空気の色
正直、返ってくる反応を読み違えていたと思う。
「なに言ってるの!夏希はたまに変なこと言うよね」みたいな反応が返ってくるものだと思っていた。
そうでなくとも、それ程までに深刻な雰囲気になることはないと思っていた。
だけど、違った。
ミューズもハーモニーもフォルテも、何も言わない。
僕が言葉を発した瞬間の姿勢のまま身じろぎもしない。
あぁ、空気って色が変わるんだ……僕は初めてそれを知った。
自分以外の人間が全員自分と違う考えを持って、それに何らかの負の感情が重なると、空気の色が変わる。
赤とか黒とかそういう分かりやすいものではないけれど。
駄目だ。正直、耐えられない。
今まで何を言っても何をしても、多分(あり得ないけど)殺そうとしたって笑っていてくれた3人の女神達の面影がそこにないんだもの。
耐えられない。
「えっと……聞こえた……かな。聞こえなかったとしたらそれでもいいかなーなんて……ちょっと思ってるんだけど」
「聞こえたよ」
「聞こえたわよ」
「もちろん聞こえた」
3人同時に返答してきた。
「あ、聞こえてたよね。やっぱりそうだよね。聞こえなかったなんてあり得ない……よね」
「うん聞こえた。聞こえたから、その意味を考えてみたよ。でもその前に一応確認するね。夏希はこう言ったんだよね。違ってたらちゃんと謝るから、ちゃんと聞いて、ちゃんと応えてね。正直、こんなことを私が言うのは私は本当に苦しいし嫌だし、何も聞こえなかったことにしてご飯を食べて家に帰れたらいいなって思うけど……ちょっとサンドイッチにマスタードを入れすぎちゃったねとか、いくら何でも量が多すぎじゃなかったかなとか、そんな話題をしながら夜になって、夏希を抱っこして、そしておやすみなさいしたいけれど、それでもやっぱり確認しないわけにはいかないよね。夏希はこう言ったよね。『僕が1人でこの庭から出て、ミューズ達が残るという可能性はないの?』って」
「私もミューズと同じように聞こえたわ。『僕が1人でこの庭から出て、ミューズ達が残るという可能性はないの?』って夏希が言ったように……そう聞こえたわ」
「私も同じだ。一字一句間違っていないと思う。夏希はこう言った。『僕が1人でこの庭から出て、ミューズ達が残るという可能性はないの?』と」
ミューズとハーモニーとフォルテが、僕の言葉を繰り返す。
1人言えば確認できるよ……とか、そんなことを言える雰囲気ではない。
「うん、間違ってないよ。そう言った」
「聞き間違えなら良かったのに」
「聞き間違えってことにしない?」
「聞き間違えということでいいだろう」
聞き間違え押し通し論が繰り広げられようとしているが、やっぱり1度口に出してしまったことは取り消せないし、そもそもこれは僕がずっと以前から考えて、そして言おうとしていたことであって、聞き間違えで終わらすつもりはない。
どういう結果になるか分からないけど、それでもやっぱりここはちゃんと言おう。
「聞き間違えじゃないってば。僕はね、言ったよ。ここを出たいって。ミューズとハーモニーとフォルテを置いてね」
「今までそんなこと1度も言ったことないじゃない。どうしたの? というか、出られないよ? 夏希はこれから外に出たい理由を私達に話すつもりなんだろうけど、どんな理由があったとしてもここからは出られないし絶対に出さない。これはもう決まっていることだよ。だったら理由なんて私は聞きたくないし、夏希だってどうせ出られないのにそんなこと話したくもないでしょ。無駄な努力ってね、人間は耐えられないようにできているの。結果があるから頑張れるの。出られないのだからそれに向けた努力なんて苦しいだけだし、私達は夏希が苦しいのなんて見たくないし、そんなのは許せない。夏希は苦しむ必要なんてない。今までもそうだったし、これからもそれでいいわ。私達が全部を保証する」
ミューズが、ある意味僕の予想通りのことを言ってくる。
その内容の中に、どうしても反論しなければいけないことがあった。
「ミューズは僕が苦しむのなんて見たくないし、今までも苦しんでこなかったしこれからも苦しむ必要なんてないって言うんだね。今まで僕が苦しいと思ったことはないと本当に思っている?」
「何が言いたいのか分からないよ夏希。私が夏希を産んでから、不自由なんてさせたことある? 愛情は私1人でも十分なところを、ハーモニーとフォルテも加えて3人分。普通の人間の30人分だって自負してるわよ。ご飯は夏希の好みのものを作っているし、夏希がちょっとでも嫌な思いをしている時は、眉毛1本の動きの不自然さからでも分かるわよ」
「うんそうだね。本当にそう思う。ミューズは僕を凄く愛してくれているし、他の2人だってそうだ。僕が何か言えばすぐに叶えてくれる」
「当たり前じゃない。夏希が腕を切り落としてくれって私に願うなら今すぐにでもそうする。ハーモニーもフォルテも同じ。何も不自由させない。全て叶えてあげる。女を抱きたいなら3人のうち誰でも好きにすればいい」
「……今のは聞かなかったことにするね」
さて、ミューズ達に本音を言おう。正直言って、そんなに大した本音でもない。
人であるなら誰でもそうしていること。
もったいぶることのことでもないから、ハッキリと分かりやすく言ってしまおう。
「僕はね、人間として苦しみたいんだ。それだけ。そして、さっきの僕の質問に自分で答えるね。僕は、ここから出られないことで、『人間としてではない苦しみ』があったよ、ずっと」