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未完結「A-レクトル」  作者: 牝牡蠣
アシュラ-レクトル
15/62

二章⑥



***


 キュピレスト・ガーデンの談話室には、忙しく走り回る給仕達の間を優艶な足取りで抜けていく夜会参加者の姿があり、そんな給仕達の慌ただしい叫び声と夜会参加者の笑い声が響いていた。

 そんな夜会参加者の中に入崎・N・ジュアンの姿もあった。彼女はドレスではなく、裾の広がった黒いズボンとジャケットに胸元には白いコサージュをつけていた。女らしい格好を嫌っていたのである。そんな入崎は夜会参加者の貴婦人とは、やはり扱われ方が異なっており、女性でありながら、あくまで男性としての立ち振る舞いをしていた。それは彼女の生き様とどこか似通っていたのかもしれない。そんな彼女に夜会参加者の脂まみれの紳士達はしどろもどろし、酷く肥えた淑女は若き頃の妄想にも近しい自分の姿を重ねて見ていた。だが、夜会参加者にとって最執部の手駒である入崎は三派閥の優位性を奪う憎むべき相手かもしれない。それでもなお、彼女の麗人としての立ち振る舞いは、人々から憎心を払い去るような、高潔な清さを感じさせるのである。

 そんな彼女に集っていた数人の男を押し退けて、一人の男が近づいてきた。それはココルチェの首領であるトルターチ・アレックラスであった。トルターチは入崎に声をかけた。

"やあ、入崎。久しいね。君の美しさはやはり、その逸脱した両性偶有にありそうだね。"

トルターチは勇ましげに微笑んでいた。その姿に今までは彼女の周りにいた紳士もいそいそと談話室の端の自分のパートナーの下へと戻っていく。それは、雄としての格の違いを見せつけられしぶしぶと退散してゆく野生動物のようでもあった。

 そんな様子を見るなり入崎は、手近の椅子に腰を下ろすと、給仕にシャンパンを持ってくるように言いつけた。彼女は自身の色香でトルターチをひざまずかせようとしたのかもしれないが、彼はそれほど簡単に落ちるタマではなかった。

 入崎と向き合う形で席に着いたトルターチはさらに喋り続ける。

"君がヴィアクトーとしてココルチェにいた時は、最盛期だったんだ。俺はその輝きを今一度、取り戻したいんだ、味わいたいんだ。……。どうだ、入崎。もう一度、俺の元に戻ってきてくれないか?"

 トルターチはその言葉とは裏腹にどこか遠くを見つめるような目線で入崎にそう言った。

 二人の間には決して、錆びついた鎖のように強迫観念のように関係を持たせようというものは無かった。それはむしろ、懐古趣味に塗れた旧友との晩酌のような哀愁を漂わせていた。二人の間の机に給仕が持ってきたシャンパンが置かれた。

 トルターチが無言でそれを注ぎ、入崎の前に差し出した。室内が大変明るく豪奢であったためか、陽が落ちつつある外の景色はどこか寂しげである。

"ねえ、トルターチさん。私達はもう、貴方と組む気はないわ。貴方達はヴィアクトーに愛想をつかされたのでしょう。"

 ヴィアクトーとは、ココルチェの主要幹部に与えられる四称号の一つである。しかし、ココルチェは今現在、トルターチの持つ称号リィフォウとゾーラの持つ称号ブラディ以外の、ファントムとヴィアクトーの称号を欠いていた。それは、ヴィアクトーの称号を持つ者がNBSと共に秘薬ヒノマルを求め、この地に渡航してしまったからである。そして、どのような故あってか分からぬが、ヴィアクトーの称号は現在、入崎・N・ジュアンが持っていたのであった。そのためトルターチは、入崎をココルチェに引き戻すことで、ココルチェの再興という淡い夢を抱いていたのであった。しかし、入崎がどれだけの才女であろうと、ココルチェ内でどれだけの影響力があるかどうかは計り知れなかった。

