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未完結「A-レクトル」  作者: 牝牡蠣
アシュラ-レクトル
16/62

二章⑦

***


 ディオはエドウに導かれるがままに、彼の宿泊室へと向かった。そこには、白いドレスに身を包んだパルが、ソファーの上に寝転んでいた。

"へえっ!! ウソッ! ヤダディオさんっ!!? なんでこんなとこに!?"

 その醜態を見られて顔を赤らめたパルが、エドウを睨みつけた。

 エドウは意地が悪そうに微笑んでいた。

 その一光景はディオの心を幾分か解放させた。

 エドウからの話を聞くと、彼らは密売されるアシュラを追ってこの夜会に入り込んだそうであった。ここまで来てしまえば、秘密も何も意味がないと思い、自分とイシエとアラヤマとの経緯を洗いざらい話した。

 ところどころで話を聞いていたパルが年相応の性に対する気恥ずかしさや苛立ちを見せた。

 エドウはただ、黙って話を聞いていた。そして、少しばかり思案した後に口を開いた。

"俺達が調べたところによると、どうやらこの夜会でアシュラがやりとりされる、というところまでは知っていたが、それは本当は三派閥が使うためというのは驚いた。ディオさんの話によると、三派閥とアシュラの関係に嫌気がしたアラヤマコトマが、ココルチェの力を借りて、三派閥を潰そうとしていると。でも、それを密告者が書き換えて、アラヤマコトマがココルチェとの密売をしようとしているとデマを流している……。ということでしょうか?"

 エドウはひとしきり喋り終えると椅子の背もたれに身を預けた。

 ディオは顔を俯けながら締め切られた室内で停滞してしまった事態を全身で感じているのであった。今のディオは、イシエへの関心も、ディオにそれを馳せさせていたアラヤマも失い、何もすることなく、途方に暮れているのであった。しかしそれは、鬱々とした負の観念に塗れたものではない、楽観的なものであった。彼はイシエとアラヤマを下位に落とし込んだのであった。

 そんなディオにエドウが、

"ディオさん、これから貴方はどうしますか? 正直、今の段階では、三派閥であれ、ココルチェであれ、逮捕して落とせるだけの物証がない。聴取したところでだんまりと金とコネで済ませられるだろう。そもそも、三派閥はサリヴァンの執政体だというのにそれを逮捕せんと今俺達は動いているとするならば、かなりの無茶をしている。だから、三派閥がアシュラを使う瞬間を狙わないと、こちらに勝ち目はない。"

 ディオは、エドウの言勢を受けて、今までの私情に近しい姿を徐々にトッケイとしての姿に戻していった。

"エドウさん。僕はそもそも、この夜会の趣旨がわからない。三派閥がアシュラを服用するための夜会、ココルチェとアラヤマがその三派閥を屠る場としての夜会。そして、そんな彼らや僕達をシャットアウトすることなく、すべてを受け入れている夜会。この空間はあまりにも混沌として荒唐無稽だ。これから先、夜会がどう転がっていくか、僕は正直分からないんだ。その中で、イシエさんがどうなっていくかも。"

 ディオはそう、冷淡に言ってみせた。

"まあ、俺達はひとまずトッケイとして、アシュラの捜査に専念した方がいい。ココルチェという連中がアシュラと絡んでいなければ、深追いする必要はないでしょう。それは、アラヤマに関しても、イシエさんに関しても。そもそも、ココルチェが戦闘のプロフェッショナルならば、こちらには部が悪すぎる。できたらあまり出てきて欲しくないものだが……。"

 エドウは場を総括するような前向きな声音で言うと、椅子から体を解放した。しかし、第一の関係者であったアラヤマコトマの身柄をトッケイの特例措置とやらで抑えなかったのは、エドウの手ぬかりであろうか。彼の捜査の主心とは、アシュラに辿り着くのみで、警察犬よろしいものであった。アシュラの匂いがしなければ、アラヤマコトマなどかまうに値しない人物ということである。先程までの重々しさはどこか和らいだ。

"ねえ、エドウ、アイスが食べたい。電話で頼んでいい?"

