第1羽「森での出会い」
夕暮れの街道を、二つの影がゆっくりと歩いていた。
一つは、使い込まれた革鎧を身にまとった青年――いや、もう青年と呼ぶには少し落ち着きすぎた男、ミッツー・アルシアン。
もう一つは、灰色の長い髪を揺らしながら、その隣をぴょこぴょこと歩く兎の獣人の少女、フィーネ・ラビッシュ。
頭の上のうさぎ耳は、風を受けてぴくぴくと動き、腰の後ろの丸い尻尾が楽しそうに揺れている。
少女といっても、彼女はもう十七歳だ。
身長も伸び、ミッツーの肩に届くほどになった。剣の腕も魔法の腕も、そこらの駆け出し冒険者なら軽く追い抜いている。
けれど――。
「父さん、見て見て!」
道端に咲いていた白い花を摘んで、無邪気な笑顔で駆け寄ってくる姿は、十年前と何も変わっていない。
「ほら、うさぎの耳みたいでしょ?」
「ああ、本当だな」
「でしょ!」
嬉しそうに耳をぴょこんと立てる。
ミッツーは苦笑しながら、その頭を軽く撫でた。
フィーネは目を細め、気持ちよさそうに耳を寝かせる。
そんな何気ない仕草に、ミッツーの胸はじんわりと温かくなった。
――十年。
長かったような、あっという間だったような。
旅の目的は、ただ一つ。
フィーネの家族を探すこと。
それだけのために、王国の北から南へ、東の海岸から西の山脈まで、二人は歩き続けてきた。
だが、いまだ手がかりはない。
本当なら、とっくに見つかっていてもおかしくなかった。
あるいは、もう――。
そこまで考えて、ミッツーは首を振った。
考えるのはよそう。
少なくとも今、フィーネはこうして隣で笑っている。
それで十分だ。
フィーネは花を髪に差し、くるりと一回転してみせた。
「似合う?」
「ああ。よく似合ってる」
「えへへ」
その笑顔を見ていると、自然と十年前のことを思い出す。
まだ自分が駆け出しの冒険者だった頃。
剣の腕も半人前、治癒魔法もかすり傷を塞ぐのがやっとだった頃。
あの日、森の中で――俺は、一人の小さな獣人の少女と出会った。
その森は、街道から少し外れた場所にあった。
薬草採取の依頼を終えた帰り道だったと思う。
夕方になりかけていて、木々の間を吹き抜ける風が不気味にざわめいていた。
最初に聞こえたのは、小さなすすり泣きだった。
「……ひっく……ぐすっ……」
獣の鳴き声かと思った。
だが耳を澄ますと、明らかに子どもの泣き声だった。
「誰かいるのか?」
草むらをかき分けて進むと、一本の大木の根元に、小さな女の子が座り込んでいた。
灰色の髪。
長いうさぎ耳。
泥だらけの服。
そして、膝には大きな擦り傷。
目は涙で真っ赤に腫れていた。
「……っ!」
少女は俺を見ると、びくりと体を震わせた。
今にも逃げ出しそうな顔。
だが足に力が入らないのだろう、その場から動けない。
「大丈夫だ。怪しい者じゃない」
……いや、当時の俺の格好を思い出すと、十分怪しかった気もする。
それでもできるだけ優しく声をかけた。
「怪我してるな。ちょっと見せてみろ」
少女はしばらく警戒していたが、やがておずおずと膝を差し出した。
傷口は思ったより深い。
俺は両手をかざし、小さく呪文を唱えた。
「癒しの光よ、傷を閉じよ――ヒール」
淡い光が傷を包み、裂けた皮膚がゆっくりと塞がっていく。
少女の目が大きく見開かれた。
「……なおった」
「大した魔法じゃないけどな」
少女は膝を曲げたり伸ばしたりして確認すると、ぱっと顔を輝かせた。
「すごい!」
その笑顔に、思わずこちらも笑ってしまった。
「名前は?」
「フィーネ、フィーネ・ら…ラビッシュ」
「フィーネか。俺はミッツー・アルシアン」
「みっつー……」
まだ幼い舌で、ぎこちなく名前を繰り返す。
それだけで、少し距離が縮まった気がした。
「どうして一人なんだ?」
フィーネはうつむき、耳をしょんぼりと垂らした。
「お父さんとお母さんと……森に来たの。でも、はぐれちゃった」
「どれくらい前だ?」
「わかんない……いっぱい歩いた」
食べ物もほとんどなく、水筒も空だった。
ここまでよく無事だったものだ。
俺は空を見上げた。
日が沈みかけている。
こんな小さな子どもを置いていくなんて選択肢はなかった。
「よし」
俺は胸を張って言った。
「じゃあ俺が、一緒に探してやるよ。旅のついででよければな」
フィーネは目をぱちくりさせた。
「……ほんと?」
「ああ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、フィーネの耳がぴんと立った。
「じゃあ、一緒に行く!」
あまりにも迷いのない返事に、俺は思わず笑ってしまった。
「即決だな」
「うん!」
小さな手が、そっと俺の指を握る。
その手は冷たくて、かすかに震えていた。
「もう、ひとりじゃない?」
「ああ。もう一人じゃない」
そう言うと、フィーネはようやく安心したように、くしゃっと笑った。
あの時の笑顔は、十年経った今でも変わっていない。
宿に着くまでの道中、フィーネは何度も眠そうにしていた。
最後には俺の背中で、すうすうと寝息を立て始めた。
小さくて軽い体。
時折ぴくりと動く長い耳。
背中越しに感じる温もり。
その時の俺は、まさか十年後もこの子と一緒に旅をしているなんて、想像もしなかった。
⸻
「父さん? どうしたの?」
フィーネの声で、ミッツーは現在へと引き戻された。
気づけば、ぼんやりと彼女を見つめていたらしい。
「いや、初めて会った時のことを思い出してた」
「森で助けてもらった時?」
「ああ」
フィーネは照れくさそうに笑った。
「私、いっぱい泣いてたよね」
「泣き虫だったな」
「今は違うもん」
「そうだな。強くなった」
剣も魔法も、そして心も。
それでも時折見せる無邪気な笑顔は、あの日のままだ。
ミッツーは優しく微笑み、灰色の髪を撫でた。
「……大きくなったな」
フィーネは少しくすぐったそうに目を細める。
その顔は、もう小さな子どもではない。
けれど、ミッツーにとっては、今でも森で出会ったあの小さな女の子のままだった。
夕陽に照らされた街道を、二人は並んで歩いていく。
風が吹き、フィーネの耳がぴょこんと揺れた。
そして彼女は、いつものように満面の笑みで振り向く。
「父さん、次はどこ行く?」
その問いに、ミッツーは少しだけ考えてから、笑って答えた。
「さてな。行きたい場所があるなら、どこへでも付き合うさ」
フィーネの尻尾が、嬉しそうに大きく揺れた。
こうして今日も、父と娘のような二人の旅は続いていく。




