三章①
最後の方に汚いシーンがあります。
食前食後の方は気をつけてください。
***
エドオルム崩壊後、ある種の終末観を漂わすこともあるかも知れないが、サリヴァンの生活は機動し続けた。こう言うと、無味乾燥とした倦怠的で終わることのない日常は頑健に続いていくという絶望すら思わせるかもしれない。キッチンスタンドでホットドックを買うオフィスワーカーも急ぎ足でどうやら仲間友達と待ち合わせに向かうような有産階級のマダムも、それこそビル群の隙間とも言えそうな路地で鼻をすするホームレスも、すべては終わることない頑健に続く日常であるということであろうか。いや、そうではない。彼らの生活はもはやずいぶん前から終わっていた。彼らの生活に貼りついていた生なんてものはただの三文小説の粗悪な複製品に過ぎず、その本質は時計職人が腕試しに作るオートマタ以下のものであった。無論、ホモサピエンスの文明社会的生活は時計職人のオートマタよりもはるかに複雑であるし、まったくの偶発による変化もままある。だが、このサリヴァンの生活には感情を欠いていた。彼らの喜怒哀楽はただの脳という有機物の器官が、与える電気信号以上のものを生み出すものが存在していなかった。たとい、周りに病み人、飢えている人、死にそうな人がいようと、そこにもはや感情を感ずるところの余裕などない。それが、サリヴァンという土地環境が成り立たせる人間の精神構成という名のただの有機的機械、肉の機械が示すプログラムである。
そしてエドウはそんな人間達を殺さんばかりの勢いで侮蔑しながら、無目的に生きながらえてしまっていた。どうせこいつらは殺される! 白狼に食い殺される! もはやそんなこともわからずに馬鹿の一つ覚えの英雄気取りで普通の生活を営む人々よ! 死に給え!
エドウは150m先の片側二車線の十字路に右路から信号を無視して白狼が侵入し、そのまま人混みに突っ込む様を見た。人々は当然わかっていたろうに、悲鳴なんぞをあげて命惜しさに慌ててその場から離れていく。
それはエドウにとっての、デウスエクスマキナによる時計仕掛けの人形ではなく大規模一点発電企業経営的配電によるショーウィンドウのきらびやかなアイドルムービーであった。もはやこの町には、ここに生きる人間には神による神聖と神域がことごとく唾棄されて、すべてが人間というものの領域と頭脳によってただ拡大されただけの、愚かで粘菌のごとくうごめく群がった巨大な個人が、一人いるだけである。すべてが種々様々いろんな人間がいると思うているが、結局は群がってできた巨大な個人を幾千という人が模倣し自らの意思のもとに生きていると見せかけてただ無意識演じているだけである。
このように見ると、冒頭のサリヴァンの人々への言及と、エドウの所感とは、非常に似ているように見えるかもしれない。しかし、二つにはまったく異なる点があった。それは、エドウはエドウ自身を特別な存在であると腹の底では思っており、自分こそが実は権力を失い透明と化し時代無きものとされた神であるというおごりにも等しい自覚があったことである。オフィスワーカーが、有産階級のマダムが、ホームレスが、白狼に目をつけられバリバリと食われていくことは、各一つの原動機と配電コードのつながりが、ぷつりと切られるだけである。それを断ったりつなげたり、原動機そのものを排除したりする力を、自分は持っている! エドウの今の全能感は、どうやら白狼を自らの手の内で遊ばし操ることができるようである。
エドウは徐々に近づいてくる白狼に自分から駆け寄ることにした。彼の体は逃げ惑う他の輩とはまったく異なる、確立した意思のもとによって動いている。しかしこれはあまりにも、ジョウザンシステムもパルも手放している今のエドウとしては、あまりにも蒙昧とした、無茶苦茶な思考であった。結局生身の人間のエドウが白狼を手中に収めることなど、万に一つも無いのである。
