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帝都奇談 ~鬼灯参謀の偽り妻~  作者: ミナト


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1 出会い

 神崎咲良かんざきさくらが駆けていたのは、深夜の印刷工場街だった。

 足元に敷かれた石畳は雨上がりでぬかるんでおり、ショートブーツの靴がぬぽりと沈むたびに時間を奪われる。袴の裾が泥を跳ね上げ、帯が解けかけている。それでも咲良は止まらなかった。止まれなかった。


 右手に抱えているのは、薄茶色の封筒だ。

 中身は三十枚ほどの書類。数字と名前が並ぶ、一見すれば退屈な帳簿の写しに見える。しかし咲良にはわかっていた。この数字の羅列が何を意味するかを。陸軍の調達費用として計上された金額の、相当部分が実在しない業者に流れていること。その業者の裏に、ある軍人の名前が見え隠れすることを。

 これは、記事になる。

 いや——これは、記事にしなければならない。


「待てっ」


 背後から声が飛んできた。

 咲良は振り返らなかった。振り返る時間があるなら、その分だけ前へ進む。路地の入り口を左に曲がり、荷物置き場の裏を抜け、川沿いの細道へ。大煌新報の社屋はここから三丁ほど——いや、今夜は社屋へ戻ってはいけない。自分が追われているということは、行き先を読まれている可能性がある。

 では、どこへ。

 足が迷いかけたとき、前方の路地が狭くなった。

 右に曲がれば川べり。左に曲がれば行き止まりの倉庫街。どちらを選んでも、追手が複数いるなら囲まれる。咲良の頭が高速で地図を描き、計算し、答えを出す前に——


 背後から、もう一つの足音が聞こえてきた。


 追手とは別の、落ち着いた足音。

 咲良は一瞬だけ振り返った。

 ガス灯の光の中に、人影があった。

 長身の男だった。軍服を着ている。濃紺の生地に金の飾緒、参謀将校の正装だ。こんな夜更けにこんな場所で、軍服の男が一人で立っている——それだけで十分に異様だった。

 しかし咲良が息を呑んだのは、その異様さのためではなかった。

 男の顔が、ひどく静かだったから。

 追われている女が目の前にいる。背後からは追手の足音が近づいている。それなのに男は、嵐の中心にいるように微動だにせず、ただ咲良を見ていた。切れ長の目が、ガス灯の光を冷たく反射している。


「神崎咲良」


 男が口を開いた。声は低く、静かで、しかし奇妙なほどよく通った。


「大煌新報、文化部所属。本名、神崎咲良。二十二歳」


 咲良は立ち止まった。

 立ち止まってはいけないと頭ではわかっていた。しかし足が、自分の名前と素性をこの男が知っていることへの驚きで、一瞬だけ言うことを聞かなかった。


「あなたは——」

「時間がない」


 男は咲良の問いを静かに遮り、背後に視線を向けた。追手の足音はもう、すぐそこまで来ている。


「ついてこい」


 それだけ言うと、男は路地の奥へ歩き始めた。迷いのない足取りで、振り返りもしない。

 咲良は一秒だけ考えた。

 この男が何者かわからない。どこへ連れて行かれるかわからない。そもそも、助けてくれる保証もない。

 しかし背後の足音は、もう路地の入り口に達していた。

 咲良は男の後を追った。


 ◇ ◇ ◇


 男が案内したのは、川沿いの古い蔵だった。

 扉の錠前を、男は鍵も使わず素手で静かに押すと、何事もなかったように開いた。咲良がそれを不審に思う前に中へ引き込まれ、扉が閉まる。

 蔵の中は暗く、埃の匂いがした。しばらくして追手の足音が外を通り過ぎ、遠ざかっていった。

 男が懐から小型の燐寸を取り出し、置かれていた蝋燭に火を灯した。揺れる炎の中で、咲良は初めてまともに男の顔を見た。

 二十代の後半だろうか。整った目鼻立ちで、官能的とは言えないが、見続けずにいられない種類の顔をしていた。前髪が長く、目の上で揃えて垂らしている。その前髪の下——何かが、かすかに影を作っているように見えたが、蝋燭の光では確かめられなかった。


「礼は要らない」


 男は先回りするように言った。「そういう顔をしていたから」


「誰ですか」


 咲良は封筒を胸に抱いたまま、真っ直ぐに問うた。助けてもらった礼より先に、正体を確かめることを選んだ。これは記者の習性でもあるし、咲良の生来の性分でもあった。


影山一角かげやまいっかく。陸軍参謀本部、第三課参謀」


 名前を聞いた瞬間、咲良の背筋が伸びた。

 影山一角。

 大煌都の軍関係者で、この名を知らない者はいない。「鬼灯参謀ほおずきさんぼう」——そう呼ばれる男だ。感情を持たない、冷徹な軍人。その判断に誤りがなく、その命令に逆らった者が軍内で生き残った試しがない。あやかしの血が混じっているという噂もあるが、誰も確かめようとしない。確かめたら最後、その事実を持ったまま消えることになりかねないから。


「……なぜ私を助けたんですか」

「助けた、とはまだ言っていない」


 影山は蝋燭の傍の木箱に腰を下ろした。足を組み、両手を膝の上に重ねている。手袋をはめた手が、炎の光の中で静かに影を作る。


「話がある。聞く気があるなら座れ。なければ——今夜のことは忘れて、そのまま外に出ていい。ただし」


 男の目が、封筒に向いた。


「その書類は置いていってもらう」


 咲良は思わず封筒を後ろ手に隠した。子供のような反応だと自分でも思ったが、止められなかった。


「これは私が——」

「三ヶ月かけて集めた証拠、だろう」


 影山は感情のない声で続けた。


「陸軍調達局の不正経理。総額にして五十万円を超える横流し。その金の一部が、ある政治結社に流れている。君はそこまで調べた。正確には——そこまで調べたことを、今夜誰かに知られた」


 咲良は黙っていた。

 否定できる要素が、一つもなかったから。


「誰から聞いたんですか」

「関係ない」

「関係あります。あなたがその情報を持っているということは、あなたも事件に関わっているかもしれない」


 初めて、影山の目が咲良を正面から見た。

 その目に、かすかに何かが揺れたように見えた。しかしそれはほんの一瞬で、次の瞬間には元の冷静な色に戻っていた。


「面白い見方だ」

「記者ですから」

「そうだ、君は記者だ」


 影山はゆっくりと立ち上がり、一歩、咲良の方へ近づいた。


「だから取り引きをする。記者として」


 咲良は思わず半歩退いたが、背中が蔵の壁に当たった。

 しかし影山は、それ以上近づかなかった。手の届かない距離を保ったまま、静かに言った。


「俺の妻になれ」


 蝋燭の炎が、揺れた。


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