第7話|消えなかったもの
人混みを抜けて、ようやく遼は家に帰り着いた。
リビングのテレビから、聞き慣れた幼い声が聞こえてきた。
遼はそっと顔を上げた。
——画面の中の子供は、今よりずっと幼い、子役時代の遼だった。
遼の帰宅に気づいていない祖母は、リビングの隅に積んであった箱から遼のトロフィーを取り出し、手入れをしていた。
今まで遼の前でトロフィーを取り出したことのなかった祖母の姿は、遼にとって相当衝撃的な光景だった。
子役を辞めて以来、父も祖母も遼の前では子役時代のことを一切口にしなかった。
ドラマや映画も見ないようにしていたし、話題に出すこともなかったのだ。
——このまま入っていけば、おばあちゃんが困ってしまうかもしれない。
そう思った遼は気配を消して一度玄関を出た。
そっと鍵も閉める。
彼は少し考え込んだ後、インターホンを鳴らした。
祖母の声が、スピーカー越しに聞こえてきた。
「はぁい。どなた?」
「おばあちゃん、遼です」
先ほどの光景など何も見ていないふりをした。
いつもより少しだけ、声のトーンを上げた。
玄関の向こうで慌てる物音がし、小さく聞こえていたテレビの音も消えた。
「……鍵を、忘れてしまいました」
***
去年の10月のある日。
遼は登校の準備をしながら、リビングのテレビで朝の情報番組を見ていた。
画面にはA.STREが映っており、司会者が匠海にマイクを向けていた。
「円道さんは、今回のオーディションで初めてダンスと歌に挑戦したと聞きましたが、大変ではありませんでしたか?」
以前、遼も匠海に似たような質問をしたことがある。
オーディション番組に出演すると告げられた時、遼が「いきなりアイドルになるの?」と聞くと、匠海は「僕はたくさんの人から愛されたいんだよ!」と叫んだことがあった。
「最初は苦労しました。でも、続けていたら本当に歌とダンスが好きになって。A.STREに入れて、素敵な仲間に出会えて、たくさんの人に愛してもらえて——全然大変じゃなかったですよ!」
匠海の声だけが、やけに遠くで光っていた。
昔はエキストラばかりだとぶつぶつ言っていた匠海が、今はスポットライトを浴びる主役の位置に立っていた。
いつも遼の隣にあった匠海の居場所が、消えてしまったような気分だった。
また、一人になる。
——匠海と出会う前の自分には、戻りたくない。
そう思った途端、遼は自室へ戻った。
机の一番上の引き出しの奥に押し込んでいた名刺を探し出す。
子役を辞めてからも、学校の帰り道などで何度か芸能事務所から復帰のオファーを受けたことがあった。
そのたびに丁寧に断ると、「気が変わったら連絡するように」と名刺を渡してくれた事務所もいくつかあったのだ。
遼はその名刺を道端に捨てるのは失礼だと思い、きちんと持ち帰って引き出しにしまっておいた。
「見つけた」
——篠原恒一郎 STARZEN 新人開発部 部長——
遼はつばを飲み込み、名刺に書かれた電話番号に電話をかけた。
数回のコール音の後、男性の声が聞こえた。
「篠原です」
「知念遼です。私のことは覚えていますか?」
「……知念くん?」
思いもよらない電話に、篠原は戸惑った。
遼は目をそっと閉じ、口を開いた。
「テレビに出たいです。どうすればいいですか?」
***
遼は放課後、篠原に改めて連絡を取り、Unitesの建物の前で待ち合わせた。
篠原がメッセージで送ってきた住所はSTARZENではなく、見覚えのない事務所のものだった。
遼は不思議そうに首を傾げながら篠原を見た。
「ああ、この前事務所を立ち上げたんだ。俺がここの社長だよ。入ろうか」
ようやく、ここに来た理由に納得がいった。
遼は篠原と共に事務所の中に入った。
そこで二人を迎えてくれたのは、メイと寛人だった。
篠原は二人の顔を見て、軽く目を細めた。
「二人ともいたんだ。他の子は?」
「発声練習中です」
寛人はタブレットでスケジュール表を確認しながら言った。
メイは篠原の隣でそわそわしている遼を見て、顔をぱっと明るくした。
「今度は篠原さんが練習生を連れてきたんですか?」
メイは喜びのあまり、どたどたと遼に近づいてきた。