 それでとトルターチが彼女の勧誘に熱心なのは、彼が今まで伝聞から想像してきた、輝かしき歴史と偉大なる四称号の姿に憧れを持っていたからかもしれない。彼はただココルチェに四称号を再集結させ、集合写真でも撮ること、彼にとっての再興はそれでも十二分に成るのであった。それはどこか少年じみた血気の良さを感じさせるものであった。男と女が対面し、関係をせまろうとしているこの場面であっても、決して嫌らしさを感じさせないのは、それがあったからかもしれない。トルターチの肉体も入崎の肉体もどこかに老いを内包しており、その肉体より上位の精神的な世界において、少年的な過去生への憧れが生んだ血気の良さと抽象化された高潔なる両性具有の意志の過去生が、青々と茂る野原を自由に駆け巡っていたのである。二つの肉体はそんな風景を老体のように眺めるだけだったのである。

 陽は完全に沈み、照明に当てられた装飾品供の煌めきは、外景をますます沈鬱として真っ暗闇にした。屋敷内のあちこちで徐々に活気が溢れてきた。夜会は午前0時の鐘の音と共に始まり、翌日の午前0時にお開きとなるのである。

 入崎は腕時計を見た。

"あら、もうこんな時間? そろそろシャチューヌ達が来る頃ね……。貴方と話し込んでいる所を見られたら、私とても困ってしまうわ。"

 


***


 アラヤマは適当に給仕としてのただただこなすばかりであった。ややもすると、自身がこれから行うであろう襲撃のことなど忘れてしまったかのようにすら、見えてしまうかもしれない。それは、この広大な屋敷の前に総体ともいえる三派閥の巨大さ、そしてその拒み所のない靄のような質感に肩透かしを受けていたこともないわけではなかった。しかしながら、アラヤマ自身が熱にうだされやすい性格であったとしてもそれが直接の暴力や殺人、及べば猟奇殺人の嗜好と結びつくことはなかった。彼は無用な争いをしようとは思わなかったかのである。もし、この夜会にイシエミサキがいなかったならば、自分はここまで来れなかったかもしれない、アラヤマはそんなことを考えた。イシエは間接的にディオという人間の手引きを持ち、アラヤマを夜会まで引っ張り出したのである。アラヤマは正直、ココルチェが三派閥さえ潰してしまえば、あとはどうでもいいと考えていた。この始末の中には、病室で薄弱としていたイシエも標的にしていた頃のことである。しかし、入院したイシエの死に顔でも見てやらんと現れたことで、彼の内に秘められていた何が揺らいだのである。彼はそれを、イシエの傀儡人形のような非力さであると察したが、それは恋慕て置き換えても差し支えのないものであった。かといって、アラヤマがイシエに対して抱いていた怒りが紛い物であったかといえば、そんなことはない。彼は怒りを、彼が憎んでいた肉体としてのイシエを通り抜けて、新たに恋慕を紡いだのである。そこには、イシエそのものがあると供に、亡き子の面影も、アラヤマはどこかに感じていたのである。

 アラヤマはそんなことを考えながら給仕長に業務の終了を告げると、地下に設けられた給仕用の宿泊室へと向かった。

この一画は、地上の屋敷の華やかさなどはない。無縁の、赤茶色の壁と、強靭さを思わせるフローリングが僅かばかりの明かりで照らされているばかりである。

 アラヤマは自身の宿泊室に行くことなく、別々になったディオの宿泊室に向かう。ディオから部屋の番号を聞いていたとはいえ、彼が戻っているかどうかは定かではない。もちろんアラヤマはディオの相室の輩共のことなどまったく考慮はしていない。

 アラヤマはディオの泊まる部屋の前に立つと勢いよくドアを開けた。すると、首筋に冷ややかな風がなめた。ディオが窓の縁に腰を下ろし、物憂げに外を眺めていたのであった。

"ディオ、作戦会議だ。少しばかり散歩をしよう。"