人々の流れに逆らい、薙ぎ払い蹴り倒しながら、エドウは白狼に近づいていく。このエドウの狂躁には、おそらくエドオルムが消滅したことが大きく関わっているだろうが、その自己分析と統御機能すらも今のエドウには働いていなかった。彼にとってエドオルムというものは、職場である以上、アイデンティティとでもいうものに等しかったのであろう。しかしだからといってこれほどまでに廃人と化したということは、それ以上の何かを、エドウの精神構成の中でエドオルムは担っていたのかもしれなかった。
人波を抜けると、30mほど先に人を喰らうている白狼がいた。エドウは愉快な少年のように嬉々として白狼に駆け寄っていくのだ。しかしそこには確たる意思など本当はない、電源をつけられたモーターが動き出したのと遜色ないものであった。エドウの接近に気づき、白狼が人を食うのをやめて、振り向いた。エドウは待ち合わせたガールフレンドを迎えるように手を道化のように大きく振り、笑顔を振りまいた。そして、白狼の鼻先で止まると、両手を広げて見仰いだ。白狼はというと、鼻先でエドウの臭いを嗅いでいた。このシーンだけを抜き取ってしまえば、獣と人間との種を超えた友愛のロマンスがこれから始まるとも思えなくもなかったが、それはただのエドウの妄想であった。白狼は当然のごとく、視界に入った弱い獲物を捕獲するようにエドウの肩へと噛み付いた。そして、噛み付いたままに、エドウを二、三度激しく上下に揺さぶった。
エドウは上下に激しく揺さぶられる中で、う〜とうなり声を上げていた。しかし、その状況を打破しようと抵抗する手をまったく見せなかったので、幼稚園児のよう、ただただ事態に翻弄されている様そのものであった。
すると、白狼はエドウを噛み付いたまま、どこかへ走り出した。捕食動物よろしく捕獲した獲物であるエドウを巣にでも持って帰って食べるのであろうか。
この時はエドウはうなり声でなくひゃ〜、という悲鳴を上げていた。その光景は、恥部を晒すことの比ではなく、人間が堕落しその生きるという前提をもドブ川に投げ捨てたような、情けないものであった。エドウがなぜここまでくだらぬ男になったか、それはひとえにやはり前述のごとくエドオルムを失ったことが大きいであろう。かといって、彼にとってエドオルムが全幅の信頼を寄せるに値すると見なしていたかと言われればそうではない。エドウの自己認知以上にエドウにとってエドオルムとは人形操演の主であり、彼は人形だったのである。いくら、人形がいかなる主義や思想を持っていたとしても、人形操演たる主がいなければ、人形は現実世界に対していかなる介入もできず、床に両手両足を広げて転がっていることしかできない。エドウがいかに壮大な世界を語ってみせたところで。もし、エドウに次に成長の機会があるとするならば、おそらく重要になってくるのはこの部分であろう。
エドウは白狼にくわえられ上下に激しく揺さぶられながら、白狼のきつい口臭を嗅いでいた。それは、死の恐怖もなければこの状況を打開してやるという野心もない。今の人形たるエドウは、白狼の意のままに食われるしか道がないのである。
白狼がその巨体で車道の自動車を固着させて、人々にただ見るという行為のみを強制させていた空間の中、白狼の背中で突如爆発が起こった。その爆発で白狼の背中が抉れ、くわえられていたエドウが宙へと投げ出される。事態を認識しようと周りを見回した白狼にさらに3〜4発の爆発が起こった。白狼の周囲は赤い炎と爆風と粉塵に満たされた。そんなことを意にも介さないで転がるエドウの元に、何者かが近づいてきた。
"気が狂ったか! エドウ!"
