終章⑧
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江藤は四十代のカーヴィン・シトックと卓につき、茶をすすっていた。彼は幼年期に見たカーヴィンがその姿のまま現れたので、大変驚いたが彼女はあの頃のままで江藤に微笑みかけていた。彼はどこか気味悪さを感じ始めていた。それは、サリヴァンでの生活というものに、どこかファンタジーのようなものだったのだと思うようになっていたからである。しかし、彼の中にはサリヴァンでエドオルムの一員として生きたエドウナウカを抹消することは不可能であった。江藤はぼそりと呟いた。
"なあカーヴィン。あんたの創ったアシュラって、一体何なんだ? 何のために創ったんだ?"
"明日急に五十歳の人間になることは出来ない。おれは春なのにあなたが冬だとか、あなたが朝なのにおれは午後二時っていう形で、時間とか、肉体とか、つまりはそうゆうふうなものの総体をお互いの想像力の力だけで変えていくだけに力はないという事になる。そうすると最小限現実原則の中で春は春でしかないし、若さは若さでしかないという条件が与えられているってことであり、どんなに俳優を思想化していってもね、彼らがやっぱり三十年魚河岸に勤めていた老人の現実を変えるのに、三十年間の経験を共有するにはそれを三十分間で、あるいは一年間で言語化したり肉体化したりする事で立ち向かわなければいけないからさ、現実の重みに対応するだけの言語の重みみたいなものってのは相当強靭なものでなければあなたがいったような抒情に随する。"
"なんぞ?"
と言って江藤がカーヴィンへとチラと視線を移すと、彼女はいたって平静な四十代の女カーヴィンで、ただお香のようなものを勝手に炊いていた。部屋の中は卓上のそれから一瞬で香りが充満し異空間のようになった。江藤が窓を開けようとすると、
"日常生活の中で約束事として維持されている虚構っていうものの非論理性が、つまりは劇はもはや論理ではなくて情感だけで成り立ってしまうようになったんだって事を示している。"
と、カーヴィンに制止させらた。
彼女は持っていた茶を高く掲げると、ちょろちょろと自分の顔にかけた。ぴちょぴちよとはねしたたる茶、彼女はすべてをかけ終えると手近の布で顔を拭いた。するとその顔は劇作家の寺山修司の顔になっていた。
"貴方は寺山修司ですか?"
と江藤が尋ねた。
"いいえ、私はカーヴィンよ。ただ、寺山修司の顔という、顔というアイデンティティそのものを借りることによって、私はカーヴィンであるのだがもしかしたら寺山修司なのかもしれない、そのような状態だわ。"
とカーヴィンは答えた。
江藤は本当に訳がわからなくなった。しかし、
"ものの方が入りやすいというのはそれはそうなんだよ。僕はそれは賛成なんだけど、同時に入り込まれる側を想像力の中で組織して行くというのか入り込まれて行く側の論理を見落とすとき非常にモノローグ的にこっちはただ配置して配っていくだけになり、その入り込まられて行く側はというふうなものに対する認識の政治化というか、アイデンティティというかそういうものを無視することになる。"
とカーヴィンは続けたので、江藤も何か言わんと意気込んだが、脈絡も無く玄関のチャイムが鳴った。気が抜けたように江藤が玄関へ行きドアを開けると、そこには身長2mの巨大な赤ちゃん、ガニミズム・わいばーんがいた。
"こんにちわー! 僕、わいちゃんでぇ〜す! 僕もお話し合いに参加させてくださぁ〜い!"
と元気に言った。
今、江藤の部屋には、寺山修司に扮したカーヴィン・シトックと、江藤と、ガニミズム・わいばーんことわいちゃんがいた。
"寺山修司さん、僕は貴方を自身を中心を演劇として世界を実験対象として遊んでいる、これは崇高な意味での神との交流の意で、と見とった。僕は逆に自身の中心を世界として、では演劇や創作が世界にいかに作用、影響してゆくかを考えている。貴方にとって、世界とはどのように捉えられますか?"