 アラヤマの声かけによって、ディオが始めてアラヤマの存在を認知したのである。それは小川のせせらぎの様なゆったりとした動きであった。ディオは機械的な動きで窓を閉めるとゆっくりとアラヤマの下に近づいた。冷風が止んだせいか、相室の簡易ベッドで寝ていた男が突然、健康的ないびきをこき始めた。彼の労体はディオの我慢ともとれるような耽りによって著しく阻害されていたのである。ディオの表情が廊下から溢れた明かりによって、アラヤマの前に浮かび上がった。その瞳には密かな熱をうかがうことができた。しかし、彼の熱というものにはどこか憂いがあった。そんなディオの語るイシエを救いたいという思いの裏にアラヤマは自身とは真逆の性質を見た。それは彼の熱というものが人の血の通ったものではない、どこか冷めた熱、怨恨とでも言えるようなものであることの現れであった。それはアラヤマにとって不安の種とも残ったが、その不安そのものが、何か脅かしい媚惑的な力のようにも感じていた。



***


 午前0時も直前に迫り、屋敷内に煌びやかなドレス姿やタキシード姿の輩が賑わっていた。

 イシエはそんな人混みの中を父タケバツの後ろに付きながら、練り歩いていた。うねるような肢体をさらに際立たせた青いドレスと、宝刀のように人を酔わせる煌めきをもった滑らかな長髪は、周りの誰もが魅入ってしまうほどの美しさであった。ある執務官の娘は嫉妬し、ある保安局との癒着まがいの関係を持つ大会社の息子はイシエに肉欲をそそられ妄想に一瞬で耽った。彼女に何かしらの激しい感情を思えば思うほど、人々は彼女から距離をとった。その様子はイシエの周りの人々は近寄らず、まるで美術館で高名な芸術家の裸婦彫刻を見るかのようであった。

 イシエは口元を緩ませ、目尻をとろんとさせながら、父タケバツの背中をただただ追うだけである。彼女は周りの輩など一切気にすることもなければ、八方から集中砲火のように突き刺さる視線と絶対にどれ一つとして目を交わすことはなかった。周りはそれにある種の神聖さすらも感じていた。しかしそれは、彼らが勝手に作り出した虚像でしかない。当人であるイシエは全くの不能である。しかしなればこそ、彼女の肉体は観察者たりうる万人の欲望をすべて受け入れられるほどに、自我というものを捨てた、大層に言えば普遍とも言えるかもしれぬ存在へと成ったのである。無であるがゆえに、完璧な超越にほど近しいのである。しかし、無という点でいえば彼女は不完全であった。彼女には父がいたのである。彼女の今の、万人を受け入れる神聖な無の状態たるのは、ひとえにいえば父タケバツの謀略、娘イシエを自身を受け入れる墓標にせんとしたためである。今の彼女の前から父という存在がいなくなれば、この状態は一瞬のうちに瓦解して、彼女は廃人となってしまう。彼女の神聖さとは、万人を受け入れるのではなく、父以外を気にもかけぬ姿によって観察者に想起させているのである。イシエはたしかに抜き出でてはいたが、それはあきらかに負の螺旋の底に堕ちていった結果、体現したものである。しかし、今の彼女が現状を脱するには、父タケバツとの縁を切ること以外に方法はなかった。

 イシエは父タケバツが誇らしげに取り巻きに手を振る、その横顔を見ていた。彼女はそんな父の顔を見ていると至上の幸福を覚えるのである。

 父タケバツの歩みが止まった。イシエは父の左腕に身を預けるかのようにゆっくりと迷うことなく近づいた。そこにいたのは、三派閥の仲間達であった。

 タケバツは娘イシエを前に出させると、軽い挨拶をさせた。

"父タケバツがいつもお世話になっております。娘のミサキで御座います。今後とも父ともども、よろしくお願いいたします"

 イシエは頭を下げた。すると、今まで彼女の存在感でまったく気にも止められなかったペンダントが、彼女の胸の谷間にするりと収まった。

 三派閥の老体達は一斉にそれを見た。そこから彼らが見せた笑いは、その老いさらばえた肉体の醜愚さと相まって、吐き気を催すものであった。弛んだ皮膚の皺がさらに深くなり、もはや溝といってもいいその奥底を、粘性を持った吐瀉物が流々と流れるのである。おそらく、並大抵の人間であるならば、彼らとは目を見て話すこともできないであろう。  イシエはそんな怪物のような老体に囲まれていたのである。

"ミサキちゃん、私を覚えているかい? 君を小さい頃から知っているダヨォ"

"子供の頃に一緒に遊園地に行ったおじさんだよ。覚えてる?"

