──敵国・後金の策士・范文程が流した噂は、
水のように、静かに朝廷の心を腐らせていた。
*
信がなければ、国は崩れる。
だが、信を試されるとき──人は、最も大切な者を疑ってしまう。
忠臣は、裏切り者にされ、
英雄は、罪人として断罪される。
その始まりが、いま、ここにあった。
灰色の空に舞う雪は、やがて赤に染まることとなる。
◯1629年:北京の空に
空が、泣いていた。
時は崇禎七年──すなわち西暦一六二九年。場所は北京、明王朝の首都である。冷たい風が街を吹き抜け、人々の心を刺すようだった。
ある日、そんな都に、不穏な噂がひそひそと広がった。
「袁崇煥は、敵の後金と通じておるらしいぞ」
「北京が危なかったのも、わざとじゃと……自分の手柄にするためじゃとさ」
口にする者は誰もが顔を伏せ、笑いをこらえていた。だが、その発信源は明らかだった。
それは、皇帝のそばに仕える**宦官**たち──皇帝の耳元で囁く者たちである。
表では柔らかく、裏では鋭い。
それが、彼らのやり口だった。
「まさか、そんな……」
都の人々は表向きには驚いたふりをしたが、心の中には不安の種が蒔かれていく。
そして、その不安は──若き皇帝崇禎帝の耳にまで届いてしまった。
◆
崇禎帝──即位してまだ数年の新しい皇帝である。
彼はまじめで賢く、政治にも熱心だった。だが、まだ若く、心には大きな不安と孤独を抱えていた。
そのため、人を信じるよりも、まず疑う癖があった。
そんな彼に、重臣・袁崇煥が裏切ったかもしれない、という噂が飛び込んできたのである。
「袁崇煥……まさか、お前まで……」
皇帝は、玉座の上で一人、深いため息をついた。
心には黒い霧が広がっていく。迷い、そして恐れ──それらは彼の決断を、じわじわと蝕んでいた。
◆
一方その頃、当の袁崇煥将軍は、軍の本営で静かに噂の広がりを受け止めていた。
彼は広東の出身で、理知的で沈着冷静な人物である。
北の最前線──**遼東の戦場で、幾度となく後金**の軍を打ち破った名将であり、民衆からの信頼も厚かった。
だが、その顔には、いま笑みはなかった。
「……さて。誰が俺を売った?」
その一言に、部下たちは凍りつく。
まるで鉄を削るような低く鋭い声だった。
「おっと、閣下っ! わしじゃないですぞ! 断じて!」
慌てて手を振ったのは、祖大寿。精悍な顔立ちの、やや大柄な男である。
かつては遼東で共に戦った、気のいい戦友であった。
「こう見えても忠義一筋でしてな。たまに昼寝はしますけど、寝言でも『忠義!』って言ってるくらいでしてな!」
袁崇煥はふっと鼻で笑い、しかし鋭い眼差しは変わらなかった。
「……その寝言、聞いてみたいな。まあ、俺を売ったヤツはここにはいない」
彼のそばには、もう一人の重臣──何可綱が立っていた。おどおどした補給担当の武人で、情報通としても信頼されていた。
「し、し、司令、まことに残念ながら、あの噂は日に日に広まっております。
し、しかも……宦官どもが、皇帝陛下の耳元でささやいているとか。
毎日、満足に美味いもの喰ってるヤツは、やっぱり、口汚ないです。」
「知っている。犯人は宦官どもだ。だが、裏で糸を引いているのはホンタイジだろうな。
……陰謀とは汚い手口だが、有効なのは認めざるをえない」
袁崇煥の瞳には、怒りと深い失望の色があった。だが、決して怯えてはいなかった。
彼が信じていたのは、正しさと責任である。
◆
そして、ついに運命の時が来た。
その日、袁崇煥は、宮廷の正門でいきなり逮捕された。
罪状は、「敵軍を引き入れたこと」と「皇帝の許可なく講和を進めたこと」であった。
彼の周囲には、数えきれぬほどの兵と役人、そして民衆の視線が集まっていた。
「……何の真実も確かめず、噂だけで人を裁くのか」
袁崇煥の最後の言葉は、どこまでも静かで重かった。
だがその響きは、北京の曇り空の中へ、むなしく吸い込まれていった。
◆
こうして、明王朝はひとりの英雄を、自らの手で葬った。
だが──それがもたらした代償は、大きすぎた。
この後、後金の侵攻はさらに激しさを増し、都・北京はふたたび戦火の影にさらされていく。
そして、袁崇煥の名は、民衆の記憶の中で、ひそかに語り継がれていくこととなる。
「正しさとは、時に、孤独である」
それを知っていた者の、悲しい独白であった。
◯1629年
『鉄の誓い(ちかい)』
ひんやりとした石の牢の中。
壁も床も灰色で、昼か夜かもわからない。