とわいちゃんが寺山修司に尋ねた。
"そこには二つの「国家」の葛藤が生まれるわけですが、劇の中の「国家」の中にも、したたかな生活があった場合、従来の劇の中で考えてきた虚実の関係はここでは倒錯している。新聞記事の中の出来事はすべて寓意であるかもしれない。そうした甘い夢を見たりする。しかし、劇によって簡単に日常的現実から足を離せる訳ではない飛ぶ事ができる訳でもない。その二つの間を行ったり来たりしながら、しかしどっちにも完全に住む事の出来ない僕らの引き裂かれた象徴としての人力飛行機というふうなものを軸に置いてみる。"
"つまり、貴方にとって世界とは、劇というものが虚構であるわけだが、現実というものにどれだけ肉薄できるか、肉を得れるか、そしてあわよくば価値転倒の逆転が劇の虚構が現実を上回るか、それは起こりうるのか、という、実験? それが世界?"
"そして劇の観念性が情緒とか組んで狂熱とかいった無形態のものに吸収されてしまう。言語の問題でいえば「国家の歴史」をね。五百年かかるものを五時間でやるということのデテールを英明がコンクリートに記録していた。ところがその場合にも日本語でいいのか英語でいいのか、あるいは第三の言葉その国の為の国語を作り出すべきかという事で、そのへんで実際に台本にはわれわれが日本をたつ前にこの国の為の言語創造の原理というものを作った訳だけど、その言語では書きえず、国家が出来ていった時、その中で話される言葉というものも結局従来のわれわれが属している国家の言葉でしかないというような不毛性みたいなものがあった気がする"
江藤とわいちゃんは腕を組んで黙り込んでしまった。
"そう、この市街劇のように現実の世界に直接世界を挿入する、そこにはやはりまったく別の世界として立ち上がってくるならば、その境界が明瞭であればあるほど、言語の差異に触れることの巧緻性は増してくる。"
"待て、寺山修司が言っているのは、結局完全な虚構、国家を創り出さんとした市街劇という活動の中で、現実の言語から遊離できるはずだったのに、それができなかった自分達、ということではないか?"
"しかし、そこではものは「もの」でしかなく「事」に転化されることはない。そこには不可視のものはなかった。ところがシーザー達の方は音があって言葉がありながら現実原則の「もの」がない。次第に沈黙というか、そういう乾いた状態が一つの世界状態を作っていく。そこで笑わせてものを食ってる。下馬達の「国家」が維持しきれなくなって、結局吸収されざるを得なくなっていったという事はあった。やがて観客がその側に余っている木材を持ち寄ってギロチンを作っちゃった。斉藤さんがいったように国家が出来ると犯罪より先に法律が出来るというのは、まあ何と情けない事だろうというような事もある。あのギロチンを作った観客はどういう人だったのだろう。"
"ギロチン? 貴方なやっている市街劇というものでは、観客が勝手に舞台装置の材料でギロチンを作るのか? 凄い。極めて豊饒な意味を帯びている。"
"しかし僕達はその実験結果を精査し、先に行かなくてはならない。その劇という虚構を成立させんとした所で、一体どのような反応が起きたのか、起こりうるのか、その時に露出した現実世界はどのようなものか。"
"つまり俳優化してはいけない人達が(キャベツを持ち込まれた家庭の主婦が)二、三人の観念が集まって来た瞬間にいつの間にか俳優になってしまっていて、彼女はやっぱり自分ね日常性の中にキャベツが持ち込まれたという異物感、異物に対する恐怖じゃなくて、キャベツ問答をすることによって集まって来た観客を喜ばす俳優に変わってしまう。そういう意味では俳優化させないで現実のにいながら何か持ち込まれた異物とを劇的に葛藤せざるを得なくなるというような巧妙な仕組みを僕らの方がしない限りでは、誰でもすぐ俳優になってしまうというもの、二十一世紀の一種のダイアローグ・エージというものの他人志向性を感じた。"
"それは劇というより、人間の世界観、生活、生存領域の立ち上がり方では?"