"ちょっと見ない間にずいぶんと大きくなったねえ、おじさんたちウレシイよ……"

 そう言いながら老体はイシエの肢体を舐め回すように見ながら近づいて来た。外側から見ればその光景は異様なものであったが、老体達の仕立ての良い正装がそれを巧妙に打ち消していた。

"タケバツさん。貴方はずいぶん良いお嬢さんをお持ちのことで。貴方も救われましたな。"

 そう言った一人の老体の手が青いドレスに包まれたイシエの乳房を軽く逆撫でした。その掌はイシエの乳首を二、三度転がした。

"フンッ。抜け駆けは無しだ。ちゃんとその時まで待て。"

 老体達は顔を真っ赤にして手を出した者を蹴ったり突いたりした。

"だめよ。だめよ。少し助平だからといって、そんなにいじめてはだめよ。私は皆さんを受け入れてあげるわ。だからもう、おじいさまをいじめないでぇ"

 イシエは潤んだ声音でそう言った。その香水のようにベタつく声は、老体達の怒りを一瞬で鎮めた。イシエは振り返り父の顔を見た。父タケバツは誇らしげな表情であった。



***


 ディオは給仕として忙しく働く傍ら、人混みの中にイシエの姿を探していた。アラヤマとディオはイシエとその父タケバツの居場所を知ることができなかったのである。それはイシエ達が三派閥という関係上、その宿泊室は秘匿されていたのである。それを知りうるのは、一部の人間のみであった。それならば、厳重に警備のなされている客室をしらみ潰しに探して回ればよかったのかもしれないが、騒ぎを大きくしたくないというアラヤマの意向でそれはやらぬことになっていた。しかし、ディオは納得してはいなかった。彼が言うには、翌深夜0時の閉会式に、アラヤマが依頼した殺し屋が行動を開始するという。その時に自分にイシエを守ってほしいとアラヤマは言っていたが、そもそもそれ以前にイシエを逃がさないことにディオは不信感を抱いていた。そのためディオは単独でイシエの姿を探していたのである。

 彼が給仕として務めていたのは、大広間やバルコニーのある本館とは別の副館であった。このキュピレスト・ガーデンにはもう一つ、宿泊のために改造築された宿泊館もあった。副館は本館の朱絨毯と明るい壁装とは趣きを異しており、大理石の床と乳白色の支柱などが柱のあちこちに見受けられた。それらは支柱に備え付けられた蝋燭によって橙に照らされ、どこか情緒を感じさせるような宮殿のように思えた。

 ディオはそこでステンレスの台車に數十種という酒類と簡単なオードブルを載せながら、別館を練り歩いたのであった。老若様々な人々が美しい礼装に身を包み、いたる所で猥談のごとく下世話な話をディオは、無心で通り過ぎるのみである。ここにたむろする人間は、サリヴァンの町の中でも、一等の、下賤な輩であるとディオは感じていた。それは、彼らの身体的な醜愚のことを言っているのでも、話し言葉や話の内容を言っているわけでもない。彼らね体から発する体臭のような生き根性とでもいうべき気が下賤だと感じていたのである。ディオは戦士として度重なる死地をくぐり抜けてきたが、そんな中で刃を交える相手とは、その両方の肉体との間に、何か神聖な、オーラのようなものをやりとりしているのである。そのオーラとは、相手以上に相手の姿を如実に示した。すなわちそれは、出生であり、育親であり、感性であり、思考であり、哲学であり、道なのである。人の生幾万あろうとも、生き死にの場で交わされるこういった情報のやりとり以上に濃密なものなど、どこにありおうか。彼は今まで、多々の強者達と剣を交えてきた。技の及ばぬ悲惨な者もいれば、ディオの技に拮抗した者もいた。しかしどの全ての者に言えたことは、彼らのその一撃は彼らの持ちうるすべてのオーラを賭けた、最良であるところの清き撃だったということである。ディオはそんな彼らの清きものを見てきたゆえ、ここにいる輩の生き根性、オーラともいうべきものに違和感を覚えたのやもしれぬ。しかし、命の取り合いなどもせぬ、人生を懸ける劇場でもないこの夜会に、ディオがオーラを求めるのはスジ違いであるとも言えた。それほどにディオが夜会の輩のオーラが気に食わなかったか、もしくは、彼自身がイシエへの焦燥感から殺気立っているのかもしれない。

