第17話:赤い糸は、細くなる
十二月に入って、商店街にクリスマスの飾りがついた。
木村さんが今年も飾った。
紅葉の造花の次はクリスマスのリースで、来年の正月には門松になる。
この人の商店街への愛着は、四季を問わない。
私はその飾りを窓から眺めながら、今日の糸の具合を確認していた。
美咲の糸が、細くなっていた。
最初に気づいたのは、先週だった。
木村さんの店の前を通る美咲の足が、少し重そうで、赤い糸の色がくすんでいた。
今日はさらに細くなっている。
木村さんの糸も、確認した。
こちらも、くすんでいた。
二本の糸が、互いを向いているのは変わらない。でも、色が違った。輝いていたあの糸が、今は少しくもっていた。
何かあった。
私には、糸の色でわかる。
美咲が来たのは、その日の午後だった。
ピンクのマフラーではなく、黒いコートに白いマフラーだった。顔が少し疲れていた。
「澄江さん、いますか」
暖簾をくぐりながら言った。相談というより、逃げ込んできた顔だった。
「いるわよ、どうしたの」
澄江さんが立ち上がった。
「顔色が悪いわ」
「ちょっと、木村さんと」
美咲が椅子に座った。
「喧嘩、というか」
澄江さんがお茶を出した。
「喧嘩?」
「喧嘩じゃないんですけど」
美咲が湯呑みを持った。
「三日くらい連絡が返ってこなくて」
私はカウンターの端で、美咲の糸を確認した。
赤い糸は、まだある。細くなっているが、切れていない。
切れていない。それだけは、確かだ。
「どんなすれ違いですか?」
澄江さんが穏やかに聞いた。
「木村さん、最近すごく忙しくて」
美咲が言った。
「年末で仕入れが増えて、朝も夜も店にいて。会えない日が続いていて」
「それは仕方ないわね、年末だもの」
「わかってるんです。わかってるけど」
美咲が湯呑みを置いた。
「先週、久しぶりに会えた日に、私が『最近会えなくて寂しい』って言ったら、木村さんが『仕事だから仕方ない』って言って。それだけで、終わっちゃって」
澄江さんが「うーん」と言った。
「木村さんが間違ってるわけじゃないんです。仕事だから仕方ない、は本当のことで。でも、なんか、もう少し別の言い方があったんじゃないかなって」
美咲が窓の外を見た。
「それからなんか、ぎこちなくて。木村さんも気まずそうで、私も気まずくて」
私は美咲の糸を見た。
くすんでいる原因がわかった。
糸は、すれ違いで切れない。でも、放置すると細くなる。細くなり続けると、ある日突然、ぷつんといく。
最初に来た日の美咲の黒い糸を思い出した。あのときとは全然違う。でも、放っておいていい状態でもない。
その日の夕方、木村さんが来た。
野菜の差し入れ、という名目だったが、入ってきた顔が差し入れの顔じゃなかった。
「澄江さん」
木村さんが言った。
「美咲、来ましたか」
「昼間来たわよ」
澄江さんが言った。
「どうしたの、木村さんも顔色が悪い」
木村さんが椅子に座った。大きな体が、小さく見えた。
「俺、何か言い方まずかったですかね」
澄江さんが「あら」と言った。
「寂しいって言われて嬉しかったんですけどね。なんて返したらいいかわからなくて」
木村さんが頭をかいた。
「美咲、怒ってますかね」
「怒ってないわよ」
澄江さんが言った。
「寂しがってるの」
「同じじゃないんですか」
「全然違うわ」澄江さんが苦笑いした。
私は木村さんの糸を確認した。
美咲の方向を向いていた。くすんでいるが、向きは変わっていない。この人の糸は、いつも真っ直ぐだ。
問題は、言葉だ。
言葉の使い方が、わからないだけだ。
澄江さんが木村さんに、あれこれと話していた。
私はその横で、考えていた。
美咲は「もう少し別の言い方があったんじゃないか」と言った。
木村さんは「何が違ったのかわからない」と言った。
二人の糸は向き合っている。でも言葉が、うまく届いていない。
花村朱音として生きていたとき、こういうすれ違いを何度も見てきた。糸が向き合っているのに、言葉が邪魔をするケースだ。こういうときは、言葉より先に、行動が必要なことがある。
私はカウンターから降りた。
澄江さんの棚を見た。
小さなメモ帳がある。キヨさんのときに使ったものだ。
私はメモ帳を、肉球でそっと木村さんの前へ押した。
「ムギちゃん、また出した」
澄江さんが苦笑いした。
木村さんがメモ帳を見た。
「書けってこと?」
私は○を作った。
「何を書けばいいんですか」
木村さんが困った顔をした。
私はもう一度○を作った。
何でもいい。言えなかったことを、書けばいい。言葉にするのが難しければ、書くことから始めればいい。キヨさんがそうしたように。
木村さんが少し考えた。
それからペンを取って、書いた。
何を書いたか、私には読めない。
でも、書いている間、木村さんの糸が少しずつ、色を取り戻していくのが見えた。
翌日の夕方、美咲が来た。
昨日とは全然違う顔をしていた。
「澄江さん! 木村さんから手紙が来た!」
澄江さんが「まあ」と言った。
「お店に、封筒が届いていて。手書きで、なんか、いっぱい書いてあって」
美咲が照れた顔で言った。
「不器用な字で。言葉もなんか、ぎこちなくて。でも、それがなんか、木村さんらしくて」
美咲の赤い糸が、昨日より太くなっていた。輝きも戻っていた。
「なんて書いてあったんですか?」
澄江さんが聞いた。
「それは秘密です」
美咲が笑った。
「でも、嬉しかった。すごく」
美咲が私を見た。
「ムギちゃん、何かした? 木村さんが『ムギちゃんにメモ帳を出してもらった』って書いてあったから」
私はそっぽを向いた。
メモ帳を押しただけだ。
「ありがとう」
美咲が言った。
「また助けてもらった」
私は知らんふりをした。
でも、美咲の赤い糸が輝いているのを見ながら、悪くない、と思っていた。
美咲が帰った後、澄江さんが言った。
「木村さん、手紙を書いたのね」
私は窓の外を見た。
八百屋の方向に、二本の赤い糸が見えた。美咲の糸と、木村さんの糸が、夜の商店街の中でゆっくりと、また絡まり始めていた。
「言葉って、いろんな形があるのね」
澄江さんが続けた。
「話し言葉じゃなくても、ちゃんと届くこともある」
私は澄江さんを見た。
そうだ。
言葉は、声だけじゃない。
手紙でも、メモ帳でも、肉球でも。
届けようとする気持ちが、形を変えて、届くことがある。
私は窓の外を見た。
二本の赤い糸は、もう昨日ほど細くなかった。




