終章⑥(江藤入崎会議)
時勢により、大変蒙昧としております。その中で、自身とキャラクターに自問自答して、なんとか保たんと書いた次第です。
拙作に関係の無い挿入と思われるかも知れませんが、筆者にとっては極めて重要な問いなので、お付き合いください。
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この日、入崎会議が開かれた。それは、分裂増殖した、サリヴァンの入崎。死んだ死者の学校のクローン入崎。そして『アシュラ-レクトル』登場キャラクターのヴィアクトー・ジュアンだ。それ以外に、江藤、筆者、筆者の理想人格、ヒーロー、神のレプリカとしての身長2mの巨大な赤ちゃん、ガニミズム・わいばーんもいた。それらは著者のイデアそしてトランキライザーと言って差し支えなかった。
「わいちゃん、今回のお話し合いには、きっと答えはでないと思うのね。でも、その答えに関わらず、僕達の行動は行われるのね。すなわち、今僕の行動が答えになるということなのねね。だから、今その瞬間に僕は君は何をしているか、するか、それが答えであり意思表示なのね。でもそこに決断はない。でも僕は、人間の行為の積み重ねである歴史というものが、すべて人間の明確な意思の下にその脳内のまま一言一句違わず表れるとは思わないのね。日々の生活という無形の思考の中で、もしくは今の僕達の入崎会議のように、意識下における有形の思考の中で、種子は錬成され、それが芽が出て育ち、行為と歴史になっていくと思うのね。種子はただ用意されるが、それが良い実になるか、不稔となるか、どうかはわからない。でも、僕達は常に沢山の種子を己の内に貯蔵しているのね。だからこの入崎会議も行動や意思表示や決断や宣言をするというよりかは、一つ一つ、また一つと、種子を錬成し蓄えておく、そうゆうものかもしれないのね。わいちゃんは力による一方的な現状変更は、今まで人々が一生懸命作って想像してきた世界を壊すものなのね。力による現状変更はあってはならない! 許さない! プーチンさんは軍を引き返させて、対等な立場でウクライナとお話し合いをするのね。それが一番です国家の代表者たるリーダーの、真っ当で真摯な在り方なのね。僕はどこかを攻撃して、自分のものにしてしまおう! ということは、結局選ばれた高貴な生のリーダーでなくとも、誰でもできるものだと思うのね。究極きっと、周りに偏った専門家を配置して、それから話を聞いた子供でも、その決断だけだったらできると思うのね。ではその、政治リーダーというものが一つの生き方として、プロフェッショナルかつ重要な活動として高い資格を必要とし選ばれた英雄にしかできないのはなぜかといえば、人智の及びえないような恒星の如き思考をその政治中枢の中で繰り返し、数え切れないほどの種子を錬成し、その中から最善解を示さなければならない生き方だからなのね。そんな宿命を背負うからこそ、政治家という生は高貴で優れた資質といわれるのね。その中で、もし侵略戦争を選ぶというなら、それはただ世界を自分の意のままにするという、極めて大衆娯楽的で極個人的な行為なのね。たしかに、戦争によって英雄というものは立ち上がってくるかもしれない。しかし今二十一世紀の世界が示した英雄像というのは、決して他国を武力により侵略するものではない、いかに広く高い視座で地球全体を見通しながら、人類の生存を保障していくか、そんな人権と気候危機という巨大な禍に対して現れるのであって、侵略戦争はまずもってその反対を行く、せまく低い視座で自分の立ち位置すら見失う行為なのね。そんな人は、これからの世界を、地球を背負うリーダーにはなりえないのね。それがわいちゃんの、日々の生活という無形の思考、そして今僕達の入崎会議のように意識下における有形の思考によって錬成された、行為と歴史の種子であり、わいちゃんの核なのね」
読者諸氏もいきなりこのようなものが挿入されて驚いているかもしれないが、白状すると、作者も同様である。中には創作は現実の避難所てして機能すべきという考え方もおられるだろう。全くその通りでもある。それでもなお私はわいちゃんや入崎会議の彼ら共に、現実というものに対して創作としての我々がいかに対峙してゆけばよいのか、わいちゃんの言葉を借りれば、それによって私の中にいかに種子を錬成できうるのか、その力関係の構造を、明白にしておきたいと思い書いた次第である。
