15 熱心な補佐
15 熱心な補佐
鏡の前で、エリザベス・ポージーは制服の襟を整えた。
ようやく、エリザベスの制服ができ上がったのだ。肩章は金のブレードを使ってもらった。
胸元の徽章には『一等航海士補佐』の文字を足してもらった。仕立ての段階から細かく注文を出しただけあって、寸法も仕立ての見映えも申し分ない。
就任した日、船長からは前任のレトワール元補佐のお古を着るよう勧められた。けれど、人の着古したものを身につけるなんて真っ平だった。エリザベスは新しい制服が届くまで、自分のドレスに制帽を合わせて巡回していたのだ。
初日はその姿がちょっとした騒ぎになった。
「ドレスに制帽だなんて、斬新ですわね」
客の一人が笑って言った。エリザベスは、その声に蔑みではなく親しみが込められていると受け取り、余裕の笑みで応じた。
(急遽抜擢された令嬢という印象を、うまく表現できているわ)
彼女は、そう思った。
次々に乗客から話しかけられ、その日の巡回には普段の倍近い時間がかかった。一緒に歩いていたブラウン一等航海士は、最初こそあっけにとられた顔をしていたが、最後にはあきらめたように苦笑していた。
そして、今日からは待ちに待った制服だ。また注目の的になるかもしれない。
「おはようございます、補佐」
ブラウン一等航海士が言った。
「おはようございます、ブラウン一等航海士」
エリザベスが返し、二人は朝の巡回を開始した。
「あら、制服ができ上がったのですね」
すれ違った婦人が声をかけた。
「前より少し豪華になられたかしら?」
別の乗客も、笑顔で続けた。
ブラウン一等航海士との合同巡回が終わったあとも、エリザベスは一人でサロンの様子を見に向かった。
サロンの一角で、人だかりができている。
人垣の隙間をのぞくと、アイカを囲んで乗客たちが楽しそうに話をしていた。
「はい、力を抜いて滑らかにペンを走らせるのがコツです」
アイカが穏やかに言った。
「インクはどういうものをお使いで?」
乗客の一人が尋ねた。
「普通にお店で売っているものですよ」
アイカが答えると、別の乗客が感心したように言った。
「なんだか、とてもきれいに見えますわ」
「お手本を差し上げますので、よろしければ練習してみてくださいね」
アイカが微笑んだ。
「せめて自分の名前だけでもきれいに書きたいのです……ずうずうしくてすみませんが、書いていただけますか?」
若い女性客がおずおずと頼んだ。
エリザベスはサロンには入らず、足早にその場を立ち去った。
アイカに自分の姿を見られたくなかったのだ。
エリザベスの曽祖父は小さな商店を興し、祖父はそれを何倍にも大きくした。父はさらに事業を広げ、ポージー家は財を成した。けれど、父がいつも気にしていたのは、帳簿の数字以上に「客が我が家の名をどう語るか」だった。
「一度売って終わりじゃない。次もあの店へいこうと思ってもらうんだ」
父は、いつもそう言っていた。
エリザベスは子どものころから、そう聞かされて育った。
(船でもまったく同じはずだわ。補佐がすぐそばにいれば、乗客は何かあったとき、安心して声をかけられるもの)
夕食の時間、エリザベスは一等食堂の入口近くに立った。乗客が視線を向けるたび、気品ある笑みを浮かべてうなずく。
「こんばんは、ポージー補佐」
通りかかった紳士が声をかけた。
「ごきげんよう。今夜のお料理も大変ご好評と伺っております」
エリザベスが答えると、紳士は言った。
「それは楽しみですな」
紳士は満足そうに笑い、席へと向かった。
会話は短く切り上げる。食事の前に長々と引き止めるのは、さすがに無作法だ。
続いて、扇を手にした婦人がエリザベスの前で足を止めた。
「熱心なのね。夕食の時間までお顔を見せるなんて」
軽くからかうような口調だった。