"だけども平和な家でテレビがピンポンパンとか鳴ってさ、それで子供がいて妻がいて、それで午前十一時頃の暖かい日差しが射してながら何か部屋全体としては幸福に満ち満ちているのになぜか暗いと、ふっと気がついた時に家族じゃないもう一人の人間が食卓に坐っている。そういう時にその人間に対する疑いとその人間がいる事による安心感というその四人目の、あるいは五人目の人間というふうな「俳優」が問題にされていくという事で僕らの虚構というものがあるんだと思う訳。そうすると、街の真ん中で、ただ爆弾を爆発させるというのはそれはやっぱり非常に政治のレベルでね、現実の表層面をさ、何か投げ込む事によってちょっと変えるという事だけであってさ、もう一つの現実によって現実を覆っていくというふうな事にはならないし、街頭ブランキズムの限界を超えられない。"
"貴方のそれはもう劇でなく闘争では? 貴方は革命の演劇化といったが、その本意は演劇か? 革命か? だとしたら、僕の捉え方が変わってくる。もし演劇という虚構がレヴィストロースの器用仕事として人間の本質たる野生の思考であるというなら、それが現実として作用するには市街劇的なプロセスは違うと思う。それは劇ではなく現実の日常の中で起こるべきであり、一つの時代がパラダイムシフトによって内側から脱皮するような、そのような形であって、少なくとも劇としてそれを外部刺激のようにやれば、それはやはりただの劇でしかない。僕達は最早市街劇ではないのではないか? 国家や自然現象や経済のような大きい災いが起きれば、人は否が応でも変わらざるを得ない。今までに無い現実それはもしかしたら虚構のように見えるもの、を、生きねばならない。世界観を拡張することだ、身体感覚を刷新することだ、しかしそれは演劇ではない。日常の、生きる上での、活動である、それは儀式だ、シャドウワークでもよい。"
"すると僕達は何かの形で自分達が集団で何かする事を目的化するような方法が欲しくなる。方法はイデオローグだ。ところが市街劇の場合は劇場と違ってキャベツを持って行ったやつは今どこにいるかまったくわからない。皆まったく違った形で現実と関わったやつが、やっぱり帰還して来る事によって現実の変革が見えて来る時っていうのは、相当ににぎやかなものだと思いたい訳よ。それさやっぱり何か一種の音楽だっていう気がするんだけどね。それがやっぱり、一人ひとりがキャベツもあり質問もありいろんな場があって、それが静かに現実の中に組み込まれていって、気がついて家に電気がともる頃ナンシーの街中がもう一つの現実の中には、溶け込んでいたなんていったらさ、それは凄いんだけどね。しかし、そういう形より「川筋が捕まったそうだ」なんて情報が入って来るとさ、僕とか竹永だとかやっぱりバルコニーの上にいて不安になる。治外法権といってもあちこちで警察と衝突している。そうすると最後にあっちからチビが竹馬に乗って帰って来たり、こっちから蘭さんがトラックに腰掛けて地球儀を持って帰って来たりする。だんだん輪郭が見えて来る。帰還は祭りだ。それはやっぱりあめのザアザア降る中で響き出すロックと共に言語領域を起え始める。"
"それは、市街劇の革命の本質が、劇中でなくその後の観客と、人々との間の力関係こそであるのではないか? それだったら、三島事件によってその頃に民族主義団体の土壌となった、その作用の方が良し悪しは別々として、強いのではないか? そこで人々の間にやり取りされたものは、言葉ではない。貴方は自らの劇の、手中で変革を見ようとしているのか、それはきっと無理だ。たった隣り数cmの所にいる恋人の本当の真意がわらないのと同じように。私達は結局何もわからないし何もできないが、でも動くしかない、そのアールブリュットに意味があるのでは? そこに境界も意味もない。"
"見えなくても確かに存在する。聞こえなくても鳴っているというふうにいければいいんだろうけどね。政治的叛乱蜂起っていうのは確実に現実が変わるというふうな形で物理的変革みたいなものが目に見えるけれども、内的な意識的な変革みたいなものを現実に持ち込んでいく時ってのは、手ごたえというふうなものがまったくないものでそのなさがよいんだといわれちゃうとね。やっぱり見えないものだけを信じるといってもね。それを形象化しないでいる事を、観客は「待ちきれなく」なる。"
"それに耐えうる身体感覚、想像力、思考というものを、僕達が示していく必要がある。すべての常識を懐疑し、すべての身体に耳を澄ます。何者でも、君自身ですらないドロドロのアメーバ状から始めるのだ。それが戦争暴力装置でない、アシュラであり祭りだと、私は提示する。"
