エピローグ「帳簿の最後の頁」
初雪は、夜のうちに来た。
朝の谷は音を綿にくるんだようになって、触れの板の前だけ雪掻きの組割りを読むヴィムの声が通る。年寄りの家の前から順に、道を空ける。屋根の雪は北側の家から下ろす。読み終わるころには、もう最初の組が動き出していた。ふた冬前、初雪は死の先触れだった。いまは、仕事の割りがひとつ増えるだけの朝だ。竈の煙が雪空に立ち並んで、谷は誰に言われるでもなく、冬の背丈に合わせて動き方を変えていく。
雪の朝の谷には、独特の音の消え方がある。川の音が半分になり、水車の音が布越しになる。残るのは雪を踏む長靴の音だけだ。その音が今朝は谷じゅうで鳴っている。人が出て、働いている音だ。
峠の見張り小屋には、交替の組が雪を踏んで上がっていった。檻の普請は棟上げまで進んで、雪よけの筵をかぶって春を待っている。ゲルダ婆さんは戸口の雪掻きを断って、代わりに掻き手の椀へ白湯を注ぐ係を買って出たそうだ。順は順、心づけは心づけ。あの婆さんの帳面も、ふたつ目の冬にちゃんと帳尻が合っている。
昼前に、館から呼ばれた。
執務室の机には、死の帳簿とまっさらな革綴じが並べて置いてある。古い方は革が手擦れで飴色になって、角がすっかり丸い。書庫係の老人が直し続けた、あの角だ。新しい方は角が尖って、紙の匂いがまだ木の匂いに近い。あの人は窓を背に、いつもの藍の上着で立っていた。
「帳を、締めますの」と、あの人は言った。「冬が来た日に、古い帳を締めて、新しい帳を開きますのよ。冬のあいだに開く帳面は、新しい方がよろしいの。……立会いをなさい。締めには、字の読める立会いが要りますわ」
貸し借りの証文と同じ作法で、死者の帳が締められる。俺は机の前に立って、あの人が頁を繰るのを見ていた。
最初の頁から、読み上げは始まった。
「ヒルデ。齢62。秋。死因、飢え」
「ヨスト。齢4。秋。死因、飢え」
着任の秋の、あの数えの頁だ。名前を数えなさい、とあの人が最初に命じた仕事。王都の大広間でも読まれた頁が、雪の谷の執務室で、書いた本人の声でもう一度読まれていく。読み上げの節は配給の順を読むときと同じで、上がりも下がりもしない。だが俺はもう知っている。この節が、この帳面の弔いの節だ。悼みを冬の後に回すと決めた人の、これが数えるという形の祈りだ。
窓の外は雪あかりで白い。執務室の蝋燭は2本に増やされている。読み上げの声は名前のひとつずつを薄暗がりの中へ進んでいく。知っている名前が半分。知らない名前も半分。知らない名前の分だけ、この谷には俺より古い冬がある。
マルテン。齢60ばかり。秋。護送の街道。死因、矢。
賊の27。名のある者は名で、知れない者は年恰好と得物で。男爵家の一件の9。楡に5、沢に1、剣に3。アルマ。齢80。冬。死因、寿命。ヤーコプ。齢39。春。死因、飢え。そして秋の終わりの、粉挽きの爺さま。齢79。死因、寿命——。
読み上げは、半刻かかった。あの人は1行も飛ばさない。抜き読みは数え違いのもと——王都の広間に付けた注文を、自分の帳締めにもそのまま当てている。ヤーコプの行では、春の麦の一手を思い出した。あの1行のために、あの人は男爵家をひと晩で畳んだ。畳んでも、行は消えない。消えない行の下に、今年の谷は新しい飢えの行をひとつも足さずに冬へ入った。
頁の隅の墓割りの控えも、あの人は飛ばさずに読んだ。掘り30。使い2。空のまま埋め戻し、28。数字の並びは王都の広間を騒がせたものと同じだ。聞く側の俺だけが、あの日より落ち着いている。