ぎり――と鉄の枷が音を立てた。
そのたびに、男の目には怒りの光がちらりと宿る。
男の名は――
袁崇煥。
中国の南方、広東の出身。
清という名になる前の後金と、北の戦場・遼東で幾度も戦った将軍である。
いつも冷静で、戦では一歩も引かぬ胆力の持ち主。
だが、上の者には媚びず、下の者にもおもねらぬ、不器用な男だった。
――その袁が、いまは鎖につながれ、牢にいる。
どれだけの時が流れたのか。
出される食事は冷たく、時おり拷問も受けた。
それでも――その目は、まだ曇っていなかった。
「……私は、売国奴などではない」
かすれた声だったが、はっきりとした重さがあった。
◆
「ま、また自白しないぞ、この男は……!」
役人が脂汗をぬぐいながら、青ざめた顔で言った。
「殴られても平気な顔しとる……おばけか? いや、鬼かもしれぬ!」
横でがたがた震える男が、ぽつりとつぶやく。
「袁よ。面会だ……」
本来、面会を許可されない牢獄に現れた人物。渡したワイロが功を奏し、わずかな面会がみとめられた。
彼の名は――祖大寿。
かつての袁崇煥の部下。
体は大きいが、皮肉屋で毒舌が絶えない。
だが、忠義に厚く、袁への敬意は誰よりも深かった。
「国家のために、命を懸けて戦った閣下がこんな目に……おいたわしや」
泣きそうになった彼を、肘で小突いたのは、何可綱だった。
彼は気弱でいつも腹ペコな補給担当だが、このような寝技には長けている。
「な、な、なんとかワイロを使って侵入しましたが…さすがに閣下を逃がすところまではできませんでした。
お腹すきましたよね。しかし、差し入れはダメだったのです。申し訳ございません。」
「遼東は満桂が留守を守っています。私は間もなく帰らねばなりません。
後は、何可綱殿に残ってもらい。何とかここを出る手段を考えてもらいます」
「やめろ。俺が逃げたらお前たちが罪に問われる。俺にはやましい点などはない。後は陛下がこの一連の騒動が
敵であるホンタイジの陰謀によるものだと気づいてもらう事を祈るだけだ。
お前たちには待機を命ずる!」
袁崇煥の一言で、場の空気がピシリと引き締まった。
◆
一方その頃――
牢の外では、宮廷の宦官たちが、こそこそと話をしていた。
「陛下のお怒りは、もう限界です」
「袁は忠義ぶってますが、あれは偽りの顔ですよ」
「ふふ、あのような者を野放しにしては、皇帝さまの威光が保てませぬ」
彼らの笑い声とともに、銀の飾りがカラン、と揺れた。
◆
紫禁城――皇帝の宮殿。
その玉座に座る若き帝、**崇禎帝**は、じっと静かに考えていた。
賢い人物だったが、疑い深く、時には情よりも理を取る冷たさもあった。
「袁崇煥……」
低く、その名をつぶやく。
「なぜ、敵を都の近くまで来させた? なぜ、我に報せなかった?」
応える者はいない。
疑いだけが、心の底にじくじくと広がっていく。
◆
牢に戻れば――時は移り
袁崇煥は、傷だらけの体で天井を見上げていた。
「民を守り、国を守る。それが、将の道だと……信じていた」
つぶやく声は静かで、深い。
看守が低い声で伝える。
「袁よ。また、面会だ」
傍らには、若き将軍――満桂がいた。
彼はまっすぐな性格で、武にも長けていたが、融通はきかなかった。
「袁将軍、なぜ陛下に弁解しないのですか……!」
袁崇煥は、目を細めた。
「弁解はしたさ。我が誠意は、必ず伝わる……と、思っていた。甘かったな」
「将軍……!」
その背中には、戦いに生きた男の誇りがあった。
◆
さらに、部下の何可綱が妻の黄青桂を連れて牢の外へと連れて来た。
「か、か、閣下、牢番にワイロが効くというのも悲しい話ですが、ワイロ使って、奥様を連れてきました。
でも、私にできるのはここまでみたいです。申し訳ございません。」
「アナタ…なんてひどい目に。どうか……絶望だけは……なさりませぬよう!
いま、色んな方々が、あなたの為に奔走してくださっています。
祖大寿様、満桂様、何可綱様、孫承宗様、徐光啓様、孫元化様、秦良玉様、色んな方が…」
袁崇煥は、ゆっくりと首を横にふった。
「その事が聞けただけでもう満足だ。俺は独りではなかった。
もう、心配するな。俺の命は、もう――戦場に置いてきた」
その声に、迷いはなかった。
◆
――そして、この英雄が数日後、北京の町で処刑されるとは、まだ誰も知らなかった。
だが彼は、最後の最後まで、信じていたのだ。
国を。
民を。
そして、自分の信じた「正義」を。