***
江藤の部屋の窓が開け放たれ、お香が外へと出ていくと、そこは異空間ではない、いつもの江藤の部屋になった。それにともない、わいちゃんも江藤の部屋を後にして、カーヴィンの顔も戻った。そしてその後カーヴィンに聞いたところによれば、先程の寺山修司の発言は、天井桟敷〈地下演劇〉編集委員会発行の、〈地下演劇〉第5号の「市街劇人力飛行機ソロモン」総括座談会の寺山修司の発言を引用したものであるらしかった。どうりで会話の中で芯を食わないものが見受けられたのは、つまりはこうゆうことであった。しかし、こうなってみると、もはやこの物語に踏み越えてはならないイマジナリーラインというものがまったく破壊され尽くされてしまったようである。今彼の玄関からチャイムとともに飯沼勲が入ってきたとしても、それはもう考えも及ばぬということにはならないのである。そういう意味では江藤の部屋というものは、プライベートであるというよりかは、半公共的、プライベートであるようでパブリックでもあるような、セミパブリックの空間として機能していた。そして、江藤自身もそうであった。ここで、現実世界を著しく反映した江藤入崎会議と、カーヴィン・シトックを通した寺山修司との交流の中で、さて江藤の精神状態はどのようになったかということを、書かねばならない。それは、蒙昧であった。これだけの世界が融解し世界が複数ありそして世界が語りかけてくるという状態において、江藤は自身を失った。何が自分で何が彼女で何がそれなのか、まったくわからなくなったのである。こう書くと、江藤がネガティブな精神薄弱の状態になったと見て、憐れむ人もいるかもしれない。しかし彼はといえば、どこか楽観的であった。だがそれは、江藤がカーヴィンから連れられサリヴァンに来て、そこでエドウナウカとして生きていた、そんな人生を経ていたのであれば、耐性がつくのも頷けるであろう。彼にとってでは我々読者の世界とは、虚構の産物である彼にとっては、何であるというのであろうか? 無論、ここで言わねばならないのは、我々がいくら江藤を虚構であると言っても、それによって彼の運命がすべて決まるとは限らない。彼は自身を虚構と言うこともできるし、逆に現実であると言うこともできるのだ。結局、生まれ生きてそして死んでいった人間の存在を示すものが、その子孫か歴史的な記録でしかない以上、必ずいつか死にそのような形になるしかない人間において、虚構も現実もなく、いくら我々が自分達こそ現実だ! と声高に言ったところで、では隣の友人に、私の人生すべてを一人で完全に成り立たせるというのは不可能である。もし人間一人人生すべてをすべて情報化でもできるというなら、それは五感や思考の癖も含めたすべてすべてである、ならば、もう少し話は変わるかもしれないが。このような考えを江藤が持っているかはわからないが、こう書くと今までの"A-レクトル"内のキャラクターの内面描写も、結局は神の視点の書き手の類推の域を出ず、本当にキャラクターの内心であったかどうかも疑わしくなってしまうのだが、虚構であろうが現実であろうが幻想であろうが真理であろうが、自分は直立した一人の人間、江藤為有可である、そう考えていた。しかし、彼が現実の我々と唯一絶対に異なる点があるとするならば、もし彼を我々が見る時、知覚する時、それは描写記述された中でしか有り得ず、描写記述されていない部分においては、電車内で目の前の席に座った女学生と自身が関わることなくとも、女学生はそこに生きており、自身と関わらなくとも女学生は生きていくが、しかし江藤はこの作品内で読者に読まれるということ以外でその生が確立されているかどうか。キャラクタービジネスのように我々の身の周りにいつもキャラクターが増殖生産されており、もしそれが江藤ならば、その度に江藤は知覚され、存在を確立され、その発見者と江藤において、彼の生は確立される。しかし今現在、残念なことだが江藤を発見し知覚できるものとは、この作品のみである。そうである。今の江藤の精神状態が直面している事態というのは、結局は作り物であり虚構であるという江藤為有可自身がいかに自身の存在を確立できるかということであった。これはただ単に不可知論や素朴派として考えなくたって私は今ここに存在しているからそれ以上も以下もないよと言うこともできたが、やはり江藤入崎会議とカーヴィン・シトックの寺山修司を経た彼には、取り組まねばならぬ課題であった。作り物や虚構や物語や幻覚といった現実とは異なる次元の存在と知覚の混沌の海に浮かぶ孤島が、現実という世界にとって何であり、どのように機能していき、どのように関わっていくべきなのか、それは、我々が作り物や虚構や物語や幻覚の暴走に対処するのではなく、それらの側から我々に主体的に関与せんとする、そういった動きである。そこに、倫理や道義はあるのか、それも重要である。まさに江藤のようなキャラクターは見られることでしかその生を確立できぬというなら、まさにプライベートの無い公共的な、パブリック、曝露されるものとしての物語であった。
江藤はふいに立ち上がり、郵便ポストをのぞきに行った。のぞいてみると、一通の封筒それだけが入っていた。それを取って自室に戻ると、封を開いた。するとその中には文字や記号や図形が筆記された不可解な便箋が3枚入っていた。江藤はそれを読み始めた。
すると、一枚目を読み終えた時に目の前にココが現れた。
"エドウさん初めまして。私は死者の学校のココといいます。そちらの方は科学宗教ポノウェのカーヴィン・シトックさんでよろしかったですか?"
