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六 そして雨は降る



 雨が降っていた。

 夏の暑さにひと息つける穏やかで優しい雨。けれど、粒は大きくて、木々の葉を叩く音は雨の柔らかさに対して大きかった。

 今日は、礼拝と礼拝の間の日。

 そういうなんでもない日であってもラファエルは時間を見つけて足を運んで来てくれるが、毎日の仕事の状況によるので、責任ある立場にもなった最近はほとんどない。

 彼が来ても反応するのはやめよう。

 そう決意してどれだけ経ったかは判らない。

 その間、ときおり司祭が物言いたげにやって来てこちらを見上げることはあったが、それだけだった。自分を見つめてくれる存在はまだいたのだと、何故か気持ちは虚しくなってゆく。

 司祭の眼差しは厚く包み込むようで、荒んで転げ落ちそうになる気持ちを抑えてくれてもいたが、ラファエルを閉ざしたいま、もはやどんな眼差しもローレライには重荷以上の意味をなさなくなっていた。

 この時間、教会では朝の礼拝も終わり、諸事に出たりなどで、聖職者たちやここで暮らす者たちの気配はなかった。

 しっとりとした雨の中、たったひとりでぼんやり景色を見遣るだけのローレライ。その視界に、ひとりの女性の姿が映った。時折木々の間からラファエルを見つめていたあの女性だった。

 鬼気迫る表情をしている。

 背筋が、粟立つ。

 いけない。

 本能が警告をする。するも、逃げられるはずがない。

 彼女の手に、金槌のようなものがある。

(いや……。やめて)

 雨の作るぬかるみを、一歩また一歩と近付く女性。水たまりを避けもせず、泥水が跳ね上がるも気にする素振りもない。

 ただじっと、ローレライだけを見つめている。

 息を吸い込むと、右手の金槌を握り締め直し、ゆっくりと振り上げた。

 それは空から落ちるたくさんの雨粒ごしに見え、すべての瞬間が幾つにも切り取られて、ばらばらにされて、―――がきんという音とともに激しい痛みとなってローレライの足に襲いかかってきた。

()……ッ! ―――え……?)

 ローレライは、自分に襲いかかってきた痛みに愕然とした。

 石像となったあの時から、痛みなどとうに感じなくなっていたはずなのに。

 戦での被害。そのどれにも痛みを感じたことなどなかった。実際、石像の表面も、周囲の壁面が(えぐ)れたのに、傷を受けたことはなかった。

 なのに。

 これは、なんだ。

 がきんと、再び無情な音とともに激しい痛みが足を襲う。

(ああぁッ!)

 女性は金槌を振り上げ、憑かれたようにローレライの足を攻撃してくる。

 一撃されるごと、頭を突き破りそうな強烈な痛みが全身を突き抜ける。

 身体が巨大な鐘となって打ち鳴らされているかのようだ。

 痛みとは、こんなにも全身を引き千切るものなのか。

(痛い! 痛い、痛いッ! お願いやめて!)

 逃げることも避けることも、悲鳴をあげることもできない。

 雨音の中、石像を破壊する音だけが不気味に響き、すべてが砕け散る激し痛みにローレライは悲鳴すらあげられなくなった。

「やめろッ!!」

 遠くから聞こえてきた男性の声に、一瞬女性の動きが止まる。荒々しい音をたてて近付く足音。止まっていた女性の腕が、しかし大きく振り上げられる。

「イルゼッ!」

「離して!」

 足元で誰か―――聞き間違うわけがない、ラファエルと、彼にイルゼと呼ばれた女性が激しく揉み合う気配がある。

「この石像があるから! これがあるから、ラファエルはおかしくなっちゃったのよ!」

「やめろイルゼ!」

 強引に金槌を振りあげイルゼとローレライとの間に、ラファエルは身体を滑り込ませた。

(ラファエル!?)