読み上げが、止まる。
最後の頁だった。俺の立っている場所からでも、その1行は読めた。
名、ディートリンデ・フォン・アルテンブルク。管理の責にある者。死因の欄——空欄。
あの人は、その頁を読み上げなかった。代わりに新しい帳面を開いて、最初の頁に日付と、蔵の数字の繰り越しを書き入れていく。それから最後の頁を開いて、古い帳面と同じ見出しを、同じ手で書いた。管理の責にある者。名前。空欄。ひと文字も違わない写しが、新しい帳面の最後の頁に据えられた。
「その頁も、繰り越すのですか」
訊く途中で、もう愚問だと分かっている。あの人は書き終えた頁にインク押さえを当てて、顔も上げずに答えた。
「帳面が替わっても、数は替わりませんの」
「……欄は、空のままだ」
「ええ。埋まる日まで、私が谷を数えますのよ」インク押さえが、机に戻る。「順番ですわ、レンツ。私は、誰の順も飛ばしませんの。自分の順も、ですわ」
王都の評議は、あの人の頭の上に閉じない帳を残した。赦さず、免ぜず、留め置く。再び権外の刑あらば、併せて裁く——脅しの形をした、いつか閉じるかもしれない帳だ。そしてあの人は、自分の帳面の最後に、自分の手で空欄を残し続ける。ふたつの帳は、形だけならよく似ている。違いを言えるようになるまで、俺はふた冬と半年かかった。王都のそれは、頭の上に吊るされた縄だ。あの人のそれは、自分で自分に発行した証文だ。谷を数える者は、谷の数の中にいる。数の外には、死んでも出ない。いつか自分が数えられる側に回ることを、先に書いておく者を、俺はあの人のほかに知らない。
山はもう、家の名義にない。名誉は戻らず、王都へ上る道は法で塞がれて、評判は雪より溶けない。それらを全部載せた上で、あの人の帳面は今日も帳尻が合っている。合わせ続けることを、あの人は勝ちとも負けとも呼ばない。呼ばないから、谷は安心して量られている。
締めの奥書に、あの人は日付と署名を入れ、立会いの欄を俺に差し出した。
ペンを受け取って、書いた。レンツ・カルステン。あの人の帳面に、俺の名前が初めて載った。死者の頁ではなく、立会いの欄にだ。生きて、字が読めて、狂いがないことを検めた者として。署名の下で、古い帳面は紐で綴じ直された。納戸の棚の、俺の月次の隣に仕舞われる。ふた冬の死と、ふた冬の生き残りの記録が、背中合わせで棚に立っている。納戸へ運んだのは俺だ。棚の前で少しだけ迷って、月次の綴りの右隣に立てた。100年先の読み手が来たとき、死んだ者の帳と生きた者の紙は、並んで待っている方がいい。並べ方の理屈は、それで足りると思う。
「配給の刻限ですわ」
と、あの人は言った。締めの余韻は、それで終いだった。窓の外では雪がまた降り始めていて、あの人は新しい帳面を小脇に、いつもの速さで階段を降りていく。列の最後尾に並ぶために。俺は半歩後ろを、いつもの距離でついていった。
量り場では、雪の中の行列がいつもの順で椀を受けていた。
配給、という言葉は、じつはもう半分だけの真実になっている。市が立ち、銭が回り、椀を買える家の方が多くなった。それでも冬の椀の順は残されている。残す理由を、あの人は一度だけ触れに書いた。順は、いちばん困る年のためにあるもの。困らない年に、練習しておくものですわ——。
