第29羽「受け継がれる旅」
エルミアの朝は、どこか懐かしい匂いがした。
草に残る夜露の香り。煙突から出る焼きたてのパンの匂い。川のせせらぎの音。風に揺れる木々の葉音。
ミッツーが生まれ育った村、エルミア。
フィーネは家の窓を開け、ゆっくりと深呼吸した。
「……ここが、父さんの故郷なんだ」
五年前なら、きっと胸を弾ませてそう言っていただろう。
けれど今のフィーネは、ただ景色を見つめながら、静かに微笑んだ。
二十三歳になろうとしている彼女の横顔には、かつての無邪気さに加えて、旅の中で育まれた優しさと強さが宿っていた。
長い灰色の髪が朝の光を受けて揺れる。
大きなうさぎ耳がぴくりと動く。
あれから五年。
フィーネとミッツーは、更に旅を続けてきた。
最初は、本当の家族を探す旅だった。
けれど今では、その旅は少し形を変えている。
旅の途中で出会った、大切な人たち。
笑い合った仲間たち。
泣きながら別れた友人たち。
その一人ひとりに「ただいま」と言うための旅。
そして「また来たよ」と笑いかける旅。
そんな、温かな旅になっていた。
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アルネシア。
月猫亭の扉を開ければ、いつもルナの面影がそこにあった。
「ただいま!」
そう叫ぶと、
「おかえり!」
と、誰もが家族のように迎えてくれる。
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リュミエール。
雑貨屋ノルンの扉を開ければ、レティシアの笑顔が待っている。
親友となり冒険者となった彼女とは、いろいろな街で待ち合わせをするようになった。
それでも、この街に帰ってくるたび、
フィーネは最初に出会った日のことを思い出す。
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ランディア。
森の中で泣いていた小さな犬耳の少女。
キャリーは、今では立派に剣を振り、魔法を操るようになった。
「フィーネお姉ちゃんみたいな冒険者になる!」
その夢を、彼女は本気で追いかけている。
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セレーナ・テラス。
レティシアと、旅人として初めて再会した街。
海風の心地よさは今でも変わらない。
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セレスティア。
ドラゴン便に乗って空を駆けた街。
あの時の興奮を思い出すたび、フィーネは今でも笑ってしまう。一度、レティシアとも一緒にドラゴンに乗った。
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クレストン。
ハーフエルフのエレノアが静かに微笑む街。
自分の過去をすでに知っていた彼女に、
フィーネとミッツーは心底驚いた。
「さすが長生きのハーフエルフだね!」
そう言って、三人で笑った。
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そして今。
ミッツーの故郷、エルミア。
今日は、大切な人たちが集まっていた。
レティシア。
キャリー。
そして、ロケットペンダントの中には、いつものようにルナの写真。
フィーネにとって、かけがえのない仲間たち。
みんなで食卓を囲み、賑やかに笑い合う。
キャリーは元気いっぱいに話し、
レティシアは楽しそうに相槌を打ち、
フィーネはそれを見て何度も笑った。
そして、ひとしきり笑い声が落ち着いたころ。
ミッツーが、静かに口を開いた。
「……今日は、みんなに話したいことがある」
その声は穏やかだった。
けれど、どこかいつもよりゆっくりで、
少しだけ照れくさそうだった。
フィーネは箸を止める。
レティシアもキャリーも、自然と背筋を伸ばした。
ミッツーは苦笑しながら頭をかいた。
「俺……そろそろ、冒険者を引退しようと思う」
その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
フィーネの耳がぴくりと震える。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「……え?」
思わずこぼれた小さな声。
ミッツーは優しく笑った。
「気づけば、もう四十歳も近い。そろそろ、この村でゆっくり暮らしてもいいかなって思ってな」
冗談めかして言うその声の奥に、少しの寂しさと、大きな安心が滲んでいた。
フィーネは黙ったまま、ミッツーを見つめた。
七歳のあの日。
森で出会った優しい人。
ずっと隣にいてくれた人。
泣いている時も、笑っている時も。
不安な時も、嬉しい時も。
いつだって、自分の手を握ってくれた人。
その父さんが、旅を終える。
嬉しいはずだった。
だって、それはミッツーがようやく自分の人生をゆっくり歩けるということだから。
それなのに、胸の奥が少しだけ寂しくて、フィーネは唇を噛んだ。
そんなフィーネを見て、ミッツーは穏やかに続けた。
「でもな、旅が終わるわけじゃない」
そう言って、レティシアとキャリーを見る。
「これからは――フィーネ、お前たちの番だ」
レティシアの目が大きく開かれる。
キャリーの尻尾がぶんぶん揺れる。
ミッツーは微笑んだ。
「フィーネ。レティシア。キャリー。……そしてルナ」
フィーネは思わずロケットペンダントに触れた。
「四人で、新しい旅をしてみたらどうだ?」
その瞬間。
フィーネの胸の奥で、寂しさと温かさが一緒に溶け合った。
父さんは離れてしまうのではない。
父さんが、自分を信じて送り出してくれるのだ。
七歳の少女だった自分に向けてくれたあの優しい手が、
今度はそっと背中を押してくれている。
フィーネの目に涙が滲んだ。
「……父さん」
ミッツーは照れくさそうに笑う。
「もう、お前は一人でも十分旅ができる。いや、一人じゃないな」
レティシアが勢いよく立ち上がった。
「行きたい! 行きたいです!」
目を輝かせながら、両手を握りしめる。
「ずっと、ずっとフィーネと旅したかったんです!」
キャリーも椅子の上で飛び跳ねた。
「わたしも! わたしも行く! フィーネお姉ちゃんと一緒に!」
その元気な声に、フィーネは思わず笑ってしまった。
涙が頬を伝いながらも、
口元には大きな笑顔が浮かぶ。
ロケットペンダントをそっと握る。
「ルナ……これから、もっと賑やかになるね」
写真の中のルナが、
今にも優しく微笑み返してくれる気がした。
フィーネは立ち上がる。
レティシアの手を取る。
キャリーの頭を撫でる。
そして、ミッツーの前に立った。
「父さん」
呼びかける声は少し震えていた。
「ありがとう」
ただ、その一言にすべてを込めた。
育ててくれて。
守ってくれて。
旅をくれて。
たくさんの出会いをくれて。
そして今、未来をくれて。
ミッツーは、いつものようにフィーネの頭を優しく撫でた。
「行ってこい」
その言葉に、フィーネは大きく頷いた。
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翌朝。
エルミアの村の門。
荷物を背負った三人が並んで立っていた。
灰色の髪を揺らすうさぎ耳の女性。
赤い冒険者服を纏った女性。
犬耳を揺らして目を輝かせる少女。
胸元には、ルナの写真が入ったロケットペンダント。
門の前には、ミッツーが立っている。
いつものように穏やかな笑顔で、少しだけ目を細めて。
フィーネは駆け寄り、ぎゅっと抱きついた。
「行ってきます、父さん」
「おう。気をつけてな」
名残惜しく離れ、フィーネは仲間たちのもとへ戻る。
レティシアが笑う。
キャリーが尻尾を振る。
新しい旅の風が、三人の髪を揺らした。
フィーネは振り返る。
大好きな父さんが、そこにいる。
いつでも帰れる場所が、そこにある。
だから、安心して前を向ける。
フィーネは満面の笑みを浮かべ、
高く手を上げて叫んだ。
「みんな! 次はどこ行く?」
次回更新日から、外伝「このまだらの髪を揺らす風は」が始まります。(全5話)




