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【第一夜】きんじろうさん

「ただいまっ」

 帰宅を告げる娘の声のいつもとは違う異様なテンションに、私は思わず指を切りそうになった。食事の仕度をいったん中断し慌てて玄関へと走ると、そこには半泣きの娘が立ち尽くしていた。慌てて駆け寄り、ぎゅっと抱きしめる。

「ひーちゃん、何かあったの?」

 変な人が多い昨今、イヤな情報だけはあまりにもたくさん耳に入ってきてはいて、不安だけで胸がもう押しつぶされそうになる。私にしがみつく娘の体は小刻みに震えている。よっぽど怖い目にあったのだろうか、まだ小学三年生の娘にいったいどこの誰が酷いことを……と、不安を超える怒りが湧きつつある私の腕の中で耳もとで、娘が何かをつぶやいた。

「……きんじろうさんがね、でたの……」

 きんじろうさん? そういう有名な変質者でも居るのかな。すぐに警察に連絡した方が良いよねと必死にしがみつく娘の頭をなでながら立ち上がろうとしたが、娘は手を離さない。

「変な人が居たんだよね? ママ、おまわりさんに連絡するからね」

「むりだよ。きんじろうさんは人じゃないもん」

「え?」

 人じゃないって言った? どういうこと?

「にのみやきんじろうさん。きんじろうさんは学校に行きたいのに行けなくなっちゃったから、ランドセルがほしいの。だからランドセルおいて逃げ出したら、追いかけてこないの」

「二宮金次郎って……あの、銅像の?」

 私の肩口で娘がこくんとうなずく。事態はのみこめなかったけれど、娘が落ち着くまで私はしばらくそのまま抱きしめ続ける。

 ピンポーン!

 突然のチャイムに母娘そろってビクついた。

 

 

 

「あはははは」

「ちょっと笑い事じゃないんだから!」

 帰宅した夫へ昼間の事件を話したのだが、少しでも心配してくれるかと思いきや、むしろ笑い話か何かのように聞きやがる。

「いやいやいや、拾ったランドセル届けてくれたおまわりさんが不憫で」

「娘が泣きながら帰ってきたんだよ?」

「だってさ、お前、オチ先に言っちゃったじゃん。きんじろうさんが出たんだろ?」

 ここは夫の地元。娘が通っているのもかつては夫が通っていた小学校。夫が通っていた頃には二宮金次郎の銅像が実際にあって、現在の小学校には撤去されちゃってないのも事実。

「そうかそうか、金次郎さん、子ども達の噂話の中にはまだちゃんと残っているんだなぁ。オレんときは七不思議の一つでな、夜に目が光るとか薪の数が変わるとか、いろいろあったんだぜ」

 夫は妙に懐かしがっちゃったりして、その時はそんな感じで話は笑いの中に閉じた。

 

 実は後日譚がある。『きんじろうさんに追いかけられた』という子がけっこう出たらしくPTAで問題になったのだ。子ども達が一人で出歩くことがないように通達が出た矢先、一年生の子が被害に遭ったのだ。

 娘と同じ集団登下校の班の子で、私もよく知っているまほちゃんという女の子。しかしその子が事故に遭った場所というのが、どうにも変で……というのも、通学路からまほちゃんの家まで続く細い私道の袋小路が現場。娘の話によると事件当日、まほちゃんは娘たちと一緒に班下校で帰ったとの事。その私道の入り口で皆と別れ、歩き出してちょっと経ってから、娘がまほちゃんの悲鳴のようなものを聞いたのだとか。娘と、六年生で班長の糟谷さんとで様子を見に行ったところ、まほちゃんが倒れていて、ランドセルがなくなっていたと言う。二人は通りへと戻って大声で大人を呼んで、警察へと通報した……。

 娘の日常のそんな近くで事件が起きていただなんて、私は震え上がった。いや、実際に被害に遭った子がいるのだから自分の子が無事だったからといってホッとできる話じゃあない。緊急で開かれた保護者説明会では、あの単語が出てくることは決してなかったが、周囲のお母様方もみな小さな声で「きんじろうさん」の話をしていた。変質者だろうが、お化けだろうが、その犯人が噂のソレなのだとしたら危険なのにはかわりはない。

 説明会から帰った私に、娘はぎゅっとしがみついてきた。

「まほちゃんね、おばあちゃんに買ってもらったランドセル、すごく大事にしていたの。きんじろうさんに渡したくなかったんだよ」

 そんな話を聞かされちゃ、ランドセルに代わる新しいカバンを買ってあげないわけにはいかない。他のおうちでもランドセルをやめさせるとこが増えたみたい。それが功を奏したのか、それとも子ども達が怯えて口にしなくなっただけなのかは分からないけれど、あれから半年、きんじろうさんの話題はずっと耳にしないままだ。ただ、まほちゃんの事件の犯人も、ランドセルも、いまだに見つかってはいないんだって。




(了)


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