それは、クローンロロノア・ダヴィのクローヴィム号で出会った、黒天狗の真エドウであった。真エドウはエドウを抱きかかえると、無機質な雑踏へと消えていった。
***
市装兵団による恐怖政治によりクレナイチョウを殲滅したサリヴァン市政だったが、まだ敵は内部にいたとされる。それは、そもそもの原住民との衝突を招きクレナイチョウとの紛争の原因をつくった、ギャングココルチェの流れを汲む人々のことであった。もともとは秘薬ヒノマルの経済活動のためにココルチェの資金力に頼らざるを得なかったNBSだったが、サリヴァンの発展、そして経済力の強靭さはめざましく、もはやココルチェを頼る必要はどこにもなくなっていた。しかし、この頃のサリヴァンで語らねばならないのは、サリヴァンの経済が何も秘薬ヒノマルの輸出のみに頼っていた過去はもう古いものになっていた、ということである。サリヴァン市政の中心たるNBSがココルチェの手を借りヒノマルの輸出で資金を蓄える裏で先見性を持って特に力を入れていたのは科学技術・教育系の分野であった。それは、本土のココルチェから分離し、命懸けでサリヴァンという未開の地を目指し、そこで新しいヒノマルという経済を切り拓いたNBSの冒険精神はまだ忘れられていなかった、ということである。ヒノマルの生産もまったくないわけではなかったが、10年ほど経て、その生産は終了する。そして、NBSの科学技術・教育系への投資は長い原住民ヒノマルの若者との文化交流から数えれば20年という年月を経て着実にサリヴァンの社会風土を、NBSという一介のギャングが自治したものとは思えぬような発展と強靭さを獲得し、本土の経済が真っ当なビジネスができるどころか、ここ本土よりも優れたビジネスのできる可能性のある土地であると思わせるに至った。まさにサリヴァンは、世界に誇る有数の先進都市となったのである。それを成し得たのは、NBS、つまりはサリヴァン市政の科学技術・教育系への投資により、まさに人財ともいえる人的才能物資を大量にかかえることができたからであろう。そこに対しサリヴァン市政はおしみなく資金を注入した。なぜなら、サリヴァンの経済がそれによって成り立つからであり、裏を返せば、ここが空洞化してしまえばサリヴァンという小国はあっという間に占領されるからである。ちなみに、こういったサリヴァンの人材育成のために設置された無償の高等研究教育機関、"ラーネトウィン公立自由大学"で学んでいたのが、この先科学宗教ポノウェを開くことになるカーヴィン・シトック彼女もその一人であった。そういった政策の中心となったのは、NBSをこのサリヴァンの地へと引き連れてきたリーダーその人である、ラーネトウィン・アウルスタであった。彼はギャング的な強権的指導では限界があると感じ、このサリヴァンの地に、公的な政府機関として自立独立した、(しかしそれ以前にも政府機関はあったが、それは植民地として発展したサリヴァンから収入を得んがためにギャングココルチェと癒着した本土から派遣されてきたものであり、サリヴァンの自立・自治とは少し趣きが異なっていた。)市政政府議会を設立した。そしてその議会の初代議長に、70歳のラーネトウィンは就いた。しかし、当然のごとく本土政府とラーネトウィンの議会政府の二重行政以上の軋轢、本土の悪意ある言い分からしたらクーデターは、事態の収集に並々ならぬ労力を必要とした。しかし、天はサリヴァンに味方した。本土そのものの政情不安が発生し、本土政府がそちらに手をこまねいているすきに、ラーネトウィン達議会政府は今までこの時のためと蓄え続けていた人、モノ、金、そして活力の、すべて注ぎ込み、サリヴァンを完璧に手中に収めた。70歳にしてその手腕と胆力は、まさにラーネトウィンのカリスマ性を示す形となった。しかし、本当の戦いはこれからだった。このサリヴァン議会政府がこの先、いかに外部との接触、外交、そして防衛をしてゆくかが、問題であった。しかし、サリヴァンの地には人財・人的才能物資があふれており、それはまさにラーネトウィンの先見の明かもしれないが、有り体が瞬く間に崩れ落ちるということは考えられなかった。ゆえに、対策を必要としたのは、サリヴァン内部からの扇動によってサリヴァンを腐敗させようとする本土ココルチェのスパイ達であった。サリヴァン議会政府はそれの排除へと乗り出す。しかし、クレナイチョウを壊滅させたプロセスを持つサリヴァンにとって、それは造作もないことであった。こうして、サリヴァンは完全に一独立した国家的組織となり、その繁栄をしめていくことになる。