"あら、ボーイさん? 私にリキュールを一杯、頂けるかしら。それにしても、貴方きれいねぇ。"

 ディオが副館の外の、支柱が建てられた通路を歩いている時、六十代の丸々と肥えた女が声をかけてきた。ディオは返事をし、台車からリキュールの瓶を取り出し、グラスに注ぎ始めた。

"ねえ、ちょっとあっちでお話ししない?"

 肥えた女はそう言って、副館から見える茂みを指差した。その茂みは不自然に揺れ動いていた。そこは、気の合うつがいが茂みの中で性的な遊戯に興じていたのであった。ディオがリキュールを肥えた女に渡すと、彼女は口角をぐいと引き上げ金の入れ歯を見せると誘いの返答を求めてきた。

"申し訳ありません。私には給仕としての務めがありますゆえ、貴方様のご期待に応えられません。"

 そう言ってディオは、女の横を通り抜けようとした。すると、彼女はディオの腕を鷲掴みにした。

"いいじゃない。少しぐらい。お客様の頼みなのよ。サーヴィスしなきゃ。"

 女はディオの腕をグイグイと引っ張る。

 ディオは彼女の顔を何とも思わぬ顔で見ていたが、次の瞬間、彼の目は殺気立ち、皮膚から噴出した気は、彼の髪を揺らしながら、側にいた女に直撃した。

 女の体は一瞬にしてディオのオーラに包まれ、身動き一つ取れなくなった。彼女は思考も知覚すらもできなくなった。生きながらにして死人同然になったのである。女は鼻血を出した。

 ディオはそれをすかさず胸元のハンカチで拭いた。

"少し体調が優れないのではありませんか? 横になってしばらく経てば良くなります。お部屋でお休みになったらどうですか。お部屋まで付き添いいたしましょうか。"

 ディオは微笑みながら肥えた女にそう言った。

 彼女はそう、と言いながら何事もなかったのようにフラフラと自室に戻っていった。

 ディオが先程女にぶつけたのは、オーラとでもいうべきものであった。だが、給仕としての務めに戻るやいなや、それは先程までの凄まじさを微塵も感じさせない無色透明のものとなり、台車の音の方が目立つようになっていた。



***


 それからディオは本館と副館を客人へのサーヴィスと台車の品々の補充のために何往復もした。真っ黒い夜空でありがちながらも、じわじわと明けの星が朝露の澄んだ湿り気を風に運ばせてき出した頃、副館の活気は徐々に穏やかなものになっていた。皆茂みのどこかで交わっているか、各個の宿泊室で小休止をとっているのだろう。これから陽が昇るにつれて、日中に行われる夜会はまた趣きのことなったものとなっていく。そしてまた陽が下れば、夜会はここ最大の祭り騒ぎを迎えるのである。ディオはどうにかして、その祭り騒ぎの前までにイシエをこの屋敷から逃したい、そう考えていた。アラヤマの指示によれば終夜にココルチェは動き出すからであった。不休で動き続けていたディオの体は多少の疲れは見え隠れしたがしかし、鋭気は全くといって差し支えないほど衰えてはいなかった。その姿は穏やかな宵闇の中でかなり妖しげに映えていた。しかし、その静けさに身を浸した幾人の前を通り過ぎても、彼らの心の穏やかさではそれを感ずることのできる余裕はなかった。

 ディオは副館の務めを離れ、本館にイシエ姿を探しに行った。本館の廊下の濁流のようにうねっていた激しい熱狂はその姿をひそめ、紳士淑女のくだらぬ雑談のみがあちらこちらでポツポツと聞こえていた。彼のイシエを探す足取りは彷徨える人のそれであった。