あまりの勢いに、遼はそろそろと身を引いた。
メイは遼の顔を見て、首を傾げた。
「……知念遼?」
「はい。私のことを覚えていますか?」
「もちろん。アイドルに興味あるの?」
メイの質問に、遼は視線をそらした。
篠原は遼をメイから庇うように体を動かしながら言った。
「少し訳あって、今日は相談だけだ。寛人くん、飲み物は何があるかな?」
寛人はタブレットから顔を上げた。
「水とコーヒーだけです。知念さん、水とコーヒー、どちらにしますか?」
「水をください。ありがとうございます」
遼は緊張していた。
それでも、丁寧な言葉遣いで答えた。
一礼するのも忘れてはいない。
「会議室、使わせてくれ」
篠原は、目を輝かせるメイの視線から遼を庇うようにして、先に会議室へと入った。
***
会議室には遼と篠原の二人きり。
会議室のドアにある小さな窓の向こうから、メイの熱い視線が遼の後ろ姿を見つめている。
遼からは見えないが、そのような視線を背中に感じながら、あえて無視しようと努めた。
「知念くんの方から先に連絡をくれるとは思わなかったよ。しかもその名刺、ずいぶん前に渡したものだけど、捨てずにちゃんと持っていてくれたんだね」
STARZEN時代の名刺をじっと眺めながら篠原が言った。
遼は緊張した様子で、握りしめた拳を膝の上に置いた。
「テレビに出たいです。ただ、方法が分からないんです」
「ふむ……知念くんなら、うちと契約すれば、俺の知り合いの記者何人かに『知念遼、芸能界復帰』と伝えておくだけで、すぐ脚本が山ほど届くと思うよ」
「ただ……少し、怖いんです」
自分の本音を明かすことは、思ったよりも難しくはなかった。
遼も、篠原の言った方法が一番早い復帰方法であることは分かっていた。
しかし、また『あの芝居』をやらなければならないことが怖かった。
「皆さんは、昔私がやっていたようなことしか求めていないと思います。映画祭で賞を獲れるほどの重くて、暗くて、複雑な……あのようなお芝居を、また求めているんだと思います」
「その可能性は高いね」
「それに、私は5年間、お芝居をしていません。ドラマも映画も見ていませんでした。昔のように演じることができなければ、私を信じてくださった方々に迷惑をかけてしまいます。……それが、怖いです」
——それが、遼が再び芝居を始める上で足かせとなっているものだった。
篠原は、遼がそこまで追い詰められていたとは思わなかった。
どんな言葉をかければいいのか考えあぐねていると、いきなり会議室のドアがトンと開いた。
「そういう遼くんには、アイドルをおすすめするよ!」
メイの堂々たる声。
メイの後ろには、困惑した寛人の顔が見える。
篠原が苦笑いを浮かべながら言った。
「メイちゃん、盗み聞きは良くないよ」
「防音がないので、聞こえてしまいます。全部」
篠原の言葉にも動じない。
メイは遼の隣に座った。
「アイドルは、そんな暗いお仕事はしないよ。輝くステージで、楽しさや幸せを届ける仕事。だから、やってみる価値はある」
メイの言葉で、遼はA.STREの円道匠海を思い出した。
輝くステージの上で眩しかった彼の姿。
アイドルとしてインタビューを受ける時も凛として希望に満ちた言葉を語り、見ているだけで応援したくなる気持ちにさせてくれた。
メイは続けた。
「遼くんはアイドルをやったことがないから、最初から上手くなくていい。大丈夫。続けていれば伸びるし、ファンはそういう姿を好きになってくれる」
オーディション番組が終わり、デビューの準備をしていた頃、最初は疲れた顔をしていた匠海が、次第に明るく凛とした顔つきに変わっていったことを思い出した。
遼が何も言えずに考え込んでいるのを見て、メイは何かひらめいたように目を輝かせ、遼をまっすぐに見つめた。
「じゃあ、知念くんに提案。『アイドル練習生1週間体験』、やってみて」
メイの突然の提案に、篠原と寛人が声を上げた。
遼は状況が飲み込めないまま、おずおずと口を開いた。
「……それは、決めてしまっていいんですか?」
「大丈夫。まずやってみてから選ぶ。それでいい」
メイは遼の手を取り、そのまま会議室から連れ出した。