 エドウの気の緩みを察知してか、猫撫で声でパルが言った。

"今朝も食べたじゃないか。"

 エドウがそう言うと、

"何よ、ケチ。自由のハクダツだわ。ショーケよ、ショーケ。"

 パルはふいっと、そっぽを向いてソファの上で寝返りをうった。



***


 アラヤマが連れてこられた一室は、古びてもう使えなくなったワインセラーであった。そこに設けられた小さな豆電球はかろうじて部屋の全貌を照らしていた。アラヤマは迷路のように欠損した棚の並ぶ部屋の隅へと追いやられ、壁へと叩きつけられた。壁を背に崩れ落ちたアラヤマが見上げると、そこには十個の警備員の目があった。アラヤマはその警備員に全身を打ちつけられていく最中、脳裏には一度たりとも目を合わすこともなかったイシエの姿を思い出していた。彼女の痴呆化はかなり深刻であった。彼女の体がタケバツにどこまでいじられてしまったか、アラヤマにはわかりかねた。だが、その様子を見たディオの姿から察するに、彼が酷く落胆していることすなわち最近のイシエから見ても痴呆は深刻であるということはわかっていた。アラヤマはディオに今一度会わなければならない。それは、今のディオならば、カイゼヨウとしてアシカジョウホロノミを捨てたように、イシエを見捨てかねない、そう考えたからであった。アラヤマはディオの生い立ちを少しばかりは知り得ていた。彼が過去生の人間だということは驚くべきことであったが、アシュラ患者のような怪人が徘徊するこのサリヴァンにおいては、それすらも陳腐に映ってしまうのだろう。ただそういった、生者か死者かもわからぬ怪しき者にイシエの命を預けることに一抹の不安がないわけではなかったが、そういった者だからこそ、揺るぎない何かを持っているのではないかとも、アラヤマは考えて、ディオにイシエを託そうと決めたのであった。しかし、ディオは今確実に、同じ過ちを犯そうとしていた。アラヤマは、その同じ過ち、言えば、ディオすなわちカイゼヨウがサリヴァンの歴史の上で犯した過ちを正すことが、今の自分が対三派閥としてできる、最善なのではないか、そう考えていた。それは、彼が憎む三派閥という存在がいうなれば歴史のうねりの中で生じたものであり、その歴史の一過的であるディオつまりカイゼヨウジョウサイを変えることができれば、現世にもなんらかの変化が及ぶのではないか、ということであるらしい。ディオにそれほどの期待を託すことができたのも、ディオが生者でも死者でもない、怪しき、揺るぎないなにかを持っているからであろう。彼の存在は、身体はどれだけ腑抜けていようと、ある種の象徴の、鋭敏さを備えていたのである。もしかしたらそれが、ジョウザンシステムの本質であるのかもしれない、アラヤマは乱打によってマヒしだした痛覚の上で、そう感じた。

 乱打の雨が止み、アラヤマの湿っぽい不均等な息遣いのみが暗闇に響いた。その息遣いと調和するかのように、軽々しいハイヒールの音が交わった。

"タケバツ君に呼ばれて来てみたら、なんかみんなで楽しそうなことしてるじゃないのぉ。あいつも気がきくじゃない、うすのろだけど。"

 その音の主は少女シャチューヌであった。彼女はアラヤマの手の甲をその小さなハイヒールで踏みつけた。ヒールはアラヤマの手の骨と骨の間に突き刺さった。暗闇の中であっても、その白く美しい太腿は輝きを放っていた。

"ちょうど女の子と遊ぶのも飽きていたころだったんだよぉ。ねえ、お兄さん。ボクがお兄さんと遊んであげるよ。だから、そんな簡単に死んじゃダメだよぉ。"

 そう言うとシャチューヌは、アラヤマの額の打傷にその淡いピンク色の唇を触れさせ、血を啜った。体勢を前のめりにしたためにアラヤマの手に刺さっていたヒールが貫通した。



***


 ディオはアラヤマとの小競り合いの一件から、エドウ達と共にココルチェの監視を始めた。エドウから5枚ほどの顔写真を渡されたディオは、その一人一人を頭に叩き込んだ。ココルチェ首領トルターチ・アレックラス、四幹部"殺戮のゾーラ"こと、バルコミュール・ゾーラネス、その他、三人の鋭兵である。しかし、もともとこの夜会にイシエの救出という熱情のみで入り込んでいたディオは、その目的を見失った今、何をする気も不完全なのであった。ディオは、給仕係から、夜会を捜査するトッケイの一員へと役職を変え、屋敷内を彷徨した。

 廊下は朝焼けに照らされていた。

 貴婦人達の着るドレスは、その持ち主の醜悪さを覆い隠すかのようにきらきらと眩しい陽光を反射させている。そんな輩はディオの横を何人と通り過ぎながら、大気中に細かな繊維屑を舞い上げていた。普段のディオならば、たとえ気にしたとしても、今、自身が為すべきことの前に一蹴することができたが、今の彼にはそれができなかった。為すべきこともわからぬ今こそ、矮小な瑣事にさえ、過敏に反応してしまうのである。今のそんなディオに大勢の体細胞の集合によって形成された人の顔を判別することは無茶であった。彼は屋敷の中をただただ人の動きからの空気の流れに乗って回り続けた。彼は空気とまったく同質の密度だったのである。しかし、彼の体は、その若さと血に溢れた体は確かにそこにあった。空気がうねり、飛ばされんとすると、彼の体はしっかと床を踏みしめ、歩を進めた。彼は体だけ見ればいたって正常である。ディオの精神は無目的のまま、肉体のみが動き、その時間を享受し続けた。