 危ない、と思う間もなかった。

 ご、と鈍い音が雨に混じる。

 イルゼが力任せに振るった金槌が、ラファエルの肩を直撃したのだ。

「! ラファエル!?」

「ッ……!」

(ラファエル!)

 肩を押さえよろめくラファエル。指の間から血が滲んでいる。彼の身体が壁へと倒れ込んだとき、ローレライの足先に偶然、その血がかかった。

 ―――瞬間。

(……ッ!?)

 これまでとは違う強く痺れる痛みが足先から全身を駆け上がり、火花のように脳天へと弾けた。

 弾けたと同時、砕かれた足先から、ほとばしるように真っ赤な血が溢れ出た。

 見開いたままの目からも、滂沱と涙が。

「な……」

 ラファエルに駆け寄ってきた別の人影―――司祭が、その光景に息を呑む。

 司祭だけではなかった。その場にいたラファエルやイルゼ、騒ぎに駆けつけてきた聖職者や下働きの者たちも、己の目を疑った。

 石像が涙を溢れさせ、鮮やかな血を足から流している。

 血が溢れ出るローレライの傷口から、身を中心に全身へと太い(ひび)が走った。

 胸元の罅割れは一番深く、その奥から淡い色が見えた。罅に留まりきれなかった石がこぼれ落ち、見る間に隙間は広がってゆく。

 その場の者全員、目を瞠ったまま、動くこともできない。

 雨に剥がされるように、石の塊が落ちてくる。

 もはやそれは石像ではなく、石の殻を被った〝なにか〟でしかなかった。

 幾つもの塊が落ちたときだ。

 その〝なにか〟が、隙間を割って中から押し出され、転げ落ちてきた。

 一気に割れ、砕け、飛び散る石像の表面だったモノ。灰色のそこから生まれる、金と白と、薄桃色の色彩。

 音も、なにもなかった。

 雨も、雨空も、教会も大地も。

 ただそこに―――石像を割って、金の髪の女性が咄嗟に腕を広げたラファエルのもとへと生まれ落ちていた。

 弾けた石の肌は細かなかけらとなって、雨を(はじ)きながら透明な空気を(きら)めかせ、舞い落ちてくる。

 時間のすべてが止まり、あらゆる瞬間が皆の眼裏に焼きついていく。



 ―――ラファエルの腕の中で、ローレライは静かに抱き締められていた。

 誰も、なにも言葉にできなかった。

 ラファエルの手が、恐々とローレライの背中を包む。

 雨が降っていた。

 雨の音だけが、静寂と驚愕を深くさせている。

「―――あぁぁ……」

 深い吐息をついたのは、ラファエルだった。ぎゅっと、ローレライを抱き締める腕に力をこめる。ローレライの顔が、ぎこちない動きでゆるゆると上がる。

「……」

 間近にある、濡れそぼった黒い瞳。

 頬が、熱い。

 流れるそれは、懐かしい熱さ。

 身体が、温かさに包まれていた。

 遠い昔に失った、ひとのぬくもりだ。

 目の前にいる彼は、ラファエル……?