カーヴィンが、ええ、そうよ、と答える間も江藤は便箋を読み続けていた。
ココは江藤を凝視していた。
カーヴィンはニコニコと微笑んでいた。彼女はココに話しかけ、他愛もない世間話などをしていた。ココはココジョウザンシステムの使い手であるが、カーヴィンにとってはさして重要ではないようである。
江藤は便箋を読み終えると、
"わかりました、ココさん。僕を是非、死者の学校に連れて行ってください。"
するとカーヴィンがパンッ! と手を叩いて、
"お出かけね! では、準備をしなくちゃ! 行きましょう!"とはつらつと言った。
***
江藤とカーヴィンは車椅子のココに誘われ、死者の学校へと向かう。だが別段特別な手段などもなく、目をつむれ、手を叩いたら五秒数えて目を開けろ。そして開いたら塩湖を思わせるような純白の世界に来ていたのである。
この時の江藤の歩みは、一割の死者の学校への興味と、一割のそれへの懐疑と、八割の無情であった。彼は前述の通り精神状態の中で今まさに悩んでいたのだが、それがもし死者の学校というもので解が与えられるなら、それは喜びでもあったし、自分自身に対する失望にもなりえた。それは、彼の愚かしいナルシズムととることもできたが、しかしその解によっては、彼が跪き敬服の涙を流すことも考えられた。こればかりは出会ってみて、どのような反応になるか、双方の状態を省みることしかできなかった。
純白の塩湖に少し赤錆のようなものが混じり始め、江藤が視点を上下させ彼方を見てみると、そこは青空の下に赤いクレヨンで一線引いたかのように見えた。
"あそこが死者の学校ですか?"
と江藤が尋ねると、
"ええ、あの彼方の赤い地が、死者の学校です。ここはただの余白地に過ぎません。あと三十分歩けば着きます。"
とココが言った。
あの彼方に三十分で着くとはかなり疑問が残ったが、確かに食事をする程度の体感時間で、江藤の目の前に赤と青の巨大な門が現れた。
その門は高さが20mほどで、門というより一つの建築物のようであり、丸屋根が載っており、墓碑に見えなくもなかった。門がゆっくりと開くには、三分ほどかかった。全開すると、中から小動物ほどのサイズの節足動物のようなものが出てきた。それは古生代カンブリア紀に生息したハルキゲニアであった。
"初めまして、エドウナウカさん。私は死者の学校の教頭を務めております、ハルキゲニアと申します。"
すると、門の影からゆっくりと一人の男が現れた。それは真エドウであった。
"エドウ。すごいな、あのココジョウザンシステムを読んで、ここまで来たのか。俺は死者の学校の校長代理をしている真エドウだ。お前は正式に死者の学校の校長になりに来たのかもしれないが、エドウお前はまだしなければならないことがある。ココ、ありがとう。エドウ。付いて来い。"
真エドウが江藤を呼んだ。
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"この死者の学校は国家の探究だ。その意味がわかるかエドウ?"
"有機的なものとして新陳代謝してゆく国家、すなわちそれは現在の国家への懐疑であり、国家を生命体として捉え、それがいかように成立できるかということの演習である。それが、死者の民主主義か? 死者という存在によって影の亡霊共同体をつくることで、国家に対し新陳代謝を促していくと?"