 気づけば陽はもう暮れていた。それは恐るべき無の時間であった。



 ディオは一瞬で自らの過去生へと意識を飛ばした。それは、カイゼヨウとしての晩年の月日である。暴走し、烏合の衆のようにおかしくなってゆく組織、もはや、リーダー一人の意識ではその熱狂を止められぬ段階まで達していたそれを、カイゼヨウは捨てた。それはすなわち、そこに最も愛しいを捨てることと同義であった。それはもちろん彼の良心に呵責を生んだが、それ以上に革命的な合理という妄言が彼を支配していた。その時の彼にとって捨て駒としての愛しい人アシカジョウホロノミ彼女の意義とは脱退する自分にその熱狂が及ばぬように残したいわばくさびなのである。その組織には自分と彼女の二人のくさびを必要としていた。そして彼の想像通り、熱狂のみで動いていた組織は敵の策略にまんまと嵌り、無惨な最後を迎えた。カイゼヨウはそれを隠れ家で聞いていたが、仲間の死を悔やむ半面、どこか一人勝ち誇った気がしないわけでもなかった。今、自分がここで生きていられるのは、ある種の先見の明があったからだ。彼らの血をむげにせず、新たな活動に邁進せねばなるまいと。しかし、集団が彼に求めたものは、カリスマ性、もっといえばヒノマルの力という象徴であり、ただの血統から担ぎ出されただけで彼自身の才覚いかんではなかったのだということを、カイゼヨウ本人は知るよしもない。そして最も愛したその人がテレビジョンの中で薄汚れたヨレヨレの服を着て、ふらふらと壁の前に立たされて、銃殺刑に処される場面を見た。それは自分達の革命が終わり、すべてが無意味だったと告げるには十分すぎる衝撃を持って、彼の前に現れた。その時彼は、一人組織を捨て、真の革命のために生きんとしたその言い訳にも等しい志というものが完膚無きまでに叩き潰される音を聞いた。彼の中のすべての価値観が崩壊してゆく。そしてもはや、愛していた女性を本当に愛していたかどうかさえ分からなくなった。彼はあらゆる目的と意義を失い、彷徨の日々に入った。その革命のために鍛え上げてきた肉体は所有意識を失い、無軌道な暴力に明け暮れた。その時分、ココルチェに流れ着き狼の面を被り自らの空虚を埋めるようにデュオウルフという名を使いながら、機械的に暗殺業に明け暮れた。日が昇れば地下世界の舞台で強者をなぶり殺すショーをし、日が落ちれば暗殺業をこなす日々であった。それがどの程度続いたか、彼自身にも分からない。なにぶん、自分がいつ、なぜ死んだかも分からぬほどに彼は呆けていたのである。

 カイゼヨウこと、ディオにとって今のイシエを失った状態はまさにそれに近しいものであった。彼はまた、同じ過ちを繰り返さんとしているのである。それはもしかしたら彼の性質といえたのかもしれない。永遠に続く、停滞した、閉塞された時間である。屋敷を彷徨したディオの顔に窓から入り込んだ斜陽が当たった。彼は早朝から夕刻まで、本館の廊下をただただ歩き続けただけであった。無論、その間にディオが行うべき捜査など行ってはいなかった。

 ディオが永久のまどろみの中を彷徨っていると、

"おい"

 と、どこからか甲高い少女の声が聞こえた。そして、その声の主はディオの腕をグイと引っ張った。

 ディオはその勢いで声の主の方を振り向いた。そこには左眼に眼帯をつけた少女シャチューヌがいた。

"僕のことを覚えているかい。僕は覚えているよ。君のこと。ずいぶんと可愛がってくれたよねぇ。それにしても、こんな所で会えるなんて驚きさぁ。せっかくだから少しばかり、僕に付き合ってくれるかいぃぃぃぃ。"

 その声には、花のような可憐で装いつつも、隠しきれることのない憎しみと服従のために女帝を思わせるように放たれる威丈高さが見受けられた。その少女の容姿を持ったシャチューヌのこのような言動は異常なのであった。そしてそれに対面した人々は尻込みをし、彼女との関係を受動的対応することになるのである。しかし、今のディオは彼女に尻込みすることはなかった。それは彼が人でもなんでもなかったからである。ディオはそのまま少女シャチューヌに誘われるがままに、閉鎖されて停滞の廊下から脱したのであった。