 喋ろうとするも、喉が固まりついていて声を出すことが叶わない。砕かれた足だけでなく全身が、とにかく(きし)むほどに痛かった。

「聖女さま……」

 どれだけの時間そのままだったのか。ローレライの全身にまとわりついていた石像のかけらが、柔らかな雨に流されていた。

 身体に感じる自分の体重。数百年前の厚い生地の服が吸った雨の重み。胸を満たす、しっとりと潤んだ空気。雨を受け、反射的に生まれる瞬き。

 目を動かすと、いまのいままで自分がいた教会の壁では、無惨に崩れた石ががれきとなって雨に打たれていた。

 肌を打つ雨粒の感触は、石から解放されても優しいままだった。

「ああ、聖女さま……」

 すぐそばから聞こえる、掠れた声。

 目を戻し、すぐそばの黒い瞳に、ぎこちなく首を振るローレライ。

 首を動かすことが、できる。

 たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。

「ろーれらい。ろーれらい。ろーれらい」

 声にならない声。固まりきった喉が、それでも音を出そうと上下する。何度も繰り返す口の動きで、ラファエルに初めて彼女の名前が届く。

「ローレライさま……?」

 途方もないほどの懐かしい音の連なり。

「さまはいらない」

「? 呼び捨てで、いいと?」

 頷くローレライ。

「ローレライ。心地いい音の名前だ。僕は、ラファエルっていう」

「しってる」

 声にはならないが、唇と首肯で答えるローレライ。

「綺麗な青色の目をしているんだね。まるで深い湖の色だ」

 かつての恋人も、ローレライの瞳の色をまったく同じ、深い湖の色だと褒めたたえてくれた。

「かた……」

 ラファエルの肩は、イルゼの金槌を受けている。

 言葉の音ではなく、ローレライの目の動きでラファエルは己が負っていたはずの怪我を思い出す。

「―――?」

 怪訝な顔となったのは、ローレライもラファエルも同時だった。

 勢いよく振り落された金槌が当たったというのに、ラファエルの肩には傷らしきものが見当たらなかった。

 溢れ出た血も、雨に洗い落とされて跡すらない。

 そういえばとラファエルは思う。

 先程ローレライを受け止めたとき、まったく痛みを感じなかった。

 導かれるように、ふたりはローレライの足を見る。砕かれ血を噴出していたそこには、―――そこにも、なにもなかった。

 いったいどういうことなのか、見当もつかなかった。

「なによこれ……、なんなの……!?」

 数歩離れたところで立ち尽くしていたイルゼが、我に返ったのか混乱した声をあげた。

「奇跡、というんですよ」

 別の声がイルゼに答える。司祭だった。司祭はイルゼの手から金槌を取り上げ、やってきた下働きの男に、

「沙汰あるまで、閉じ込めておくように」

 と引き渡す。そうしてゆっくりと、雨に濡れそぼり、ぬかるみで抱き合うふたりのもとへとやってくる。

「おかえりなさいませ」

 ローレライは、こちらに足を向けた司祭に目を遣る。

「まだ全部を解読できたわけではないのですが、古文書に六百年以上もの昔、吸血鬼族の呪いでこの教会の壁に狼族の恋人である女性が埋められたという記述がありました」

 司祭は穏やかに言うが、自分を抱き締めるのは、〝狼族の恋人〟ユリウスではなく人間のラファエルだ。彼の気分を悪くさせるのではと一瞬心配したものの、深い眼差しでこちらを見つめるラファエルの表情は変わらなかった。

「だいぶ前に、司祭さまが教えてくれたんです。僕がローレライさ……ローレライのところにいつもいるから知りたいだろうって」

「そう……」

 もう嫉妬とかそういうものは通り過ぎたことだと、彼の眼差しが教えてくれている。

「おかえり、ローレライ。逢いたかった」

「わたしも、逢いたかった」

 これまで表情だけで意思を読み取っていたラファエルだ。唇の動きで彼女の気持ちを読み取ることは、容易なことだ。

「キス……してもいい……?」

 彼の指が、頬を伝う涙と雨を拭い、唇に触れる。

「ずっと、ローレライに触れたかった」

 ―――ローレライ。

 自分に注がれる愛しいひとの眼差し、声。

 かつて、途方もないほど深く愛してくれたひとがいた。

 たくさんの想いが、ローレライの中を通り過ぎてゆく。

 強くまぶたを伏せ、それらのもたらす衝撃に身を浸らせて、ようやく通り過ぎたさまざまな感情に、ゆっくりと閉じていたまぶたを上げる。

 小さく、頷いた。

 (とろ)けるほどの甘い笑みが目の前で広がり、ローレライの唇に、愛しい思いが熱い感触となって落ちてきた。



 ローレライが何故石の身体から解放されたのか、その後、古文書を解読し終わった司祭にも結局は判らなかったが、ラファエルのローレライを想う強さが関わっていたことは、誰の目にも明らかだった。