(朝の巡回だけでなく、夜の食堂にまで立っていることを、ねぎらってくださっているのね)
「皆様に快適にお過ごしいただくのが、私の務めですから」
エリザベスがそう答えると、婦人は一瞬だけ言葉を探すような顔をした。それから曖昧に微笑み、席へと進んでいく。
(少し堅苦しかったかしら)
エリザベスは、そう思った。
けれど、制服を着て務めに就いている以上、くだけすぎた返事もできない。親しみやすさと役職にふさわしい気品。その塩梅の調整はこれからの課題だ。
エリザベスはゆっくりと食堂の中へ進み出た。
円卓では家族が肩を寄せ合い、静かにパンをちぎっている。隣の席では、旧友らしい男性二人がワイングラスを傾けながら昔話に花を咲かせていた。
エリザベスはテーブルの間を優雅に歩いた。話しかけられれば応じ、そうでなければ邪魔をしない。ただ、ふと顔を上げたときに「補佐が見守ってくれている」とわかる距離を保つ。
「補佐がいらっしゃると、少し緊張しますね」
若い夫が、向かいの妻と顔を見合わせて微笑んだ。新婚旅行で乗船している二人だ。妻もエリザベスを見て、急いでナプキンの位置を直している。
「光栄ですわ。背筋が伸びるのは、よいことですもの」
エリザベスが微笑みかけると、二人はそろって姿勢を正した。
(多少の緊張感があったとしても、補佐から親しく声をかけられたことが、旅のよい思い出になればいいわ。「この船に乗ってよかった」と、あとから振り返ってもらえたら最高ね)
父はよく「目立たぬ店は忘れられる」と言っていた。
エリザベスは絶対に忘れられない補佐になりたかった。朝も夜も姿を見せて、この豪華客船とエリザベスを一対としてとらえてほしいのだ。
少し離れた場所にいたブラウン一等航海士が、静かに近づいてきた。もう同僚なのだからラルフでいいだろうと、エリザベスは心の中で彼を名前で呼んでいた。
「ポージー補佐、そろそろお休みになっては?」
(初日だか、ラルフは私の疲れを気にしているのね)
「問題ありません。皆様が落ち着いてお食事を終えられるまで、ここにおります」
エリザベスが背筋をしっかりと伸ばして答えると、ブラウン一等航海士はわずかに眉をひそめた。
「……そうですか」
彼はそれ以上何も言わず、食堂を出ていった。
(ラルフに私の熱意と働きぶりを認めてもらうには、もう少し時間が必要なのかもしれないわ)
食事が終盤に差しかかるころ、席のあちこちで談笑の声が小さくなっていった。エリザベスは食堂全体を見渡し、そっと満足の息をつく。
(皆様、落ち着いて過ごしていらっしゃるわ)
そのとき、背後の席から、ひそやかな囁き声が耳に届いた。
「なんだか……少し落ち着かないわね」
婦人の声だった。
「ええ。まるで公式の晩餐会に出席しているみたいだわ」
隣の婦人が同意するように応じた。
「家族でゆっくり食べたかったのだけれど……」
最初の婦人が、小さくため息をついた。
エリザベスは振り返ることができなかった。彼女たちが誰の存在に気兼ねしているのか、確かめる勇気が持てなかったからだ。
(制服を着た補佐がずっと食堂で見守っている光景には、まだ見慣れていないのでしょう)
エリザベスは、そう考えた。
彼女は胸元の徽章にそっと指を添え、自分に言い聞かせた。
(初めて見るものには、誰だって戸惑うものよ。乗客の皆様も、こうして熱心な補佐がいる船での過ごし方に慣れるまで、少し時間がかかるだけに違いないわ)
大きな窓の外には、暗闇の海がどこまでも広がっていた。食堂の温かな明かりが、黒い水面にゆらゆらと揺れている。
エリザベスはもう一度、背筋をぴんと伸ばした。
(補佐が常に近くで見守っていれば、いつか必ず安心してもらえるはずよ)
そう固く信じて、エリザベスは最後の乗客が席を立つまで、凛として食堂に立ち続けた。




