【第三夜】がっきゅうぶらんこ
「あら、お帰りなさい。早かったのね」
妻にそう言われて、俺は自分が帰宅していることに気付いた……帰宅している? ああ、そうだ。俺は確かムラっちと飲みに行って……飲みすぎたのかな。ちょっと頭が痛い……ムラっちのやつ、トイレに行ったっきり戻ってこなかったような……。
「ムラっち、元気にしてた? って、どうしたの。ぼんやりして……あーっ、もしかして風邪とかインフルとかもらってきてないでしょうねっ?」
冷たい妻だなぁ……冷たい……冷たい……なんだかそのキーワードが体の芯に残っている気がする。冷たさというか、痺れというか、自分の内側にスッキリとしないものが腫瘍のように張り付いている気がする。それにしてもなんだか冷える。部屋着のトレーナーへと着替え、そのままベッドへと潜りこむ。
「ねぇ、ちょっと? ヒロくん、本当に大丈夫?」
「……ああ……うん。なんか寒くて」
「体温計持ってくる。熱、測って」
こんなに寒いだなんてけっこうな高熱だよな。ときおり、悪寒が俺を酷く揺らす。でもちょっといつもの熱と違う気がする。ガタガタと震えるというよりは、間隔をあけてブルッと来る感じ。その度に俺は揺れて……揺れて……揺れて? なんだろう。このリズム……前に……どこかで……。
……キーコ……キーコ……キーコ……。
その音を聞いたとき、俺は戻ってきたことに気付く。この、何度も見た夢へ。これは夢なんだとうっすらとは分かっている。でも体のコントロールはきかず、毎回同じストーリーをたどっている。小学校の廊下。俺たちはそこに一列に並んでいて、列の先頭は教室の中だ。
……キーコ……キーコ……キーコ……。
あの音は、教室の中から聞こえてくる。廊下に並んでいる先頭の一人が、教室の中に入った。
……キーコ……キーコ……キーコ……。
しばらくして揺れる音が止むとまた一人、廊下の先頭のヤツが教室の中へ。
……キーコ……キーコ……キーコ……。
俺たちは「がっきゅうぶらんこ」に並んでいるんだ。担任がどこからかハンモックを持ってきたのが始まりだった。俺たちはそれを「がっきゅうぶらんこ」と呼んで、すぐに夢中になった。ただ「がっきゅうぶらんこ」は一つしかなかったから、順番待ちの行列が出来、やがて三回揺らしたら次の人に変わるルールも出来た。
……キーコ……キーコ……キーコ……。
そんなルールにしたら、すぐ揺らさないで時間稼ぎするヤツが出てきた。だから俺たちは並んでいる側が揺らすことにしたんだ。列を待っている次の人が、ね。
……キーコ……キーコ……キーコ……。
揺らす方もけっこう楽しかった。手加減なんてしないで全力で揺らすから、本気で怖がってるのだっていた。そんなブルったところを見せるとさ、小学生ってのは残酷だよな。数をわざと数え間違うんだ。1と2が延々と続くんだ。
……キーコ……キーコ……キーコ……キーコ……キーコ……キーコ……キーコ……。
そうそう。三回で終わらない時は、だいたいがあいつの番。ちょうど今だよ。逃げ出さないよう、しっかり捕まえて列に並ばせてさ、無理やり乗せて、その時ばかりは次のヤツだけじゃない。終わったヤツや並んでない連中まで寄ってたかって激しく揺らしてた……気がつくと、俺の前には誰も居なかった。並んでいたヤツは全員、あいつを揺らしに行ったんだな。俺も教室へ入ろうとする……けれど、足が動かない。そう。だいたいここでいつも目が覚める……はずなんだけど。
……キーコ……キーコ……キーコ……キーコ……キーコ……キーコ……キーコ……キーコ……キーコ……。
おいおい、いつまで続けるつもりだよ。もういい加減、あいつは泣き出すんじゃないか? あいつ……そう、だいちゃん。だいちゃんはよく泣いていた。でも普通にわんわん泣くんじゃなく、なんかつぶやくようにもごもご言いながら涙を流すんだ……ずっとずっと忘れていたことを、俺はなぜか今思い出した。この夢のせいか? いや、この夢の中ではだいちゃんの泣き声なんて聞いたことなかったよな?
……キーコ…………キーコ…………キーコ…………キーコ……
なんか様子が変だ。
……キーコ………………キーコ…………
だいちゃんは泣いてないみたいだし、「がっきゅうぶらんこ」の音も次第におさまりつつある。というか、やけに静かだな。
…………キーコ…………。
この静寂……あれ? 何か思い出せそうなんだけど……。
「ねぇ、あなた!」
俺は目を覚ました。妻が心配そうな顔をして、俺の額に手をあてている。
「……ああ……悪い」
どうやら俺は寝てしまっていたようだ。何か後味の悪い夢を見ていた気がする。
「……え、ヒロくん……その手」
妻の視線の先を追うと、俺の左手が勝手に揺れていた。二拍子の指揮者のように、ゆーら、ゆーらと……なんだこれ。
「それ、やめて。もう二度としないで」
「え、それって……どういうこと?」
だが妻は何も答えず台所へと戻ってしまった。その後でふと、小学生の頃のワンシーンを思い出した。まるで「だいちゃん」という名が鍵だったかのように、記憶の扉が開いたのだ。
あの日、俺は先生に用事を言いつけられて、昼休みに「がっきゅうぶらんこ」で遊べなかったんだ。しかも教室に戻ったときにはもう「がっきゅうぶらんこ」は片付けられていて。だからふてくされて放課後は誰とも遊ばずまっすぐ家に帰ったんだっけ。でも、しばらくしてから体操着を教室に忘れたの思い出して学校へ取りに戻って。放課後の、夕闇迫る校舎はいつもより妙に広く感じた。教室までもずいぶんと遠く感じたし……ようやく教室の入り口まで近づいた時「がっきゅうぶらんこ」の音が聞こえたんだ。昼休みのうちに撤去されていたはずなのに……えっと……それからどうしたんだっけ。
…………キーコ…………。
耳の奥にがっきゅうぶらんこの揺れる音がこびりついている……この音……いっつも頭が痛くなるんだよな。
「……先生も、がっきゅうぶらんこで遊びたかったの?」
不意に自分の口から出た言葉にハッとする。そして、今の今まで忘れていたことにも驚いた。その記憶と共に、胃の中を酸っぱいものが逆流する。俺は見てしまったんだ。先生が「がっきゅうぶらんこ」に自分の首を縛り付けたまま揺れていたのを。
(了)