***
イシエは仮設の隠れ家でインスタントコーヒーを沸かして飲んでいた。ディオに連れてこられてやってきたレクタオン墓地で、我が亡き子アラヤマコトミとの邂逅を経て正気を取り戻し、エドオルムの消失以降、独自に行動を開始していた。といっても、所詮トッケイという最執長シャチューヌの威を借りただけの存在であった彼女にそれほどのことができるはずもなかった。いたる所で群発する白狼の襲撃を、たまたま居合わせるという運のみを頼りに、ディオとのジョウザンであるデュオウルフで撃退する、という程度である。まったくもっと不可思議なことだが、エドオルム消失以降、サリヴァンの各地の派出所はまったく機能しない無人の状態となっており、治安の情報網がまったく機能していなかった。せめて中央司令部たるエドオルムが消失したとてマンパワーの保安局員の務めがサリヴァンの平和の最後の砦となってくれればよかったのだが、それは高すぎる望みのようであった。もしか、派出所の保安局員はすべて白狼と戦い食われてしまったのであろうか? 確かに近いうちにその状況に陥るのは十分考えられたが、白狼出現の時間とサリヴァンに配置された12000人あまりという保安局員の数を考えれば、それは考えられなかった。文字通り、保安局の派出所は機能しなくなったのである。
まず白狼の事態を認識したイシエは派出所からエドオルムに無線連絡をしようと駆け込んで驚き、そして、エドオルムの消失に仰天した。イシエは今まさにコーヒーをすすりながらも今自分は次に何の一手を打てばよいかと考えた。しかし、この、表面上は何も変わったようなところがない、白狼の出現がありながらも悠々と生活を送るサリヴァンの人々の裏で、決定的に何かの歯車が動き出しており、そんな生活をあざ笑うかのようにバリバリとサリヴァンの世界がつくり変えられていることに対し、そのあまりの事態の大きさからか、イシエの手にはあまりあるのであった。彼女はいっそ、自警団のようなものでもつくり、保安局の派出所に人を置いて、機能させようかとも考えた。しかし、トッケイの特別権限など一般人には効くはずもなく、往来の人々に肩を叩いて勧誘したり戸口で尋ねてみた所で、いろよい返事がくるはずもなかった。いっそ、彼女の女を使えば下心のあるふしだらな男なら集まったかもしれないが、そんな手を正常なイシエが思いつくはずもなく、集めたとてそんなふしだらな男を一人前の自警団に仕立て上げる手腕をイシエは持ち合わせていなかった。ゆえに、今彼女にできることは、たまたまバッタリ出会った白狼の撃退、ということである。
イシエは、コーヒーでは体の芯を温めることのできないこの隠れ家のふきすさぶ風の冷たさに、自らのちっぽけさを痛感した。彼女の今までの人生の、エドオルムの執務官としての、功績や経験や人生は、実はすべて自分自身のものではなかった、自分の身ではなかった、ということである。エドオルムを失い不能をまざまざと見せつけられている今の彼女が何よりの証左である。彼女は、目前に広がるコンクリートのうちっぱなしの壁の一点を凝視し続けていた。そこには、一切の諦観は無く、静かな野心だけがあった。決して、生きることを放擲してはなぬ、その思いだけが、彼女の中に静かに燃えていた。それはつまり、アラヤマコトミとの邂逅である。
そんな時、イシエをレクタオン墓地へと連れた当人のディオの姿はなかった。それは、保安局員然としてパトロールをしていたわけではない。暇人のように、ただフラフラと意思もなく徘徊していたのである。それは、自分はもうアラヤマコトマのことづては為し終えたから、後はもうどうでもよい、といった趣きであった。しかし、それでも白狼を見かければイシエを呼び出し、ジョウザンし、撃退することはかろうじてした。しかし、そもそもイシエとディオのジョウザンの相性はクローヴィム号の件から日に日に劣化し続けており、それが白狼に対して最大の力で攻撃を起こせない一つの要因にもなっていた。