 イシエは、そろそろ夜会の終幕の午前0時に向かって最大の山場を迎えんとする午後6時頃に、一人、お立ち台の上に備えられた光も差し入ぬ真っ黒い部屋にいた。その部屋の台の上の端に置かれたろうそくによって台上のイシエがかろうじて照らされていた。そのために、そこの広さは、音の反射でしかそのスケールを知るしかなかった。しかしその音も、ある程度の生活音なぞは闇に吸収されてしまうのである。イシエは、ディオとの一悶着の後、タケバツになだめられ、なかば強引にこの部屋に押し込まれたのであった。この部屋でじっと、自身の最後の時を待っているのである。この真っ暗闇はありとあらゆる古今東西の残虐な行為を内包できるだけの奥行きがあった。白昼の下ではない、闇の中であればこそ、人々の身に刻まれるような鮮烈な血や断末魔の叫び、その殺されゆく肢体がつむぐ死へのイメージなどのすべては闇のベールに包み、一種のディナーショーへとパッケージングすることができるのである。その闇のベールは各個人の視覚、そして創造力を一時的に麻痺させ、完全なこの世界へと押し込めることで、目前の残虐性を無味無臭のただの現象の塊として見せるのである。イシエは暗闇の中で自身を強く抱いた。彼女の内には死への恐怖というものはなかったが、どこかに虚しさを感じてはいた。自身の素肌が異様に冷め切っていることに気づいた。外気なども入ることのない閉め切られた部屋の空気が、彼女の体温を奪ったのである。この時彼女は始めて、自身の現象、体温というものに意識が向いた。それは彼女にとって、恐るべき目醒めであった。イシエは今の今まで、自分が血の通わぬ人形であるということに、始めて気づいたのである。それは、彼女が一切の闇の中で、絶対なる父タケバツからの反応として彼女の行うすべての現象が返ってくることがなく、その空っぽな身体に響いたということである。タケバツとの間のイシエは父からの行為をただただ一身に受け、それに溺れていたのであった。彼女は空っぽの心を埋めんと、一人涙をこぼした。それは驚くほど自然に、何の抵抗もなく出たのだが、彼女の身体がそこで満たされることはなかった。

 その真っ暗闇を引き裂くように凄まじいほどの光は室内に入り込み、イシエの全身を照らした。その急な変化に彼女の網膜は痛んだ。神々しい光を背に、室内に人間がぞろぞろと入り込んだ。その視線は台上のイシエから決して外れることはなかった。室内には一瞬で老体の加齢臭とないまぜになった酒の臭いが充満した。そして、その老体達は台の周りに置かれた椅子に腰かけていった。戸はゆっくりと閉められ、老体達の咳払いと痰を吐く音だけが暗闇に吸い込まれた。呆然とするイシエの横に何者かが近づいて来た。それは父タケバツであった。父タケバツは暗闇でも聞こえるよう、イシエの耳元に顔を近づけて、

"ミサキ。ああ、可愛いミサキ。さあ、舞台は整ったよ。どうかお父さん達のすべてを受け入れておくれ。"そう言った。

 その声は彼女の空っぽの身体に染み入るように響いた。彼女は迷うことなくゆっくりと頷いた。

 彼らは屋敷内の喧騒よりもよほど濃密で劇的なフィナーレをこの暗闇で迎えるのである。


 ディオは少女シャチューヌに連れられて騒々しい網膜が焼き付くような明るい屋敷内、廊下やダンスホール等を連れ回されていた。それは今のディオにとっては、少しばかり苦労の募るものであった。なぜなら、それらの音や明かりは、ダンスホールにいる人々に何かを強いるように降り注ぎ、それに便乗するように各個人のもまた何かをするのである。だが、今のディオには何もできることはなかった。強いられたてしても、それに身体を合わせて奇妙にくねらせるような真似しかできないであろう。この場では、それでよかったのかもしれないが、今のディオにはそれすらも気に乗らない。いくつものシャンデリアが発する明かりが、屋敷内を満たす軽やかな音楽が、八方から聞こえる紳士淑女の笑い声、酒を喉に通す音、すべてがディオの体に突き刺さった。これらの一突きはいかなる攻撃よりも、ディオを出口の見えぬ生の奈落へと突き落とすものであった。

 シャチューヌはそんなディオを、自らの憎悪のために引き回していたのである。彼女の歩く姿勢は、ディオをなぶり殺すその未来を内包していた。しかし、周りの客人から見ればそれは、少女が生気みなぎる青年に憧れを抱き、それを有り余る素直さで伝えんと奮闘しているようにしか映っていなかった。シャチューヌの秘めた思いは、そのような健康で爛々としたものではない。だが、彼女の少女性とディオの青年性というものの相互関係が、両者間に渦巻く感情のうねりというものを屈性させて見せていたのである。それは、このいやらしいほどに煌びやかで、酒の臭いと性的な体臭・香水が充満したこのダンスホールであったから、その実像を揺らます屈折作用が生まれてしまったのかもしれなかった。なぜなら、その様子を見た、下世話な酔っ払いの老体が二人に対してペドなどという言葉を吐いた。この老体は相当に酒に酔っているようであった。無論、それははなはだ見当違いなのであった。

 しかしながら、シャチューヌは、ディオを引き連れ、その老体の元へと歩み寄っていった。

 酔った勢いの言葉でまったく意思のなかった老体は、少しばかり戸惑った。老体の目前に立った少女シャチューヌは、連れているディオを後ろに、スカートをはためかせて小動物のように隠れてみせると、

"私達って、そんなに特別な仲に見える?"