 ラファエルは、どうして石像のローレライに恋をしてしまったか、自分でも判らないままだった。

 ただそこに彼女がいて、なにかに導かれ、そうして出逢っただけでしかない。

 特別なことでもなんでもない。

「僕には、すごくなんでもないことだったんだ」

 そう、あとになってラファエルは少し恥ずかしげに教えてくれた。

「改めて思うと、すごく変人だよな。石像に想いを寄せるだなんて」

 恋に理由なんてない。

 ローレライが石像ではなく、ひとりの人間だと本能が見抜いたのは、彼がこの地の生まれではなかったからかもしれない。だからこそ彼は、皆とはまったく違う目で、ローレライの真実を見ることができた―――のかもしれない。

 いずれにせよ、すべての真相は、誰にも判らない。



 ローレライが生身の人間としての生を再び取り戻して数週間が経った頃だった。

福者(ふくしゃ)、ですか?」

 礼拝が終わったあと、ローレライとラファエルは司祭に呼び止められた。

 曰く、ふたりを福者に推挙する動きがあると。

 福者とは、英雄的で生涯に聖性があると認められた信者のことだ。奇跡を起こせば、まず間違いなく列福される。

「……」

 夏の暑い日だったが、厚い石を積み上げた聖堂内はひんやりとしている。窓から注ぐ陽光は真っ白で、昼にかけて更に暑くなることを予想させた。

 堂内を満たすそんな日の光を受け、ローレライは困惑にラファエルを窺う。ラファエルもまた、困った顔をしていた。

「おふたりはそのようなことを望まないのではと、話を進めるのを待ってもらってはいるのですが」

 司祭もまた、あまり乗り気ではないようだった。

「あの……」

 ラファエルに目配せをしてから、ローレライは口を開いた。

「わたしは、そのような立場にはありません。この六百年の間で、神を憎み、怨みきって信じることを諦めた時期のほうが長かったんです。わたしには、そのような資格はありません」

「僕も、なにもしていません。すべては神の御業(みわざ)なのだと」

「―――判りました。あなたがたとこうして出会えたこと自体が、まさに幸いなることです。おふたりを、幸福を妨げるものから、わたしたちは守り抜くと約束しましょう」

「ありがとうございます、司祭さま」

 嬉しそうに司祭は首を振る。

「いいえ。六百年も過酷な状況の中にあって、よくぞ信仰に戻ってきてくれました。あなたがたの奇跡は、わたくしどもの希望でもあります。こちらこそ、礼を尽くしてもしたりません」

 開け放たれている窓の向こうから、子どもたちの歓声が風に乗って聞こえてくる。

 石像として教会の壁に埋められていた頃は、どんな音もどんな声も同じモノでしかなかった。

 耳が拾う子どもの無邪気な声。大人たちのたわいのないお喋り。

 まっすぐにこちらを見つめ、ひと言ひと言を大切に語りかけてくれる司祭。

 そうして、すぐそばにいてくれる愛しいひと。

 なにかになりたいわけではなかった。

 ただ、すべての事象は美しくて、躍動的で、胸を躍らす。

 その中で時を過ごしたいだけだった。

 愛しいひととともに、ただ静かに自分の生きる世界に浸っていたかった。



 雨が、降っていた。

 ローレライが生まれ育った時代とは違い、この時期は雨が多いのだそう。だから、夏はとても蒸し暑いのだと。

 そんなことも、気付かなかった。

「じゃあ、行ってくるね」

 ラファエルが機屋(はたや )で変わらず働き、それをローレライが支える日々が今日も始まる。

「いってらっしゃい。雨が降ってるし、気をつけてね」

「ああ」

 戸口の前で、そっと唇を寄せ合う。

 奇跡とか、呪いとか、真実とか、そんなことはどうでもよかった。

 愛するひとと一緒にいられる、ただそれだけが、愛しくて輝かしくてたまらない。

 雨が降っている。

 優しい音で世界をしっとりと濡らす雨が、今日も世界を潤している。




             了




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