「わいちゃんの存在意義は神のレプリカ、トランキライザーであるならば、ニコニコ笑顔の公的想像力! ニコニコ笑顔のお尻フリフリ身体感覚!」
「戦うことであるか、はたまは祭りをすることか、その選択は重く、どちらも理としては理解できないこともない。ここで重要なのは、主体たる私達がいかなる核を持つか、ということだ。もちろん、核武装のことではない」
「しかし、私はゼレンスキーを、自らが主演したドラマ『国民と僕』の普通の歴史教師がウクライナ大統領として汚職や大国と渡り合う、そんな活動と理想そのものとしての跡、すなわち仮面をつけ、それが実際の政治上で選ばれ、そしてこの非常時に大きく機能しているのだと見ていた。しかしその機能があまりに劇薬であるがゆえ、彼の人身掌握が巧みであればあるほど、世界のバランスは崩れかねないと、そういった見方もあるが?」
「まずその前に、この場でこういった形で『世界はこうではないか』と己で断じ表現することに対する、自己の蒙昧状態へと陥りはしないだろうか。おそらく今の出来事は、これから先何十年とそれぞれの時代それぞれの立場のインテリジェンスに歴史の流動状のものとして研究されるだろう。それによって今の出来事とは千変万化する。その膨大な積み重ねで初めて、今の出来事の真相に近しいものがおぼろげに見えてくる、その程度のものだ。しかしであるならば、『世界はこうではないか』と己で断じ表現することに、どれだけの意味があろうかだし、もし生半可なものを挙げてしまえば、それこそ熱狂に押し流されてしまうような蒙昧状態になってしまうのでは?」
「では君は今の出来事に対し、コミットすべきではないと?」
「徒に関わるというより、今の出来事は我々に逃れようも無く責めてくるだろう。その時、しっかりと耳を傾ける準備をしておかなければならない」
「だからこそ。我々は主体たる私達がいかなる核を持ち、その核によって判断していくか、が重要なのではないか」
「しかし。もしその核がおよそインテリジェンスとは呼べない陰謀論まがいのものだったら、私は確実に誤った判断を下すぞ」
「だから究極を言えば私は、あらゆる現実を前にして精神錯乱してまた別の意味で無知蒙昧を起こし、現実を前に何もできなくなるという自滅を選んだとしても、それはそれで個人のレベルとしては良いのではと、思ってもしまう」
「待って! そのあらゆる現実を前にして精神錯乱で、それで戦争加害を黙認してしまうようじゃあ、悪人の仲間入りだわ!」
「戦争は互いに正義を謳って戦われるとは言ったものだが、いざ現実として向き合ってみると、一体何が真理であるのか、わかりやすく極端な言い方をすれば、実は正義かと思っていた自分の行いが、実は悪だったのではないかと、もはや何がなんだかわからなくなるのよ」
「尊敬される戦死と、快楽としての勧善懲悪としての討伐、が、あるのか?」
「死者の学校が敗者であるというのなら、すなわち敗者を前提としてこの作品が構成されているなら、それがすなわちいかなる屈辱で苦しみで恐怖で死であるか、わかっていないのでは? 作品の主張として、そうなりなさい、ということを言えるだけの覚悟と強さをわ貴方は持っているか?」
「違う、今考えるのは現実で苦境におかれている人々に対しての、我々の立ち位置というもので……」
「できることなんて! 戦争反対! と意思表示することだよ! もしくは攻撃を仕掛けたリーダーに直談判でも何でも直接関与して、攻撃を止めさせるか? 究極的にはそれしかないぞ」
「今はきっと世界が作り変えらる瞬間を目の当たりにしている。しかしそれはポジティブなものではない」
「そしてその世界の変革を前にして、殺人的な暴力装置を前に、戦争を前にして、一体創作というものに何ができるというんだ。ジリジリと近寄ってくる危機に、創作なんてものに何ができるというんだ」
「きっと、できない。私が目標としていたのは、その戦火が起きる前に人々の心に関与し、未然に防ごう、というものだ。一度手が上がった事態に対し、じゃあ創作で解決しようといったところで、聖人ならいざ知らず、ただ死にに行くようなもんだ」
「今我々は、それを問われているんじゃないか? この状況下で、お前の創作とは何なのか」
「そうゆう意味では、今ゼレンスキーはコメディアンとしてまさに自身を、身体に芸を創作していたが、冒頭のゼレンスキーへの見方というのは、その延長線上か?」