 と、その照れ顔を少しばかりのぞかせながら悪戯に聞いた。彼女の胸元のドレスの隙間から、意図してか微かに胸の膨らみが見えた。

 それは老体に快い刺激を与えた。

"それはそれは。とても素晴らしいカップルでございますよ。今夜はとても、さぞかし激しいんでしょうな。"

 これは、あまりにも社会人が少女いや女性にかける言葉では、なかった。

 しかし少女シャチューヌはその言葉を嬉々として受け取った。シャチューヌは極端なマゾヒストだったからである。彼女にとってこの環境は喜ぶべきものであった。すべては、夜会という一種の幻燈が人々に見せたものである。


 シャチューヌがディオを連れてきた場所は、アラヤマがリンチを受けていた、薄暗いワインセラーであった。

 ディオはそのワインセラーに充満する冷やされて鋭くなった腐った木や酢えたワインの臭い中に血の臭いを確かに感じた。その時、彼は瞬時にタケバツに捕らえられたアラヤマのことを思ったが、耄碌しているディオの頭脳はそれ以上先のことを思考しようとは思わなかった。シャチューヌの後を忠犬のごとく付いていく。

 シャチューヌはワインセラーの奥へ奥へと、アラヤマのリンチされた場所へと向かっていく。

 前に進むたびにディオの鼻にねっとりとまとわりつくように血の臭いが強くなってくる。その中には、若々しい汗の臭いもあった。それはとても健康な汗であった。この臭いはきっと、処罰者が激しく体を動かした時に発生したものであろうと、推測した。ディオはあくまで冷静だった。

"あっ、そうそう。これはね、僕がさっきまで遊んでた奴ねぇ。"

 シャチューヌはワインセラーの奥に着くとそう言い、ディオを件のものの前に立たせた。

 それは、すきま風に揺れて鳴るカーテンのような弱々しい息吹をさせた肉塊であった。

 ディオは瞬発的にその肉塊の状態を測った。あらゆる四肢の筋繊維はあるべき部分と結合しておらず、その改造のためか、微細な伸縮による振動しかすることができなかった。そもそも、その肉片は本来あるべき下半身がどこかに吹き飛ばされていた。下腹部の断面から飛び出し折れた脊椎は透過の高い薄ピンク色の髄液を滲ませていた。その肉塊の正体はアラヤマであった。顔面がその原形を留めていないために、ディオはその肉塊がアラヤマだと認識するまでに、普段なら要らぬほどの時間を費やしてしまった。その肉塊たるアラヤマをただただ見下ろすばかりであった。今のディオにとってアラヤマは、関心に値する人物ではなく、ましてやその原形すら留めていなければ、接点すらも見出すことは出来なかった。肉塊アラヤマの弱々しい息吹はねっとりとした、湿っぽいものがあった。ディオはそれをわずらわしく感じていたら。

 微かに振動していた肉塊アラヤマは、その頭らしきものをゆっくりと上げた。その乾燥してこびりついている血の中から、二つの目がぎろりとディオを捉えた。それは、全身の自由がきかなくなったアラヤマができる、唯一の意思表示であった。

 しかし、ディオはその眼に何も感じることは出来なかった。

 足下に沈澱した生々しい空気を裂くように高いハイヒールの音が響いた。それは、少女カーヴィンの足音であった。彼女は、このシャチューヌの処刑場に覗きに来たのであった。

"調子はどうだい? シャチューヌ?"

