第61話 無意識の手が紡ぐ、結び直された縁
ひび割れた空が、銀色の木々を不気味に照らしていた。
ここは《忘却の庭》。古の賢者「テオフラストゥス」が、星々が生まれる霧——『ネビュリス』を模して造った境界の地。
だが、その傲慢は神々の呪いを呼び込んだ。
大地には異形の獣と亡霊が溢れ、毒めいた草花が咲き乱れる。
そして踏み入れた者からは、必ずひとつ、大切な記憶を奪う。
ツィグナトは迷いなく進んでいた。
目当ては《忘離の鈴》。
古の賢者「テオフラストゥス」がこの庭に隠した、望んだ記憶を消すための星界魔術具だ。
彼にとっては、魔術回路に組み込む素材にすぎない。
この土地に染み込む神々の呪いも、彼には届かない。
記憶の欠落を恐れることなく、足を進める。
——その時、霧の向こうに灯が揺れた。
少女だった。
霞んだ輪郭で歩き、額の周りには呪いの霧がまとわりついている。
そして彼を見つけるなり、声を上げて駆け寄ってきた。
「レジット! ……嬉しい、会いに来てくれたの?」
顔を胸に押し付け、細い腕で必死にすがりついてくる。
ツィグナトは眉をひそめた。
「……誤認だ。俺にその記憶はない」
この辺りに幻覚を誘う毒素は存在しない。
では——何が彼女に幻を見せている?
答えはすぐに目に入った。胸元で淡く明滅する灯火。
「……それは」
見覚えのある魔術具だった。
《理想収斂の灯》
所有者の願う場所を指し示す——はずの道具。
かつて気の置けない友人に、「困ったら会いに来い」と渡したもの。
結局その友人は現れなかったが。
ツィグナトは切麻を撒いて呪いの霞を払うと、静かに問いかけた。
「それを、どこで手に入れた」
「……あたしのよ。家にあったの。——知ってるでしょ?」
返答はしっかりしている。霞が薄れ、記憶の溶解は収まったらしい。
だが目の奥はまだ濁っている。呪いではない。
ツィグナトは《灯》の輪郭がわずかに揺れるのを見て、合点がいった。
(……俺を恋人に見せているのは、こいつか)
彼女の失った記憶の空白を埋めるため、魔術具が勝手に幻を映している——異常な挙動だ。
「君が”見たいもの”を、その《灯》が見せている。俺は恋人じゃない」
吐息を混じらせて、淡々と告げる。
「……魔術具に依存するな。魔力の代わりに情を取り込めば、魔術具は呪具に堕ちる」
少女の胸元から《灯》を奪うと、灯火が震え、空気が弾けた。
次の瞬間——無数の花弁が舞い散る。
鮮やかで甘やかで、だが執拗に絡みつく恋情の花。
ツィグナトは苛立ちを隠さず、低く呟く。
「鬱陶しい……」
指先でランプの側面に刻まれた古い印に触れ、魔術具を初期化する。
刻まれた印の古めかしさに、経た時間がかすめた。
奔流の光は世界を塗り潰し——やがて静かに沈黙した。
所有者は当然、製作者であるツィグナトに戻る。
何故か裏切られたような顔で見上げる少女に返すも、もはや従わない。
(どうせすぐ堕ちていた。これも運命だ)
踵を返そうとした、その時——。
「ねえ、教えてよ!」
少女の声が彼を引き止めた。潤んだ瞳が、真っ直ぐに射抜く。
「何を差し出したら、振られないの?
恋人に逃げられない方法——教えてください!」
「……は?」
ツィグナトの思考が止まる。
幾多の魔術理論を扱ってきた彼には、あまりに場違いな問いだった。
だが、その隙を衝くように、少女の言葉は奇妙に力を帯びる。
セラフィスの神力が言葉に乗り、ツィグナトを縛るほどの強度を帯びたのだ。
「……ちゃんとした愛し方、覚えたい。大丈夫。教えてくれなくても——見て、覚えるから」
「……?」
ツィグナトは短く吐息を洩らし、肩をすくめた。
(……まぁ、瑣事か)
《忘離の鈴》を探すついでに、面倒が一つ増えただけ。
そう考えて、彼は少女を伴って歩き出す。
だが——。
勝ち気で、必死に理解しようと食らいつく姿は、予想以上に目を引いた。
そして別れの時。
気づけば、彼は名を与えていた。
「ツィグナトが命じる。対象:エリセ。
光路を開け。——『アストルネアへ』」
彼はそっとエリセの背を押し——気づかれぬように護りを添えた。
それは無意識の仕草だったが、確かに彼女と彼との縁を結び直していた。
かつて、彼が友人にこそ渡したかったものを。
いま、彼は少女へと託していた。
『アストルネア』……星々の下で暮らす者たちの世界の名称。エリセ達が暮らす世界。(第24話 扉のむこう、あの人がいない世界へ )より