イシエはともかく保安局員の仲間を集めなければにっちもさっちもいかないと思っていた。しかし、彼女の知る同僚とは、エドウとパルとディオ以外にはいなかった。そこへフラフラと、気まぐれな妖精の体のディオが帰ってきた。
"少し、見回りに行きましょうか、私が運転するわ。"
イシエが立ち上がった。
イシエとディオは車を駆け、サリヴァンの町へと躍り出たが、平和そのものだった。行く先々で珍妙な集団が騒いでいた。もしかしたら、サリヴァンの危機とは、自分だけが見ている夢まぼろしなのかもしれない、そんなことすら思わせてしまうほどである。しかし、つい前日、14時間ほど前には、自動販売機の影でバリバリとオフィスレディを食っていた白狼を撃退し、その遺骸を弔ったのは、まぎれもない事実である。イシエはその遺骸を、ディオの知恵を借りながら、火葬していたのである。ディオによればその灰は、レクタオン墓地の中心にある大きな記念樹の幹にかぶせると、その精神は慰められるそうである。なぜディオがこんなことを知っているのか、そもそも勝手に遺骸を処理してよいのか、イシエは気にしなかったが、この数日間の白狼の撃退、遺骸の運搬、火葬、そしてレクタオン墓地への埋葬は、非常におざなりだがただのルーチンワークになり果てていた。しかし、イシエなある一瞬にこのルーチンワーク中に何度となく涙を流すことがあった。それは、彼女に容易に言語化させぬ類のものであったからこそ、彼女の琴線に触れたのかもしれなかった。その心理的うねりは、今までのイシエのアシュラ患者との戦っていた姿からは、まったく想像できないものであった。火葬中に、何かの生理医学的反応か、微かに手足がじわりと動くことがあった。その時イシエは、劇薬アシュラによって動く死体たるアシュラ患者とはまったくことなる何かをそれから感じ取るのである。
イシエは運転しながら助手席のディオをちらと見た。
ディオはぽわぽわと陽を浴びながらまどろみ、にこやかにしていた。
イシエは正直、夜会で助けてもらった恩も、ジョウザンシステムのパートナーとしての絆も、ありはしたしこのディオの以前とは比べものにならない姿にとまどいもしたが、あまりさしたる問題とは見ていなかった。当然、ディオに以前の真人間に戻ってもらうのに越したことはないが、今の彼のそんな内面の問題は今のサリヴァンを取り巻いている問題より喫緊の度合いがイシエにとっては低いと判断したのであった。前述のごとく、ジョウザンでかろうじて白狼を撃退でき、火葬の仕方も教えてもらえるならば、ぽわぽわとまどろみにこやかにしていてもかまわない、それがイシエの飾らない本心であった。
イシエは眼前の横断歩道を楽しげに渡る人々の姿と自身とに、大きな隔たりを感じていた。無論、そこに国籍や宗教といった概念として目に見える隔たりはないのだが、自身がもはやこのサリヴァンで異物になりつつあるという感がないでもなかった。では隣のディオは? 彼は間違いなくサリヴァンの住民である。仮に、今のイシエ自身とサリヴァンの住民たるディオの決定的な差とは何かと問われれば、それは自身があまりにも無力で空虚で、何もなかった、ということを自認しているか否か、であろうか。おそらく、男の子を肩車する父親と、ベビーカーを押す母親に、貴方達は何もないんです、と言ったところで、怪訝な顔をするか、露骨に嫌な顔をされるかで終わるだろう。ではいったいこのサリヴァンで何が起こっているのか、イシエにはそれがつかみかねていた。
イシエは車のハンドルを強く握りながら、サリヴァンの町を観察し続けた。それが、真に優れた打開策たることはまずありえないのだが、多くのものを見なければならない、そう感じていた。
その時、イシエの目に一人の子供が飛び込んできた。その子供は通り過ぎ様に太った婦人から財布を盗ったのである。なぜこの瞬間の犯罪をイシエが視認できたかはわからぬが、その、常なる犯罪とはことなる背徳に魅せられたのである。その刹那、イシエと子供は目が合った。イシエは慌ててブレーキを踏んだ。