 ワインセラーの影からひょいと姿を現したカーヴィンは、シャチューヌに近づいた。

"ああ、これから面白くなるんだよ。僕の美しい眼を奪ったこいつを、これから僕のイマジネーションが枯れるまで、あらゆる手でいじめてやらんと思っているのさ。そこに転がっている肉塊はね、まあいうなれば習作の一つさ。だいたいの方向性は見えているんだ。だいぶ楽しいことになるよ。"

 と、カーヴィンに自慢げに話した。

 カーヴィンは、そんなシャチューヌの習作と素材である、アラヤマとディオを見た。そして彼女は、

"すまないが、この二人を私に預けてはもらえないだろうか。君の怒りもわかるが、どうかここは私の顔に免じて許して欲しい。頼む。"

 と、唐突にシャチューヌに言い出し、彼女の手を握った。カーヴィンはその握手に絶対的な主従関係を示して見せた。

 さっきまでのシャチューヌの余裕は消え、背中の筋肉がこわばる。カーヴィンとの平等とも思われた友愛関係が一瞬で崩壊したのである。シャチューヌは激昂した。

"君はなんて卑怯な奴なんだぁっ! 君に言われて僕が逆らえないことを知っておきながらっ! 僕は君と等しい友達になれたと思っていたのにっ! こんなところで差をつけるなんてぇぇ。シルヴァンとアシカジョウの関係は死んでも崩せないんだぞ。僕は失望したよ、僕は失望したよぉぉぉ……。"

 そう言うと少女シャチューヌは、足を重たそうに引き摺りながら、自らの処刑場を後にしたのであった。

 この一連の動きをディオはまったく気にかけなかった。彼はただ、目の前の肉塊のアラヤマと目を合わせるばかりであった。

 しかしその間に分け入るようにカーヴィンが駆け込んで来て、肉塊のアラヤマを抱きかかえた。彼女はその細く白い華奢な腕で血を付けながら肉塊アラヤマの容態を見た。何かを判断したカーヴィンは、右手で二、三度自分の唇をこすった。すると、白い粉のようなものがはがれ落ちた。それは、劇薬アシュラであった。それを、顔かも分からぬほど変形したアラヤマの唇へと押し付け、そして口の中へと入れた。カーヴィンの指が赤黒い肉塊の口腔へとまんべんなく塗り広げている。すると、今まで生きているのかさえおぼつかなかった肉塊のアラヤマが少しばかり息を吹き返した。劇薬アシュラが傷害によって断裂されていた生命機能をかろうじてつなぎ止めたのであった。カーヴィンはアラヤマを優しく抱きしめるとこう告げた。

"君の命は、魂は、意志は、絶対に無駄なんかじゃない。私が無駄になんかさせない。だから、どうか私を見続けて欲しい…。"

 カーヴィンの頬に涙がつたった。



***


「おい」

 カーヴィンはディオに叫ぶと、ディオの足元へと何かを投げ込んだ。それは、白狼の仮面であった。

"その仮面はね、ココルチェという暗殺集団が兵士に被らせていたそうだよ。どうだい。懐かしいだろう。君もこれを被って大暴れしたんだろう。そして、アシカジョウを捨てたんだろう。だったら、もう一度この画面を付けて、イシエミサキのことを捨てればいい。昔のようにやればいいじゃないか。そしてもう一度私を絶望させろ。そんなお前の脳天を私が木っ端微塵にしてくれる。"

 カーヴィンの表情はみるみるうちに憎悪に染まっていった。それは、親の仇を目前にした子のような、一方向へと強烈に貫かれる憎悪であった。そして彼女は暗がりの中で何かを掲げた。それは金のジョウザンシステムっあった。

"ジョウザンシステム、始動。"

 カーヴィンのかけ声と共にまばゆい光が彼女を全く別の存在へと変態させた。

 この間にディオは、カーヴィンの光の繭にまったく反応を示さなかった。しかし、トッケイならば、自分達の知らないジョウザンシステムの存在にまず注意を向けるべきであった。

 光の繭は裂け、中から一人の女性が出てきた。

 ディオはそれを見て、打ち砕かれるような衝撃を覚えた。なぜなら、その女性とは、ディオ、すなわちカイゼヨウの愛した女性、アシカジョウホロノミその人であった。彼女は下着の上に直に背広とスマートパンツを着て、そのセミロングの橙色の髪を後ろで束ねており、とても雄々しい佇まいであった。それこそが、まさに最盛期のクレナイチョウを支える柱となっていたことに、疑いの余地はない。しかし、無惨な最後を迎えた彼女にとっては、雄々しさなど道化のような笑い物でしかない。

 ディオは過去へと逆行してゆくように、空虚の状態から、アシカジョウの処刑の精神状態を体感したのである。彼はアシカジョウと目を合わせてしまった。今まで完全に停止していた神経と血流が、急激に活発になり、彼の体をいたずらに震わした。

 アシカジョウは崩れ落ち絶望したディオに向かって、

"どうしたの? カイゼヨウ。私のことなど忘れてしまったの? 私ですよ、ホロノミです。"

