第53話 影の嫉妬と蛇の襲来
やがて会議は解散し、重苦しい空気を抱えたまま職員たちは散っていった。
――ちょうどその頃、展示ホール第二区画。
封印術式の再構築を行う予定の保管庫の前で、ツィグナトとラゼルは事前の確認をしていた。
ラゼルの後ろにはイリディアもついてきている。
エンリルの歯車が暴走した際に砕けた封印陣は、今もなお床一面に散乱している。
光の線はほつれた糸のように複雑に絡み合い、時おり脈動しては明滅していた。
まずはこの残骸を完全に取り除いてから、新たな術式を刻む必要がある。
「……こりゃあ骨が折れるね」
ラゼルが感心したように呟いた、その時だった。
ツィグナトが腰に下げていた革袋がふわりと揺れ、中から白銀の蛇が飛び出す。
そして床に着地するや否や、蛇はポフンと人型に変化した。
「ふん、何が難解じゃ。こんな稚拙な構造、余ならば片手間で書き換えて――」
胸を張って前に進み出たのは、もちろんセラフィスである。
長い銀の髪を揺らしながら、勝ち誇った笑みを浮かべ、指先に魔力を集める。
「……余計なことをするな」
低く響いた声と同時に、黒い手が伸びた。ツィグナトの無表情な横顔。
掴まれたセラフィスの顔は、見事なアイアンクロウに拘束される。
「イタタタタタタ! ま、待つのじゃ! わ、わかったのじゃ、すまんのじゃ!」
必死に首を振るセラフィスをしばし見下ろし、ツィグナトは誰も見ていないことを確認すると無言で窓を開け、そのまま彼女を放り投げた。
ポスッ。
外に落ちた瞬間、白銀の蛇へと変じたセラフィスがすべべと窓の下へ逃げていく。
残された沈黙を破ったのは、イリディアの小さな咳払いだった。
「……話を戻そう。封印式の再構築は、坊ちゃんが指揮するのだな」
凛とした声音に、場の空気がようやく落ち着きを取り戻す。
その間、ツィグナトは窓辺にナイフを当て、サッシの際に細かな文字を刻みつけていった。
(蛇除けの呪いまで……)
ラゼルがカラカラと笑ってこぼす。
「容赦ないなぁ」
だがセラフィスは諦めない。
「ふふん、余を追い出せると思うてか! 見ておれ、今度こそ――」
再び窓に跳びかかる。
バイィィンッ!!
刻まれた蛇除けの結界に弾かれ、逆方向へ飛んでいく白蛇。
またもや庭に「ドサッ」と落ちると、ぷるぷると尻尾を震わせて抗議の声を上げた。
「ひ、卑怯なのじゃああぁぁ……!」
こうして下調べは何事もなかったかのように終わり、オルディアからの返事を待つこととなった。
◇◇◆◇
石造りの回廊を抜けると、陽を浴びた中庭が広がっていた。
噴水の水音と、秋草の香りを運ぶ風。
花壇の縁に腰を下ろす外国人や職員の姿もあり、さきほどまでの緊張とは別世界のように穏やかだった。
エリセは展示会準備の補助にあたるため、作業班へ合流すべく歩いていた。
印刷所から上がったばかりのパンフレットの校正刷りを小脇に抱え、きょろきょろと周囲を見回す。
ふと、休憩中のラゼルとツィグナトの姿が目に入った。
エリセはパンフレットを抱え直し、微笑みを浮かべながらそっと歩み寄る。
「ネイムさん、設計図見たよ。お疲れ様! 夜、ちゃんと寝れてないの大丈夫?」
ラゼルは片手をひょいと広げて見せ、微笑む。指先でパンフレットの端を軽く引っ張り、無意識にエリセをちらりと見たその目に、少しの好意が混ざる。
「フフン、余裕だね」
軽く鼻で笑うように、ラゼルが言った。
エリセはにやりと笑い、小さな指先がラゼルの腕に触れそうで触れない距離でパンフレットを押さえる。
「タフだなぁ、わかった! 先生も手伝ったでしょ? あたし最近気づいたんだ。先生とネイムさん、実はかなり仲いいんでしょ」
ツィグナトは視線をそらし、わずかに肩を落とした。その沈黙が、逆に彼の存在感を際立たせる。
「……」
ラゼルが軽快にかぶせた。