ゲルダ婆さんの椀。北から来た母子の椀。水車の番を継いだ孫の椀。マルコの倅は、もう自分の足で列に立って、自分の椀を自分で受ける。ヨーゼフ司祭は列の中ほどにいて、祈りを食後に回している。慈悲と量りの折り合いは、ふたつ目の冬も椀の順で保たれている。杭の線の方からは、見回りを終えたヴェンツェルが来て列の尻に付いた。雇い兵の椀も、順は同じだ。湯気が雪に混ざって、子どもらの数え唄が白い息になる。列の最後尾であの人は自分の椀を受け取り、目方をひと目で検めて、何も言わずに啜った。慈悲を知らない女、と王都は呼ぶ。谷は、うちの代官様と呼ぶ。呼び方はふたつとも正しい。正しいふたつの呼び方のあいだに、この谷の生きている全部が挟まっている。
詰所へ戻る道すがら、墓地の坂を見上げた。
28の埋め跡は初雪の下で平らになって、掘り置きの窪みはもうどこにもない。列の端の一枠も、いまはよその土と見分けがつかない。それでもあの場所は、台帳の上ではひとりの傭兵の名前で押さえられたままだ。予約席の主は今朝も詰所の火の脇で、兵の帳を検めながら悪態をついていた。取り立ての日は、当分来そうにない。来なくていい。谷の帳面には、待たせている貸しがひとつあるくらいが釣り合いだ。
夜、詰所の机で、俺は月次の続きを書いた。
初雪、夜のうちに。雪掻きの組割り、恙なし。死の帳簿、締めて繰り越し。立会い、筆者。配給、通常の順——立会いの件で、一度だけ手が止まった。あの人の帳面に名が載ることがどういう栄誉なのか、100年先に伝わる書き方を、俺は持っていない。持たないまま、事実だけを書いた。事実だけで足りるのが、この谷の紙のいいところだ。窓の桟には雪が積もり始めている。今夜の雪は朝まで続くだろう。続いても、明日の組割りはもう決まっている。
書かないと決めていることも、ひとつだけある。あの人がこの数え方をどこで覚えたのか。谷は知らないし、紙にも残らない。知っているのは俺ひとりで、俺の頁の中だけで持っていく。書かないその一件が、俺の帳面のたったひとつの空欄だ。空欄の作法は、うちの領主に習った。
この紙を開く誰かは、帳簿の最後の頁の空欄を見て、首を傾げるだろう。だから、ここに書いておく。
あの欄が空のままなら、谷はあの人を守り切ったということだ。あの欄が埋まった日も、あの人は数の中にいる。どちらの日が来ても、この帳面の付け方に狂いはない。狂いのない帳面が何を守るのかは、王都の広間で見てきた。紙は嘘をつかされなければ、書いた者より長く戦う。この谷の紙には、嘘をつかされた頁が1枚もない。俺の墨の1行も、もう黒の下にはいない。
それから俺は、締めの行を書いた。この半年、書き方を探し続けた行だ。
『この谷の話を、どう締めるか。俺はこう書く。慈悲を知らない人が、ひとり、峠を越えてきた。その人は誰も憐れまなかった。代わりに、誰ひとり数え忘れなかった。俺たちは憐れまれなかった者の列で、今日も生きて、明日の順番を持っている。列の先頭の危険は譲らないくせに、椀は最後尾で受ける人が、列ごと俺たちを冬の向こうへ連れて出た。俺たちがついて歩いたのは、その背中だ。これからも、そうする』
書き終えて、読み返して、直すところが見つからなかった。ふた冬と半年ぶんの検算が、この数行の下に沈んでいる。
インクが乾くあいだ、蝋燭の火が細く鳴った。
窓の外で、雪が谷の屋根をひとつずつ白くしていく。どの屋根の下にも、帳面に名前のある寝息がある。明日の触れは、もう板に貼られた。館の執務室の灯りは今夜も点いていて、あの灯りの下では、新しい帳面の1頁目が埋まり始めている。最後の頁では空欄がひとつ、次の頁のない場所で番をしている。
谷の冬は、これでふたつ目になる。誰も、怖がっていない。