 と言って、ハイヒールをかつんと鳴らした。それは、殺人的な鋭さのこもった、ディオの身を引き裂く音である。ディオことカイゼヨウを奈落の底に落とした、無味な画面上の処刑の音である。彼は身を縮こませ、耳を塞いだ。自らのために死んだアシカジョウのその生気に溢れた肉体が、彼の内に残る無惨な処刑のイメージを永久に回帰させているように思えた。それはディオが、無惨に死んだはずのアシカジョウの認識と、今目の前にいる若々しい肉体のアシカジョウの認識との、瞬間の否定とそれを打ち負かす揺るがしえない現実とのはざまでかんじたものである。


"ジョウサイ、どうしたの。貴方は私を裏切ったのでしょう。なぜそんなに苦しそうな顔をするの。貴方には、その仮面があるじゃないの。その仮面を被ってしまいなさいな。すべてを覆い隠してしまいなさいな。そうすれば、私は心置きなく貴方を殺すことができるわ。"

 アシカジョウは力強く歩を踏んだ。そこには、自身に決断を強いるような覚悟を思わせる響きがあった。彼女はディオに近づく度に、その女性的な心というものを一つずつ殺してゆく。

"さあ、どうしたの、ジョウサイ。その仮面を被りなさい。その素面で抜けしゃあしゃあと道化よろしく生きた姿を私に見せて。でなければ、私の気持ちは晴れないでしょう?"

 今のアシカジョウを動かすものはカイゼヨウへの憤り以外は何もなかった。彼女は、自分を捨てた、自分を愛さなかったカイゼヨウの象徴として、狼面をつけたカイゼヨウジョウサイすなわちデュオウルフを殺さんと考えていたのである。今の彼女であれば、すぐにでもディオの命を絶つことは造作もないことであろう。だが、彼女はカイゼヨウへの復讐を陳腐なものにする気はなかった。そのために復讐をする相手をカイゼヨウでもディオでも無く、自分を裏切った末に生まれたデュオウルフにこだわるのであった。しかしこれは言うなれば、彼女の中でしか成立し得ない理由であり、側から見ればただの言い訳としか映らないであろう。しかし、その言い訳こそが、今のアシカジョウの存在を絶対のものにしていたのであった。

 ディオはそんなアシカジョウの命令のままに、恐る恐る狼面をのぞいているのであった。その仮面を被ることを拒んでいた。それは、彼自身がここで狼面をつけることがなんの解決にもならないどころか、むしろ悪い方向へと行くであろうと考えていたからである。今の今まで無能であったディオが、ここまで思考ができるようになったのは、アシカジョウの登場があったからであろう。彼の被虐を支えてきた根幹の存在が、今、手に触れることのできる次元に降りてきたからである。今の彼には、おとなしく狼面をつけて、アシカジョウに殺されるか、目前の彼女と戦うかの二択が迫られていた。

"さあ、早くその面をつけろカイゼヨウ。"

 この間にアシカジョウは殺意を発しながら、ディオに近づいてきた。

 ディオの体内の神経と血流に使う電流は、その皮膚を突き破りかねない勢いである。もはやこの状況では思考などてんで役に立たない、自分の反射能を信じよう、とディオは冷静に脈拍を鎮めた。すると、アラヤマの息吹の中に精一杯を込めて、

"ミサキを、イシエミサキを。"

 かすれた声音が聞こえた。

 ディオは瞬時に、持っていた狼面をアシカジョウの眼前に投げつける。そして、真後ろに飛び退き、アラヤマを抱えると、暗闇へと駆け入った。彼のその脚には寸分の迷いもなかった。彼は全ての葛藤と苦悶を一時的に放棄し、今まさに死なんとする生者であるイシエのためにその身を尽くすことを決心したのである。

"待って! ジョウサイ! また私を捨てるのかっ! 貴方は私をどれだけ苦しめるんだぁっ!"

 そう叫んだアシカジョウは懐に隠していた拳銃を空に発砲しながら、ディオの後を追った。

"後生だから、後生だから! 私に殺されてくださいカイゼヨウ。でなければ、私の気がすまないっ!"

 ディオはアシカジョウの視界からあっという間に消え失せた。アシカジョウはディオに逃げ切られたことを悟ると、力無くその場にへたりこんだ。

"ジョウサイは私を捨てた。カイゼヨウは私を捨てた。私は彼から永遠に逃れられぬというのに、カイゼヨウは私を捨てた。憎い、憎い、許せない。"

 彼女は嗚咽を交えながらカイゼヨウへの憎しみを顔を真っ青にしながらただただ泣くことでしか昇華できなかった。その声は、様々な体液の臭いが混じり合ったこの空間の腐った酒樽に寂しく響くばかりであった。



***


 ディオは上半身のみのアラヤマを抱きかかえながら、屋敷の中を駆けた。この移動はアラヤマが念仏のように口ずさむ目的地すなわちイシエの居場所を目指しての行動であった。しかし、そのアラヤマの命ももうじき尽きようとしていた。イシエの居場所を伝えたアラヤマには静かに臨終を迎えさせてやるべきであったのかもしれぬが、ディオは決して彼を置いていこうとはしなかった。今のディオはアラヤマの純粋な思いを受けて動いていたのである。

