<番外>市民主義
「信じていた民主主義は誰のもの?」
と考えることが増えた。
「住民投票は市民の真の意思である」と学んで納得し、尊重するものであると学校できちんと学んだ。
市民の想いは大切だ。
これを否定すればいずれしっぺ返しをくらうだろう。
市民に真摯に寄り添い、市民目線の想像力があればそれは容易に想像つく。
どんなに市民に明らかにできない事情があろうと、市民の意思は無視してはいけない。
未来を担うものに自信をもって説明できないことはあそこが縮こまるくらい残念無念だ。
市民のための政治。国民のための政治。
政治という仕事そのもの一部についてはまさにその通りなのかもしれない。
議会は多数決だから、数としての政治は政治家の仕事の一部として市民や国民のために必要だ。
だが、数だけなら、ましてや自分の真の意思ではことを表明する数としての仕事なら誰がやってもいい。
もちろん、造反する可能性があるその数はまだ存在価値がある。
ただ数の役割を担うだけであれば、この旧態依然とした社会の中で、最新の緊急事態に立ち向かう力は残念ながら皆無だ。
想定外。想定外。という名の言い訳をして自分の力不足を認め、市民のために、国民のために命を懸けて走り回り、現場の声を聴き、想像力を働かせてアイデアを練り、懸命に発信する気概が少しでもあればここまでの政治不信は起きなかったのかもしれない。
残念ながら、命を懸ける政治家がいない。
自分を犠牲にしても尚市民、国民のために汗を流す。歳費やボーナスを削ってでも汗を流す。
そんな政治家を期待していた。
市民や国民が気付くしかない。上の者に世間一般の苦しさや痛みはわからないどころか、想像することもできないということを。
期待は失望を超えることはない。
一太郎のこの挑戦は、ある意味で「市民主義」を市民や国民に伝える悲痛なメッセージでもある。
<次号>
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