「そうそう! エリセ、よくわかってるじゃん♪」
その様子を中庭に近い廊下の影から、レジットがじっと見ていた。
胸の奥に、ざらつくような違和感が広がっていく。
理由はわからない。ただ、エリセが自分の知らないところで見知らぬ男に笑みを向ける光景が、妙に落ち着かない。
気づけば、抑えきれない小さな苛立ちが、胸の内でじわじわと膨らんでいた。
ふと、脳裏に昔の記憶が蘇る。
――あの頃、エリセは何かと俺に張り付いてきた。
朝には勝手に机を片付け、昼には弁当を差し出した。
さらに夜、研究を続けていると、眠そうな目をこすりながら「一緒にいる」と座り込む。
深夜の研究後には、机の上に「今日も一緒にいてくれてありがとう」と書かれたメモと、まだ温かいスープが置かれていたこともあった。
本当に余計なことばかりしていた。
だが、あの日のことは、今も忘れられない。
難しい実験に没頭していた俺に、エリセは一晩中、付き添っていたのだ。
気づけば彼女は机に突っ伏して眠り込んでいた。
その腕には、拙い字でびっしりと書かれた「作業手順の写し」。
俺が少しでも楽をできるようにと、徹夜でまとめていたのだ。
あの瞬間、胸の奥が冷たくなった。
――これは、重い。
「……お前の気持ち、重たい」
そう突きつけて、突き放した。
エリセの笑顔が凍りついた光景は、今も鮮明に焼きついている。
それなのに。
それなのに、今、他の男に向ける笑顔を目にすると――胸の奥で、冷たさと苛立ちが入り混じり、渦を巻いた。
レジットは小さく舌打ちをし、背を向ける。
まるで、自分の心の矛盾から逃げるかのように。
……それから数刻後。
魔術具保管庫では、慌ただしい人の出入りが続いていた。
「納期は――明日の朝までだ」
ラゼルが淡々と告げると、オルディア技師や魔術師たちの顔が一斉に青ざめた。
「え、えぇっ!? そんな短時間で封印術式の再構築なんて…」
「無理もない。
だがルザリオの展示会に間に合わせる必要がある。
なにより、いつまでもルザリオにもヴァレクシアにも引け目をもちたくないだろう?」
ラゼルは設計図を広げ、符文の修正点を次々と示し、指示を飛ばす。
現場は瞬く間に戦場と化した。
オルディアの技師や魔術師たちは工具を手に、魔術陣を組み直し、符文の再刻を始める。
ルザリオ、ヴァレクシアと両国から派遣された監視役が眉をひそめ、口を挟もうとしたが――
「まずやってみろ。結果で判断する」
ラゼルの一喝に、誰も手を止められなかった。
通路を歩いていたエリセとレジットは、その騒然とした保管庫の光景を目にする。
必死に動く技師たちの中心で、冷静に采配を振るうラゼルの姿があった。
(ああ……彼、こんな風にみんなをまとめるんだ)
エリセは思わず感嘆の息を漏らす。
だが隣のレジットは冷ややかだった。
「あの男はいないな。
……ふん、ラゼルさんに特別扱いされているようだが、こういった作業には役立たない程度の術士じゃないか」
鋭い視線が横に流れ、エリセを射抜く。
「お前も、どこにも所属していないような魔術師を、あまり信用するな」
レジットは苦笑いを浮かべていたが、その目はただ真剣に、エリセの反応を追っていた。
(もしかして先生のこと?……ど、どう返したら……)
困惑して視線を逸らそうとしたその時――、
ポスリ。
「……え?」
天井から黒い蛇が落ち、レジットの肩に着地する。
「ぎゃ――――――――――っっ!!」
エリセの絶叫が保管庫に響き渡った。
レジットを置き去りにして、彼女はすごい勢いで廊下の奥へ駆け出していく。
取り残されたレジットの肩で、蛇――ネクレオスが、つぶらな瞳を瞬かせていた。
「……は?」
レジットの眉間に深い皺が刻まれる。
保管庫の喧噪の中で、妙に間の抜けた静けさが訪れた。