ぽわぽわとしていたディオは車のガラスに頭を打つけんかという勢いで前にはつんのめった。
子供の跡を目で追うと、薄暗い路地へと入って行った。
イシエは今の自身の確たる打開策もないのなら、彼らのような子供達が今のこのサリヴァンでいかなる生を生き、いかなるものをみているか、それが知りたくもなった。
"ディオ、ちょっと車を降りて散歩でもしましょう。"
イシエはそう言うと、手近のパーキングエリアを探した。
***
下水道通路で、そこに充満する生活排水の臭いをまとわせながら、これままさかせせらぎではあるまいかと嘲笑気味に、謎のマントの男ファントムは思った。彼はかつて暗殺集団ココルチェの最盛期に籍を置いた、謀略を専門とするファントムの称号を持ったその人であった。しかし、サリヴァンの歴史の伝聞を聞く限り、ファントムが、今もその同じ身姿でそこにいることは、摩訶不思議というほかなかった。怪人ファントムはタンゴを踊るような軽やかで楽しげなリズムで通路を進んでいた。そこに、何かを探すような素振りや未知への不安は一切ない。本当に、自宅の庭で遊ぶ子供のそれとまったく同じである。階段を降り、かどを曲がり、それを幾度となく繰り返すうち、人が寝転がっている通路に出た。その寝転がっている人とは、ココルチェの首領、リフォウの称号を持つトルターチ・アレックラスであった。
ファントムはトルターチの前で直立し、ただ彼を見下ろしていた。
トルターチはそれに気づいたのだが、もうそちらへと体を向ける余力は残っていなかった。最後の遺言でも残すかのように、その姿勢のままでゆっくりと口を開いた。
"すまないが通りすがりの人よ、煙草を一本くださらないか。最後に口寂しいまま逝くのは、あんまりに不憫だ。"
そう言われたファントムは、寝転がるトルターチの上半身を起し、壁に背もたれさせた。
トルターチはその顔を見て驚いた。
"おい、アンタ、ファントムか? ファントムの、クロフォード・シュルツか? まさかっ!? まさか、こんな形で会うとは! おお、少しだが生きる気力が湧いてきたぞ。"
トルターチは嬉しそうに言った。差し出された煙草を口にくわえると肩を寄せ合いながらファントムから火を借り、一服した。
"で、おおようファントムや。こんな死に体の男に一体全体何の用事があるってんだい。"
トルターチは残りの命をすべて燃やし尽くすかのように最後の気力で意地っ張りを見せながら、聞いた。
"私は貴方の持つ白狼の権利を譲渡して頂きたいと思い参上しました。"
"白狼の権利? ああ、白狼を使役するための紋章のことか。ファントムのアンタが、そんなもん手にして何するつもりなんだい?"
下水道の冷たさゆえか、トルターチの吐く息はすべて白く、さながら、彼の魂を口から少しずつ、放出しているかのようである。
そんなトルターチにファントムはきっぱりと言い切った。
"神に等しいサリヴァンの創造主と、戦争を起こすためだ。"
トルターチはその突拍子もない少年のような言い草に、あやうく煙草を落としそうになった。しかし、目の前のファントムがココルチェの称号を手にした信頼に足る男であり、そんな男が死に体の自分に子供騙しの戯言を言うとも思えなかったので、本気なのだと解釈した。すると、トルターチの腹の底から急に熱いものが込み上げてきた。
"はっ! いいねいいね! サリヴァンの神と戦争か! いいぜいいぜ、おもしろい……。気が変わった。このまま白狼でサリヴァンを食い潰すより、そっちの方がおもしろそうだ。依頼主には悪いが、最後なんだ、好きにさせてもらう。"
トルターチは煙草をくわえながら右手をファントムへと差し出した。ファントムがその拳の前へとしゃがみ込むと、何もなかった手の甲に、じわりじわりと文字のようなアザが浮かび上がった。これがおそらく、白狼を使役する権利を示す紋章とやらであろう。