 青がかってきた夜空は本館のどこまでも続く明るい廊下の美しいアクセントとして存在していた。

 ディオは、その廊下の地平を目指し歩く単純なゼンマイ仕掛けの人形であった。

 すると、ディオの遥か目先に、薄青い寝巻き用の衣に白い肩掛けをかけた女性を捉えた。ディオはそれを一瞬でイシエであると解釈した。その女性はディオの視界、廊下の直線上から逃げ去ってしまった。

 ディオは慌てて、彼女の跡を追った。彼の動きは尾行などという非常な運動ではなく、一過の感情に身を任せた、全力疾走であった。しかし、そこには感情ばかりで先行し、彼の鍛え上げてきた身体感覚がともなっておらず、とても効率の悪い走りとなっていた。イシエと思われる女性との距離も徐々に縮まり、彼女が部屋に入る時にはその顔を確実に捉えていた。それは紛れもなくイシエその人であった。

 ディオはイシエが入った部屋のドアノブに掴みかかろうとすると、その腕をグイと引っ張られた。

"おい、目立つことはするなといっただろう。今ここでイシエと接触するのはダメだ"

 それはアラヤマの仕業であった。彼がディオを追いかけてここまで来たのか、はたまたディオとイシエの接触を防ぐために待ち伏せしていたのか、それは定かではないが、二人の目前のドアの向こうにイシエがいることだけは事実としてあった。

 ディオは感情のままに叫んだ。

"何がダメなんだ。アンタはイシエさんを助けたいんじゃないのか。じゃ、なんで今助けないんだ。アンタはイシエさんのことなんかどうでもいいんだ。ただここで皆殺しがやりたいだけなんだ。イシエさんか、アンタの個人的な復讐か。僕はイシエさんをとるよ。アンタの指図は受けない。"

 突然のディオの絶叫に、部屋で休んでいた客人が顔を出して、給仕同士の小競り合いを覗き見ていた。



***


 アラヤマはこの状況を快く思ってはいなかった。こちらの思惑が三派閥に勘づかれ、ココルチェの効力を半減でもされようものなら、それはアラヤマにとっては失敗に等しいのであった。サリヴァンの執政中枢である三派閥への攻撃とは、その構成員を屠る以上に、その凄惨さと恐怖の象徴を帯びなければならない、そう考えていたのである。たとえこの場で構成員全員を殺せたとしても、その後座に着くことのできる人間は最執部内を探せばごまんといるであろう。アラヤマの考える三派閥への攻撃というものは、三派閥の機能を潰すことであった。その機能を潰すことが、このアラヤマとココルチェが起こさんとしている襲撃に帯びなければならない凄惨と恐怖なのである。それらをこの襲撃に帯びさせるためには、行動前からのすべての段階において、一分の隙も許してはならない。隙があればあるほどこの襲撃の効力は減退してゆくのである。今まさに、自身とディオとの小競り合いこれが、襲撃の効力を弱めているのであった。アラヤマは早急な判断に迫られた。この状況のまま、もしかしたら両人とも捕らえられてしまうやもしれぬし、激昂しているディオの肩を抱いて、なんて事ない痴話喧嘩のように笑いながら立ち去ることもできそうではなかった。

 その時、目の前のドアがゆっくりと開いた。そこからひょいと顔を出したのはイシエであった。

"あら、ディオじゃない。"

 彼女は素っ頓狂な声をあげた。

 その声に過敏に反応したディオは彼女の部屋へと飛び込んだ。

 アラヤマも、事態は好転したと思わせんばかりにディオと共に流れ込んだ。ディオとイシエを今二人だけにするのは不安であったし、何よりこの廊下の視線からの逃げ場がここしかなかったからである。

 ディオはイシエの肩掛けに包まれた肩を鷲掴みにしていた。

 イシエは驚きを隠せずにいたが、

"ディオ、ちょっと痛いわよ"と言った。

 ディオのイシエの肩から手を離す動作はぎこちないものであった。それは彼がどこか興奮から醒めやらぬ状態だったからである。

 イシエとディオと、扉の近くにアラヤマのいる部屋は、早朝で照明が付いておらず、青暗かった。そこはイシエとタケバツが二人で宿泊するのに適した広さであった。しかし、そこに置かれた生活用品には、本館の全てを飾る趣味的な技巧がまったく施されていなかった。それは父タケバツの意向を汲んでのものであったことは誰も知るよしはない。

