第48話 聖樹の光を阻むもの
工房の扉を押し開けた途端、冷ややかな風が頬を撫でた。
外は夜――だが、エリセの知る夜ではなかった。
闇はない。
広がっているのは、墨を流したような宵の帳ではなく、光そのものに満ちた虚空だった。
無数の星が、空からではなく、霧のように漂い降りてくる。
手を伸ばせば指先に触れるほど近く、呼吸に混じって胸の奥にまで落ちてくるほどに。
(……夜、なの?)
エリセの胸が震えた。
彼女の知る夜は、地平線に沈んだ太陽の残滓が空を染め、やがてひとつひとつ星が瞬きはじめる――
そんな、静かで穏やかなものだった。
だがここには移ろいがない。
最初から、世界そのものが星でできている。
足もとには、淡く青白い霧の海が揺らめいていた。
それが雲なのか、それとも別の物質なのか判別もつかない。
ただ、その底からも星が湧き上がり、頭上へと昇っていく。
「……ここは、『ネビュリス』。
『星々が生まれる霧のような空域』とか、『滅びの楽園』って呼ばれることもある。」
ラゼルの声音はどこか硬く、畏敬を含んでいた。
エリセは息を呑むしかなかった。
目にするすべてが、絵画よりも夢よりも現実離れしている。
まるで世界の基盤そのもの――“夜”という概念を作り出した原型が、ここに存在しているかのようだった。
(星が降ってくる……天窓から見えたのも、この光景だったんだ……)
けれど、工房の中で見上げたそれはただの幻想のように思えた。
今は違う。
足元から頭上まで、己を包むこのすべてが現実であると――
圧倒的な実感をもって理解させられる。
外の光景に呑まれ、しばらく言葉を失っていたエリセは、隣に立つセラフィスを見上げた。
「……あの、工房でいろいろお世話になって……ありがとうございました」
声が小さく震えていた。
セラフィスはちらりとこちらを見やると、肩をそびやかした。
「別に余が望んでやったことではない。
……ただ、ナトに頼まれたからにすぎぬ」
ツンとすましながらも、その声音にはわずかな照れがにじんでいた。
「それでも……本当に助かりました」
エリセはもう一度深々と頭を下げる。
そして、ラゼルの方へ視線を移し――そこから慌ててまたセラフィスの方へ戻した。
ラゼルが同行してくれると聞いて心強いのは確かだった。
だが、彼の相貌は秀麗すぎて何かにつけて気後れする。
それに異性だし。
怖いわけではない、けれど――「頼み事」はとても言えなかった。
「あなたみたいな……かわいらしい子が一緒にいてくれて、うれしいです」
勇気を振り絞るように、エリセは囁いた。
「……あの、手……つないでもいいかな?
ここ、すごくきれい……なんだけど、きれいすぎてちょっと、心細くて」
その言葉に、セラフィスは目を丸くした。
「か、かわいらしいだと……?
余に向かってなんと不遜な!!!」
頬にかすかな赤みを浮かべながらも、次の瞬間、彼女は小さくため息をつく。
「……し、仕方あるまい。
怖いなどと口にされては、余が放っておけぬ」
そう言って、セラフィスはそっと彼女の手を握った。
その掌は華奢で、しかし驚くほど温かかった。
(なんかこの子レオ君に似てる)
怖いって言ったら一緒にいてくれた黒い髪のあの男の子――。
エリセは胸の奥に力が戻っていくのを感じ、心の底からほっと息をついた。
ここでやっと平常心を取り戻したエリセは思い出す。
(待って……『星々が生まれる霧の楽園』――そう呼ばれていた本を読んだことがある。
そこには“世界を超える聖樹が育つ星域”があるって……)
視線の先に広がるのは、銀色に霞む星雲のただなか。
そこに無数の樹々が並び立ち、どの枝も葉も、まるで星明かりそのものを結晶にしたかのように輝いている。
エリセは思わず息を呑んだ。
――これが、伝承に語られる聖樹《銀樹》。
祈りの象徴として聖典にも歌にも詠まれ、決して人の手で触れてはならぬとされてきた存在。
「……ここが!!