ファントムはその上へと手をかざした。それは、大変に神聖な儀式のようでもあった。しかし、ここは生活排水で人間生活の汚濁をすべて凝縮したかのような酷い臭いのする場所である。しかしそれに対してファントムは、これこそが現代におけるせせらぎだったのかと、そう固く信じた。今このトルターチとファントムの間で行われている白狼の使役の権利を示す紋章の譲渡に満ち満ちている生活排水による酷い臭いとは、供物として捧げられた贄の放つ死の臭いなのである。その死によって儀式は一段と強い意味を持った神聖なものになるのだとしたら、今このサリヴァンのどこに死がある? マスプロ的に人の死が我々の身近にあふれ、かといってそれを見ることなく無関心を装い続けた結果、もはや死と命の意味すらも誰も答えられなくなった今、死はどこにある? ファントムは声高らかにこう叫ぶだろう。死はここにある! そこにもはや一切の嘲笑などなかった。この生活排水という極めて都会的な死の中でしか、ファントムとトルターチは神聖さを見いだせなかった。それは、変態嗜好的なフェチズムによるものではない。
トルターチの手からファントムの手へと、白狼を使役する権利を示す紋章は移った。
トルターチはすべての仕事を終えたのだと言わんばかりに、ゆっくりと体の力を抜いてゆく。
"ありがとう、リフォウ・トルターチ。最後になにか、言伝はありますか。"
ファントムが聞いた。
"何もねぇよ。何もねえ。俺は最後までやるべきことをやり切った。十分だ。もうそろそろ休ませてもらうよ。"
そう言うとトルターチは徐々に徐々に顔を落としていった。
"さらばだカーヴィン、さらばだ友よ。"
微かにそう呟くと、トルターチは息を引き取った。
ファントムはトルターチの亡骸の前からすっくと立ち上がると、一切の惑いもなくつかつかと歩き出した。人の臨終を目の当たりにしてこの行動は、彼が死に対して無関心を装っているかのように受け取られてしまうかもしれないが、そうではない。むしろ彼はココルチェの幹部としてあまりに多くの死に関わり過ぎていた。それゆえに、死に対してある独特のピカレスク様の哲学のようなものをつくり出していたのかもしれなかった。神聖な儀式における死の生活排水も、その一つといえよう。しかしそれが、人道的に法的に常識的に沿うているかと問われれば、かなり怪しくはあったのだが。何かへと一歩一歩せまるような足取りで、マントをはためかすと、右手の甲に白狼の紋章を浮かび上がらせた。そして、呟いた。
"白狼よ、人々を襲うのをお止めなさい。そして、我々ファントムと子供の指の城の護衛に力を貸しなさい。"
この瞬間以降、サリヴァンで白狼が人を食い殺すことは無くなった。
エドオルムが消失してからというもの、最執長室の辺りをうろうろしていた入崎・N・ジュアン、ナギレッタ・スィナリー、シャチューヌ・ポレの三人組は、生粋の道楽者がそろうパーティー会場のような混浴風呂で、指の皮がふやけて腐り落ちんかというぐらいまで、入り浸っていた。無論、下界の白狼の事件などどこ吹く風である。
ナギレッタは、25mプールを思わせる浴槽と呼べるのかもわからぬ風呂に浸かりながら、浴槽のへりに置いたフルーツの盛り合わせを食べていた。彼はもちろん一糸まとわぬ裸である。ここの道楽者達で、常識的な水着を着るというものはほとんどなく、あろうことか気持ちが昂ってしまえば彼らの子息がいたとて遊びへと果ててしまうような性倫理を吐き捨てたような輩の集まりである。しかしこの巨大な混浴風呂の装飾はまさに金持ちの贅を尽くした金に物言わせたものであり、この不道徳極まる空間に一つの真理をバックボーンとして与えているかのようでもあった。それは、エドオルムという建物の物質がサリヴァンの人々に与えた絶望とも近しいものであった。それすなわち、何も無い、その根拠も論拠もない。だが、にもかかわらずそれは有り、我々に襲いかかってきている、というこてである。しかしそれが、こんな道楽者達の裸の遊戯であるならば、そんなサリヴァンも浮かばれないであろう。
ナギレッタの視線のかなり先で、一人の50代であろうかという頭頂の禿げた太鼓腹の男が、
"はいっ! ショーをします!"
と、突然騒ぎ出した。その威勢のいい喋りと弾け飛ぶ汗と贅肉で、怖いもの見たさにちらほらと人が集まり出した。そして、20人に届くかどうかというところでわ太鼓腹の男が言った。
"はいっ! お客様も集まったところで、今宵私がお見せするショーは……。縊死者のショーでございます。皆様どうか最後まで見てやってください! それでは!"