 ディオとの久しぶりの再会にイシエはディオに抱きついていた。

 彼女のディオの胴に回された腕を錆びついた鎖のようだと思い、ディオは呆然とした。そこにいたのは、彼の知るイシエではない、ただの拘束具なのであった。イシエはありとあらゆる人間性を排斥し、その五感全てが人間的情緒を感じることができなくなっていた。ディオはイシエの表情をぼんやりと鮮明に捉えることができなかったが、それを見るのが恐ろしくてたまらなかった。自分の胸の中で屈託なく笑うイシエが、自分の知る彼女ではなくなっていたからである。ディオは意を決して、イシエの顔を覗き込んだ。

"イシエさん、大丈夫でしたか。もう安心です。さあ、僕と一緒にここから出ましょう"

 それを聞いたイシエの目がギョロリと動いた。

"へえ? ダメよそんなの。夜会なのよ。そうだわっ。ディオも一緒に参加しましょう。アナタに似合う服がきっとあるわ。"

 イシエはそう言って舞うようにディオの手を振り払うと、クローゼットの前に行き、その中から何着かの服を人形遊びでもするかのように出し始めた。

 それを見たディオは、ただただ耄碌とするばかりであった。目の前のイシエが一体全体何者であるか分からなくなったのである。その姿は明らかにイシエなのだが、挙動言動は彼女のものとはまったく違っていた。その時ディオはイシエミサキというトッケイの一メンバーは死んだのだと認識した。ディオは力なく、その場に尻餅をついてしまった。そしてただ、かつて、イシエと呼ばれていたものを見るだけであった。

 すると、扉の前で佇んでいたはずのアラヤマがイシエへと近づいていった。そしてアラヤマはイシエの腕を鷲掴みにした。

 自分の世界を脅かされたイシエは少女のように驚き、そしてアラヤマの顔を見た。

 彼女の顔がみるみるうちに曇っていく様をディオは見ていた。

"いやあ、いやあよ。いやあよっ!"

 イシエが突如として叫び始めた。

 ディオはその叫びの大きさに驚かされたがアラヤマはまったく動じることなく、イシエの腕を掴み続けていた。

 彼女の声があまりにも大きく、少し怖気付いたディオは、

"ここは一旦引こう。このままだと、僕達は捕まってしまう。"と言った。


この時のディオは、イシエへの期待を半ば諦めていた。

 しかし、アラヤマはイシエの腕を決して離そうとはしなかった。

 室内からでも聞こえる、さざなみのように響く足音をディオは聞いた。廊下での小競り合いから、この一室での悲鳴を聞いた何某が運営者に一報を入れたのであろう。いくら、ディオがトッケイであったとはいえ、指名手配されているアラヤマと行動し、なおかつ三派閥襲撃に加担していることが分かれば、全てが水の泡である。しかしもはや、ココルチェや三派閥、最執部、アラヤマ、トッケイが入りに乱れたこの夜会に、何を持て成功と失敗を分けるのかを、判断する者などもういなかった。強いて言えば、サリヴァンの歴史である。

"アラヤマ、すまない。僕が間違っていた。ここはいったん引こう。僕達が捕まっては元も子もないじゃないか。"

 これはディオがイシエを見捨て、自生を選んだということの象徴的な発言であった。ディオは、イシエが体をねじらせることによって揺れていたアラヤマの腕をとった。その瞬間ディオの頬にアラヤマの鉄拳が打ち込まれた。ディオは殴り飛ばされる瞬間にアラヤマの凄まじい形相を見ていた。床に倒れ込んだディオにアラヤマが馬乗りになると両拳で殴り続けた。