「待て! 何故ゼレンスキーだけは表記して、もう片方は表記しない! 日和っているのか!」
「そうだ、それは認めざるをえない。私は彼が恐ろしい。経済や国際情勢や、そういった人の理解を超えて、一人の人間が国家と国家において争いを起こしたという、世界大戦後に人類が築き上げてきた世界観を何故内側から壊死させたのか、もはや彼の世界観で彼に話が通じなくなっているのか、そういった恐怖がある。そしてもしかした彼の世界観が、我々の世界観を押し潰し自身こそが世界だと声高らかに宣言するのではないかと……」
「だから創るべきではないか? 彼の示した世界観に、NO! を突きつける意味で、我々の世界観を、改めて強く示すために、創作すべきではなくて?」
「しかしその対極化した世界観の衝突の中にも、また強権の芽があるのでは。最初に述べたゼレンスキーとは。その技量で自身か、彼かに世界を二分させ、その中心に立ちつつある?」
「しかし、彼の攻撃に対してYESかNO、それは態度として示さなければならないのでは」
「そうだ! それはそうだ。いかなる理由があってもいいと侵攻を肯定しうるものなどあってはならない!」
「待て。これは君自身のものか? それとも創作に関してのものか?」
「両方だ。私にとって自身も創作もつながっている。それの良し悪しは分からないが、私にとってはそうゆうものだ」
「本当に、今私は何をすべきなのか、分からなくなることだ。もし、いま世界に再び大戦が起きようかとしているかもしれない、これはウクライナだけでなく、地球規模で戦火が交えるということ、のに、結局個人たる私は何もできずぼけっと日常生活をし、こんな書き物しかできないという自分、それならウクライナのことなどどうでもいいのかと詰問する自分、もしかしたら過去の大戦も今の我々が見て何故こんなことを止めなかったんだ! でなく、今の我々のようにぼけっと生活してこんな書き物しかできずにどうでもいいのかと詰問してあの大戦になったのなら、結局我々の学んできた戦後とは何だったのかと思うことがある。私は今何をすべきなのかと」
「それを、今ここに、示す必要が、あるか? 大した見識も無い私の意見が?」
「ここに意味は無くてもいい、必要も無くてもいい、むしろ、それを生み出さないように気を付けて、それが世界がわからないという畏敬の中で、自分が意味がわかった! 必要がある! といった奢った蒙昧とした状態に陥ることなく、粛々と種子を錬成し続けること、それが重要な気がするんだ」
「それは結局何もしないということじゃあないか? 現実を前に何もできなくなる自滅を、君は良いとおっしゃる?」
「そうそこなんだ。戦って勝ち取りに行かんとするか、はたまた祭りをして勝ち取ることができるのか。前者は必ず生き残れるかはわからないが、後者は運の要素しかなく結果は天任せだ。はたしてその運の天任せを、国家という機能が行なって良いのか。個人なら個人の意思で構わないだろうが、国家だと話が違ってくる」
「やはりその対極化した国家としては、祭りではなく戦うしかないと?」
「そうだ。だからこそ僕は彼に言いたい。彼がウクライナへ侵攻したのは、果たして彼君の意思であるのか? そこには、国家と自己を癒着させたことによって、意味と必要が己の身体を超えて立ち上がってしまう、自身の世界に対する、他者に対する畏敬を欠いた状態になっているのではないかと。国家の権力という力の作用を自身と癒着などさせてしまえば、それは人間の手にした負えるものではない。だから、世界への畏敬、無意味と無必要を恐れてはいけない。それが例え自身に向けられたとしても。それになった途端に後ろから刺される世界にしてもいけない。盛者必衰の理の中に。それは政治家という生の、活動の、高貴で優れた資質であり美徳であると考える。それはもちろん、彼にも言えることだし、この先ゼレンスキーにも言わなければならない可能性は無いわけではない」
「彼よ、貴方の行為は今世界への畏敬を恐れかき消さんとしている。しかし、今ゼレンスキーが得た意味と必要によって自身がどうなっているか、感じて欲しい。国家では無く、自身で」
「しかし結局もこれは、行動や意思表示や決断や宣言の無い、種子の錬成でいいの?」
「世界への畏敬を持ち、無意味無必要を耐久する意思のために」