すると太鼓腹の男はしんと静まり息を整えたかと思うと演技を始めた。彼は何かを思い詰めたようにうつむいて沈黙したまま立ち尽くしていたかと思うと、観客にちらと柔和な顔を見せ、そのまま天を仰いだ。すると次の瞬間、唐突に男は両手の握り拳を首に強く押しつけると暴れ出した。左右へと激しく体を振ったかと思うと、飛び跳ねたり半端に回転してみせたりした。そして、その動きが頂点に達しようとして、次は何が起きるのか、観客が固唾を飲んで見入っていた時、男は脱糞した。そして、小便も撒き散らした。縊死ショーとやらを行いながら大小便をしたので四方八方にそれは撒き散らされる。観客はその様を見て最初は黙り込んでいたが、次第に興奮していき、いつしか皆が喝采を浴びせた。そのただならぬ様子を見て、他の道楽者が様子を見にくると、その者も賞賛を浴びせた。こうして、集団の中央で暴れ回りながら大小便を撒き散らす男と、それをとり囲み歓喜に打ちひしがれる人々という、異様な集団が出来上がった。
"ねえ、あれ、気色悪いでしょう。すごいわね、金が集まるということがノヴレス・オヴリージュと等号しないということも、あるのかしら。いやむしろ、高貴だからああでもしないとやってられないのかしら。ねえ、ナギレッタはどう思う?"
ナギレッタがのぼせ気味で件の騒ぎを遠くから見ていたら、彼の前に全裸の入崎が仁王立ちしていた。彼女の身体はせり出すところはこれでもかとせり出し、引っこむべきところは滑らかに引っこみ、女という女をむき出しにしていた。その女に反応した幾人かの道楽者の男が興奮してしまい、彼女の近づくか近づかないかというとこれで、もじもじとしていた。
ナギレッタは湯でのぼせたのと目前の入崎への渇望で頭がおかしくなりそうであった。
"これがサリヴァン、いいえ、ここがサリヴァンよ。餓鬼のように、生と快楽だけを食い尽くさんと貪欲に動き続ける肉、そしてそれこそが真理を信じて疑わない肉、それが人間よ。それに何の意味があるというの?"
入崎は微笑みながら湯船に浸かるナギレッタへとひざをついて頬を撫でたが、ナギレッタは入崎の局部にしか意識はなかった。この乱痴気騒ぎにいるすべての人間に言えたことだが、ここには自らの生の意味を見失った人間達しかいなかった。つまり、あのキュピレスト・ガーデンの夜会で、めでたく死を迎えることができなかった人間が、生きる意味に無目的になり、その果てにかような乱痴気騒ぎでしか成り立たなくなってしまった末路の人間達である。おそらくそんな自身の状態を入崎やナギレッタも含めたすべてのこの場の人々は、自認できなかったのであろう。それは、なぜこんな裸の狂宴にいそしんでいるかという理由が、もはや何もできずお手上げの白旗を掲げた降参状態であるということの無意識的な現れととることもできた。であるとするならば、この場でそれがこのサリヴァンが滅ぶまでいつまで続くかはわからぬが、いくら快楽を享受したとて、そこには何もない、白旗の、降参しかなく、見方によってはあまりにも悲しく寂しいものであった。
"もしサリヴァンの全土がこんな状態であるならば、サリヴァンは滅ぶべくして滅びるでしょう。まあこの人間達のまっこと醜いこと! あと三ヶ月だわ。あと三ヶ月で、サリヴァンに審判の日が来る。そして、サリヴァンはきっと滅びる!"
入崎は裸で自信満々に、そう叫んだ。しかし、その彼女が語る滅びとやらに、自身のことが勘定に入れられているかどうかは計りかねた。少なくとも、自分は周りの醜い人々とは異なる、一等特別な最後は迎えられるだろうという、漠然とした驕りだけはあった。しかし、彼女もこの乱痴気騒ぎに違和感なく溶け込んでしまっているならば、彼女の最後もまた、知れたものであろう。
入崎の背後から駆け寄ってくる少女があった。それは、少女シャチューヌ・ポレであった。
"ねえねえ! あそこの人集り、何してるの〜!"
"あら、シャチューヌ。どうやら、糞便を撒き散らしているそうよ。"
入崎からそれを聞くと、シャチューヌは目を輝かせてそちらの方へと駆けて行った。