……まさか、本当に、あるなんて」
声は震え、胸の奥で高鳴る鼓動を押さえきれない。
しかし、そんなエリセの感動をよそに――。
銀樹の根もとへ軽やかに歩み寄ったラゼルは、ためらいもなく枝へと手を伸ばした。
ポキッ。
パキッ。
バキィッ――!
まるで街路樹の枝を折るかのように、無造作に小枝を手折っていく。
エリセは目が飛び出るほど驚き、悲鳴を上げた。
「ぎゃっっ!!!
な、なんてことをするの!
こんな貴重で、かけがえのない聖樹に!」
エリセは息を呑み、声を震わせた。
叱責ではなく、必死に縋るような叫びだった。
だがラゼルは涼しい顔で肩をすくめる。
「ここじゃ特に珍しくないかな。
――はい、一人一本ずつ持って」
そう言って折り取った小枝を差し出した。
セラフィスがそれを受け取り、軽く振る。
すると、折られた枝の先から零れ落ちた光の粒が宙に舞い上がった。
銀砂を散らすようにきらめく粒子は、やがて織機の糸のように絡み合い、眼前に橋を編みはじめる。
儚く、風に吹かれれば消えてしまいそうで――
それでも確かに、「星々の下」と「星域」を結ぶ道となっていった。
その奇跡を前に、エリセはただ言葉を失った。
胸の奥に畏れと憧れが渦を巻き、抗えないほどの静寂に飲まれていく。
「……銀河の渡橋という。
ネビュリスとお前の世界をつなぐ星の回廊じゃ。
だが、人の身で触れてよいものか」
セラフィスは眉をわずかにひそめる。
一方ラゼルは笑みを浮かべたまま、枝を掲げて振り返った。
「これは何度も使えるものじゃない。
だからエリセがいる今、こっちを選んだんだ。
……小枝を軽く振るだけで起動するから、お手軽だよ」
あまりに軽やかな言葉に、エリセは返す言葉を失っていた。
神話の奇跡に立ち会う畏れと、目の前の男の飄々とした態度――
その落差が大きすぎて。
ラゼルは枝をひと振りした。
「さぁ、君も――ん?」
光が展開しかけ、すぐに霧散する。
「……あれ?」
彼は笑みを崩さず、もう一度振った。
だが、同じ結果。
光は掻き消えるように消え――ただ張り詰めた気配だけが残った。
「……どういうことだ……?」
ラゼルの声は自然と震え――その響きに、エリセの胸の奥に冷たいものが広がっていく。
セラフィスもただならぬ気配を悟り、足を進めてラゼルの傍らに立った。
その金の瞳が細く鋭く光を射抜く。
「ラゼル。――回廊の開通を阻んでおるのは……呪いの気配じゃ」
セラフィスの声は冷たく鋭く、場の空気を断ち切った。
それでもラゼルは穏やかな声音で、無理に貼り付けた笑顔のまま振り返る。
「もう少し時間をもらってもいいかな、エリセ。
心配しなくても大丈夫だよ」
その響きの奥に走ったかすかなひびを、エリセだけが聞き取った。
胸の奥が痛んだ。
けれど同時に、心のどこかで抗いがたい衝動が騒ぎ出す。
――もっと見ていたい。
この場に刻まれた伝承の残響も、光の橋も。
自分がずっと探し続けてきた「古代の痕跡」が、目の前に広がっているのだから。
その思いを呑み込み、エリセはセラフィスの手を強く握り返した。
笑顔の裏に隠された痛みに応えるように。
探究心と心配とがせめぎ合い、喉の奥で言葉にならず溶けていった。
ひと呼吸置いて、彼はふっと吐息を漏らす。
そして変わらぬ笑顔のまま、セラフィスを見つめた。
「セラフィス。……工房に戻ろう。
君の目で、ナトと僕を調べてほしいな」
あまりに自然な口ぶりだった。
けれど――その穏やかさの奥に潜むひび割れに気づいたエリセは、セラフィスの手を握る自分の指にぎゅっと力を込めていた。
ラゼルの笑顔は、最後まで崩れなかった。




