第16話:救えなかった人が、戻ってきた
十一月に入って、商店街の銀杏が一斉に色づいた。
一年前、美咲が初めてほころび庵に来た、あの十一月が戻ってきた。
あのときより、商店街の糸は確かに変わっていた。
美咲と木村さんを繋ぐ赤い糸は、あの頃よりずっと太くなっていたし、澄江さんの黒い糸はほどけ、春翔の赤い糸は輝き始め、芹奈さんの糸には少しずつ色がついてきた。
一年で、ずいぶん変わるものだ。
私は窓から銀杏を眺めながら、そんなことを思っていた。
その女性が来たのは、そういう十一月の朝だった。
六十代だろうか。白髪混じりの髪を丁寧にまとめて、紺のコートを着ていた。背筋が真っ直ぐで、でも目の奥に疲れがあった。
糸を確認した。
白い糸が何本か。血の縁の糸だ。赤い糸も、細いが一本ある。
そして、銀色の糸が一本。
記憶の糸だ。
その糸の先を辿った。
どこか遠くへ、向いていた。
でも確かに、何かへ繋がっていた。
「いらっしゃいませ」
澄江さんが顔を上げた。
女性が入ってきて、店内を見回した。それから、私を見た。
私は、この女性を知っていた。
十年前、私のもとに来た女性だ。
夫との関係が壊れかけていて、離婚すべきかどうか迷っていた。あのとき私は、夫婦の糸をよく確認しなかった。急いで「もう少し話し合ってみてください」と言った。
後から、間違えたと思っていた。
あれから十年。この女性が、ここにいる。
「どうぞ、座ってください」澄江さんがハーブティーを出した。
女性が座った。
「昔、知り合いが相談に来たことがあって」
女性が言った。
「その人から、この店のことを聞いていたんですが、来るのが今になってしまって」
「そうですか」
澄江さんがにこにこした。
「ずっと気になっていたんですが、なかなか来る機会がなくて」
私はカウンターの端で、女性を見ていた。
知り合いが相談に来た。
その知り合いとは、誰のことか。
私には、わかっていた。
澄江さんが「今日は、どんなご相談ですか」と聞いた。
「相談というより、報告がしたくて」
女性が言った。
「十年前のことを、誰かに話したくて、ここに来ました」
「十年前」
澄江さんが静かに聞いた。
「どんなことがあったんですか」
女性が少し間を置いた。
「夫と、離婚したんです」
「そうですか」
「迷っていた時期があって、そのときに知り合いに相談したら、その人に背中を押してもらって。もう少し話し合ってみなさいって」
私は、動かなかった。
あのとき私は、そう言った。
「話し合ったんですが、うまくいかなくて。結局、離婚しました」
澄江さんが「大変でしたね」と言った。
「でも」
女性が続けた。
「離婚してよかったと思っています」
澄江さんが顔を上げた。
「離婚してから、子どもと二人で生きてきて、大変だったけれど、清々しかった。あの人と一緒にいたら、私はもっと縮んでいたと思う」
女性が、少し笑った。
「だから、背中を押してくれた知り合いに、報告したかった。ちゃんと自分で決めることができました、って。でも、その人はもういなくて」
澄江さんが「そうですか」と静かに言った。
もういない。
私は窓の外を見た。
銀杏の葉が、一枚、くるくると落ちていった。
「その知り合いの方、どんな方だったんですか」澄江さんが穏やかに聞いた。
女性が少し遠くを見た。
「若い人でした。私より、ずっと若くて。でも、なんか、初対面なのに、こちらの言い訳を全部見抜かれている気がして」
女性が笑った。
「初めて会ったとき、ちょっと怖いくらいで。でも、話すと、熱くて、お節介で、一生懸命な人で」
お節介、という言葉が、胸のあたりに刺さった。
「糸みたいなものが視えるって、言っていて」
女性が続けた。
「最初は半信半疑だったんですが、話を聞いていたら、なんか本当のことを言っているんだなって、わかってきて」
澄江さんが「不思議な方だったんですね」と言った。
「そうなんです。変わってるけど、放っておけなくなる人で。亡くなったと聞いたとき、もったいないなって、思いました」
もったいない、という言葉を、私は静かに受け取った。
そういう言われ方を、したことがなかった。
女性が帰り際、私を見た。
「かわいい猫ね」
女性が手を伸ばした。私は避けなかった。
女性の手が、私の頭を撫でた。温かかった。
「不思議な猫ね」
女性が言った。
「なんだか、懐かしい感じがするわ」
私は、女性を見た。
懐かしい。
その言葉が、静かに落ちた。
女性は気づいていない。でも、どこかで感じている。
人間というのは、不思議だ。言葉では気づかなくても、体や感覚が、何かを覚えていることがある。
「また来てもいいですか」
女性が澄江さんに言った。
「いつでもどうぞ」
澄江さんが言った。
女性が出て行った。
女性が帰った後、澄江さんが窓の外を見た。
「不思議なご縁ね」
澄江さんが言った。
「その知り合いの方、どんな方だったのかしら」
私は答えなかった。
答えられなかった。
ただ、窓の外を見た。
銀杏の葉が、また一枚、くるくると落ちていった。
外れたと思っていた。
でも、違った。
律子さんは、自分で選んだのだ。
あのときの言葉も、迷いも、全部抱えたまま。
届いていた。
十年越しで、届いていた。
言葉がなくても、言葉があっても、届くときは届く。
澄江さんが私の隣に来て、一緒に窓の外を見た。
澄江さんが、静かに言った。
「ムギちゃん、なんか、今日は難しい顔してるわね」
私はそっぽを向いた。
難しい顔をしていたかどうか、わからない。
ただ、胸のあたりがいっぱいで、うまく整理できなかっただけだ。
澄江さんが、私をそっと抱き上げた。
澄江さんの腕の中で、私は目を閉じた。
十一月の銀杏が、窓の外でひっそりと光っていた。