 夜会は終幕に向けて、皆殺気とも思えるような激しさで騒いでいた。中にはあまりの興奮に卒倒している者もいた。そんな群衆の中では上半身だけのアラヤマですら、埋もれて目立たなかった。それは、ディオにとってはかえって好都合だった。当然の雑念で狂った動きをする人物ほど予測を手こずらせる者はいないからである。ディオは戦士としての思考や感覚を完全に取り戻していた。今の彼には、この屋敷にいる人々の息遣いから、その者が敵になりうるかどうかすらもわかるほどである。しかしそれが、暗殺集団であるココルチェに適応するかどうかは甚だ不明である。現時点では屋敷の中でまだそういった大量虐殺は起きてはいないようであった。ディオの鋭い健脚は疾風のごとく人波を抜ける。しかしながら、やはり今のディオにとってイシエという存在はあまり重要ではなかった。彼は瞬発的なアシカジョウからの逃げ口上としてイシエの救出を使ったに過ぎなかったのである。それでもなお、彼がイシエの救出に自身の被虐性質を打ち破るだけの意志を伴わせることができたのは、アラヤマの純粋な情熱があってこそのものであった。しかしそのアラヤマも、今まさにディオの腕の中で命尽きんとしていた。もし、今ここでアラヤマが息絶えてしまえば、ディオは先ほどまでの腑抜けに戻ってしまうやもしれない。それは、ただ一人躁状態にあったディオには、些事なのであった。

"ディオ、ディオ、少しばかり俺の話を聞いて欲しい。"

 アラヤマがその気力のみで言葉を発した。

 ディオはその場に立ち止まり、胸のアラヤマの顔を覗き込んだ。その顔は実に静謐としたものがあった。血を失った唇が微かに動く。

"お前からミサキに伝えて欲しいことがある。赤ん坊の墓に、コトミの墓に会って欲しいと伝えてくれ。なるべく俺の名は出すな。俺のことはもういい。俺はコトミに今一度改めて母親と会うチャンスを与えたいんだ。0時の鐘でココルチェが動く。その前にミサキを助けてくれ。"

 それは、死後の筋肉痙攣で起きた唇の震えだったかもしれない。しなしディオはその中から、アラヤマの意志を読み取った。時刻はじきに0時を迎えようとしていた。ディオは道の端にアラヤマの上半身をそっと置くと、イシエの下に急いだ。



***


 トルターチは、キュピレスト・ガーデンから少しばかり離れた、閑散とした茂みの中で最後の一服をふかしていた。茂みの中に隠れる5tトラックの中には白狼が三体ほど眠っている。彼らを放てば夜会は一瞬にして惨劇の様相を得るだろう。しかしトルターチはそれに対して無用な思い込みをすることはなかった。彼にとって、対人での依頼というものは至極当然のものであって、そこにビジネス以上の思い入れはなかったのである。それは、皆勤な本屋の親父が本棚の書物の入れ替えをすることとまったく同じであった。彼は全身を隈なく、煙草で満たした。彼はこれを仕事前にすることによって、これから行う行為への覚悟と割り切りを決めるのである。

"よぉし、開けろ。"

 トルターチの冷え切ったかけ声を受けて、兵士二人がトラックの貨物部を開けた。

 そこには、三体の白狼が身を寄せ合って眠っていた。

 中をのぞいたトルターチが、

"出ろ。"

 と、言葉を発した。その言葉を受けて、ゆっくりと身を起こして貨物部なら降りてくる姿は忠犬のようである。

 トルターチは、周りに集まった白狼達に煙草の煙を浴びせた。そもそもこの戦闘前に煙草をふかす習慣は、ココルチェが大昔からやっていた、緊張を解くために、乾燥させた大麻を煮立たせて作る水溶液を麻袋に染み込ませて炙って吸うというならわしを拝借したものであった。彼はあくまで、ココルチェとしての誇りを忘れぬ男である。これから殺人を行うというのに、それを遂行する当の本人達はいたって冷静であった。辺りにはややもすると茂みの葉の燻しの香と間違えてしまうような煙草の臭いが漂っていた。それは、夜会会場の酒と加齢臭の前に侵入を阻まれているのである。しかし、この臭いはあと数分もすれば死肉の生々しい臭いを殺すための線香のような役割を持て、そこを満たすのであろう。この煙草の臭いは、自身が決して狩られる側ではない、死肉を見届ける狩る側であるという意思表示の意もこもっていたのかもしれない。

"よし、行こう。"

 トルターチが軽く口笛を吹かすと、白狼が一斉に夜会会場へと降って行った。



 



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