第75話 手に残る星空とつかめない星
会場を満たしていた熱気が、潮のように引いていく。
昼のざわめきは遠ざかり、窓の外では橙の光が藍に溶けていった。
ルザリオの展示区画では、撤収作業が進んでいる。
梱包用の木箱が床を滑り、金具の擦れる音や、魔導具の封印を解く呪文の声が重なっていく。
先ほどまで人の熱気で満ちていた空気が、少しずつ冷えていくのがわかった。
エリセは天球儀を片づける前に、もう一度その光を確かめていた。
(……これ、買ってよかったな)
掌の上で星々の石がやわらかく瞬く。
その光が、今日の出来事をすべて肯定してくれるようで――ほんの少し、胸が温かくなる。
「エリセ、片づけはそろそろ終わるか?」
同僚の声に「はいっ」と返し、木箱を抱えたときだった。
「やぁ、まだいたんだね」
振り向けば、鉄灰色のロングコートを羽織ったラゼル=ネイムが立っていた。
裾が少し焦げている。……いや、たぶん午後の爆発騒ぎの犯人だ。
「今夜のうちに出るよ。挨拶だけでも、と思って」
「えっ、もう?」
ラゼルは、いつもと同じ軽やかな笑みを浮かべながら肩をすくめる。
「うちの連中はまだ片付けがあるから明日までいるけど——“氷像アート”、無事に解凍できたよ。
あの温度を時間指定で制御するとか、中にいる人間が体調崩さないとか、どれだけ精密な凍結陣描いたんだよ。
術式が気になって仕方ないって、うちの連中がそわそわしてた。……あれ、ナトの仕業だろ?」
「そ、そんなこと――」
「もちろん、うちの魔術師には教えないけどね」
さらりと笑ってから、ラゼルの視線がエリセの手元を射抜いた。
「それは?」
「え、これ? 今日買ったんだ。綺麗で……」
「……ナトの工房のに、似てるな」
その一言で、心臓がひゅっと縮んだ。
ラゼルは、少しだけ視線を逸らし、低く続ける。
「別に驚くことでも、焦ることでもないんだ。――あいつは基本的にモテるから」
「……顔がいいからでしょ!」
思わず言い返すと、ラゼルは穏やかに笑った。
「なんだ、まだその位置か」
彼は一歩、距離を詰める。
風が揺れて、エリセの髪の先が肩にかかる。
その色――光の加減で亜麻色 とも金ともつかない淡い色に、ラゼルの指先がそっと伸びた。
耳の後ろに落ちた一筋を直すふうをして、指先がほんのわずかに触れる。
「……耳、赤い」
低く笑って、彼はそのまま囁くように言った。
「エリセ、気付いてる?
人がナトに出会うのって、空の星を掴むより稀有な祝福だよ」
(――祝福?)
喉が動かない。
その言葉に、胸の奥で何かがきしんだ。
“もう二度と会えない”――そんな予感が、形もなく押し寄せてくる。
(……今日の展示会、先生がそばにいてくれたのって……もしかして)
(別れの……挨拶、だったの?)
信じたくなくて、指先をぎゅっと握る。
けれど光景が脳裏をよぎる――無言で佇む背中、ただ横を通り過ぎたときの気配。
それらすべてが、どこか「最後」のように思えてしまって。
そのとき、明るい声が割り込む。
「ラゼルさん、こんばんは! 展示会への参加ありがとうございました!」
レジットだ。
手には書類を抱え、にこやかに駆け寄ってくる。
「明日、何時に発たれるんです? 見送りに――」
「今から立つ。見送りはいらないよ」
ラゼルは軽く手を振り、踵を返す。
「面白い展示会だったよ。支部長にもよろしく」
夕暮れの光が、その背を飲み込んでいった。
(……待って)
声にならなかった。
“今日、先生が一緒にいてくれたのは、もしかして――”
胸の奥で、その思いだけが燻り続ける。
静寂が落ちたあと、レジットがぽつりと口を開く。
「……やっと、話せそうだな」
雪色のローブ風白衣の袖をまくり、魔術具の保護布を畳む。
昼間と同じ穏やかな仕草なのに、目だけが真剣だった。
「……少し、時間いいか。ちゃんと話がしたくて」
その声を聞いた瞬間、エリセは指を止めた。
何かを言おうとしたのに、喉の奥で音がほどけていく。
頭の中が真っ白で、思考がどこにも繋がらない。
「……今から食事に行かないか?」
その言葉で、胸の奥に溜めていた何かが崩れ落ちた。
目の奥が熱い。視界がにじむ。
「い……今、は……こま、ぅ……」
唇が震える。
でも言葉は出ない。
ただ、顔を両手で覆い、首を振る。
レジットが慌てて息をのむ。
「……え? あ、いや、違う、そういう意味じゃ――」
声が届かない。
エリセはただ、うつむいたまま、かすかに頭を振り続けた。
沈黙。
会場の外では、片付けの物音だけが遠く響いている。
展示台の陰で、黒い影が床を走った。
撤収用の布の下、小さな蛇――ネクレオスが微かに尾を振る。
(……あんなちっちゃい子に意地悪せんでもええやん)
その呟きは、静かで、どこか「またか」と言いたげな溜息を含んでいた。
細い舌が空気を舐める。
黒い瞳が、遠くの光を一瞬だけ追う。
夜がすぐそこまで迫っていた。
展示会の明かりが次々と落ち、
天球儀の星たちだけが、エリセの手の中でかすかに瞬いていた。