"お前はそうなんだな。すぐにそうやって女を捨てるんだな。お前はそうやってアシカジョウを捨てたんだろう。お前がカイゼヨウだということぐらい、俺はわかっているんだぞ。お前に捨てられたアシカジョウが、クレナイチョウがどうなったをな。お前は訳の分からない狼の面を被って、ココルチェに尻尾を振ったんだ。"

 ディオはアラヤマからの拳を拒否しようとは思わなかった。なぜなら、自身を見下ろすアラヤマの鋭い目の奥に、自分の真性すなわち、アラヤマがその体内に流れるアシカジョウの血でしっかりと捉えそれに対しての乱打、だったからである。ディオは変わり果てたイシエと対面してから、どこかしら彼女への熱意というものを急激に冷めさせていった。アラヤマにこの場からひとまず立ち去ろう、という提案の中にはイシエをディオの心象での重要度のランクから繰り下げるという意味が暗としてあった。それはイシエを蔑ろにすると同時に、ディオの内に僅かにあった良識を打ち消さんとするのであった。ディオ自身も全霊でイシエのことを捨てんと考えているのではなかった。

 アラヤマはそんなディオの性質を見抜いてしまったのであろう。アラヤマの拳はそんなディオをいさめるような強さと誠実さを持っていた。

 


***


 扉が開き、廊下の眩しい光と共に室内に入ってきたイシエタケバツとこの屋敷に常駐していた警備員によって、二人は取り押さえられた。空間は混沌を極めた。この場所で一体全体どんな茶番喜劇がいかなるシナリオで現在進行形で起きているのか、わかる者は誰一人としていないだろう。だが一つ確実にいえることは、ディオとアラヤマの敗北が決まったということぐらいだった。

 ディオは警備員に袋叩きにされながらちらとイシエの方を見た。彼女は五十半ばかと思われる小綺麗な男に何かを必死に訴えていた。そして、男はこちらに近づいてきて、ディオの顔を覗き込んだ。ディオが見た男の目は怒りで満ち満ちていた。

"連れて行け"男が言った。

 アラヤマとディオは、痛む体を無理矢理に持ち上げられ立たされると、臀部を思い切り蹴り飛ばされ、しぶしぶ歩き出した。後方では懸命なイシエの説得が聞こえたが、それがこの状況を打開することのできる威力に欠けていることを、ディオは理解していた。この連行は、ただのならず者のケンカをひっ捕らえたのではない。三派閥に楯突こうとする輩の謀反なのであった。彼らの意向によっては、処刑もやむをえないだろう。早朝の青暗い中照明で煌々と照らされた廊下は罪人を嘲笑っていた。ディオはもはや、己の行為を正当化できぬほどに、自身の行為の拠り所、イシエという存在を失っていたのであった。後方にいたアラヤマは、いまだ反抗の意思をその殺気に漂わせていた。彼はきっと、監禁室に着いたらひと暴れして、詳しい屋敷の情報を手に入れて、とにかく皆殺しを敢行するのである。だが、今のディオはそんなアラヤマの行動を嘲笑で迎えるのである。罪人としての被虐に浸るディオにとって、そんなことはどうでもよかったのである。


 "ちょっと待って下さい。"

 その罪人の一行は、その一声により行進を止めた。

 ディオは声の方へと振り向いた。その声の主はエドウであった。これにはディオも内心は驚いてはいたが、被虐の極地にいたディオには過敏に反応することができなかった。

"こちらのディオ特別保安官はトッケイの一員です。アラヤマコトマの追跡のために尾行していただけです。これは特例権限を持ったトッケイが最執部への命令として取って下さい。彼を解放して下さい。"

 ディオはその、イシエタケバツとエドウのやりとりを見てはいなかったが、タケバツの呼吸は明らかに不服を含んだものであった。

 タケバツはディオを解放すると、

"命拾いしたな、だが時期に皆死ぬ。"と耳元で囁いた。

 それはとても、イシエの父というその柔和そうな姿とはかけ離れたものであった。タケバツを先頭としてアラヤマを囲んだ集団は、呆然としているディオの横を力強く、死刑執行人のように通り過ぎていった。

 ディオは放心状態のためか、連れて行かれるアラヤマの視線も真隣にいるエドウの存在もまったく気にならなかった。






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