"まずまずだよ、悪くない。だが我々はその先を見ていかなくちゃならない。この我々という概念がいかに歴史と関わり機能し存続してゆけるか。そのための祭りであり、アシュラだ。"
"しかしそれが、政治国家に対して、どれだけの作用を生む? 結局は政治は生者のものとして、死者の声を届けられるか? それこそ死人に口無し、そんなものは絵物語と言われてしまうぞ。"
"だからこそ我々は、死者の学校、死者の民主主義の練度を高めていく必要がある。妖怪や怨霊、祭事といったもので死者の異界が人間社会と化学反応していく世界に。その世界観のために、俺達死者の学校がある。それが祭りであるか、アシュラであるか、市街劇であるか。あらゆる手を考えていかねばならない。"
"ただそんなに死者死者言うならお前は霞でも食う死者に近い仙人の山にでも行って生者の世界に一生降りてくるなということも言われる。"
"確かにそのような意識の断絶は存在する。いかに話し合ってゆけるのか、ということだろうが、もしかしたら市街劇というのは、そういった意識の断絶において劇の演者と観客という枠組みにおいて機能したのかもしれない。やはり一人一人を説得するのは何であるのか、相手の正しさと自分の正しさ、結局どちらが正しいのか、それはおそらく第三者が決める他ない。それが世論というものであろうか。そういったものの中で、一人一人がどのような振る舞いをするか。とても個人レベルのことであるが、これが案外重要であるかもしれない。そういった意識から世論、そして立ち振る舞いにおいてまで、我々は注意を払わねばならない。"
"すべての人類がひざをつき敬服に涙するような、そういった神の知性の属性を死者の学校は持ち得ていない?"
"それは宇宙的恐怖のようであったり、それこそ核兵器という死そのものになった人間、身体が放射線で生物代謝を失い皮膚はがれ体液がダラダラと流れ出るそれが恐怖であろうか、結局圧倒的な恐怖でしかない。私はそれは違うと思う。主体たる死者として、それはやっちゃいかんと思う。"
この間の真エドウと江藤の会話とは、今だ未完全で世界に対してどれだけの作用をこの死者の学校が及ぼしうるかわからないという中で、いかに自分達すなわち死者、敗者、弱者が立ち振る舞うべきか、それを考えているのであった。世界に対し暴力を伴わない反乱で、権力に対する究極的な反抗に成功したとて、権力に殺された死者、敗者、弱者に対し、では死者の学校がそれとどう向き合うのか、向き合わねばならぬ以上、どうすべきなのか。死者の学校は常に、そうした死者に関わるところの政治意思というものも、吟味しなければならないのである。
真エドウが江藤を誘った先は死者の学校の校長室であった。その重厚なドアを開くと、小規模な会合なら開けるほどの広さで、奥に校長の執務用の大型の机があり、手前には簡単な応接間が、仕切りを立てて設けられていた。
仕切りの磨りガラス越しで誰かはわからぬが、チェアーに座り待っているようであった。
真エドウが江藤をそこに誘った。
江藤は恐る恐るその応接間に入って行くと、そこにいたのは、自作『アシュラ-レクトル』のヒロイン、夏ヶ魔宮カキその女性であった。
***
"待っていましたよ、江藤さん。では、最後の対話を、いたしましょう。"
と、夏ヶ魔宮カキが言った。
"この作品は。いつ終わるのですか?"
と江藤が尋ねると、
"作品は終わらない。我々の前に真の知性が現れるその日まで。作品は続いていかなければならない……。ガニミズムは、ゴミにも魂が宿る、すなわち、すべての物、生命、世界、魂への敬意である"と彼女は答えた。
引用文献
〈地下演劇〉
第5号
1972年8月15日発行
編集人 寺山修司
発行 天井桟敷〈地下演劇〉編集委員会
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「A-レクトル」はここで下書きが尽きたので、更新を停めます。そして、続きを書けるかどうかが未定です。その理由が、
国家と国家の戦争において祭りという非暴力抵抗が意味を成すのかわからなくなった
からです。詳しくは活動報告に書こうと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました。




