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第35話 盗難事件とその幕開け

術式技術規正機構、ルザリオ支部──。

石造りの壁に魔力障壁の文様が這う、厳めしいその庁舎の最上階。

穏やかな昼下がりの光が差す応接室で、男は椅子の背もたれに体重を預けながら、憂いを帯びた溜息をこぼしていた。

支部長、ターバリ=スカルプ。

年季の入った研究者然とした男で、茶色い髪は撫でつけても撫でつけてもきちんと収まらない。いや、それ以前の問題だった。

──明らかに、毛量が危機的だ。

窓からの逆光が彼の頭頂にふわりと舞う細い毛髪を照らし、その背後で佇む秘書官が、見てはいけないものを見るように目を逸らす。

抜け毛の残骸は、気づかぬうちに絨毯の上に小さなパッチワークを形成していた。

だが、ターバリ本人は気にしていない。いや、気にしている余裕がないのだ。

展覧会の開催が間近に迫る今、彼の悩みの種は二つあった。

展示品の主軸選定と、つい先日発生した《煌霊炉こうれいろ》騒動の後始末。

そして本日、新たに加わった最悪の一報が、彼の毛根にとどめの一撃を与えようとしていた。

──盗難。

しかもそれは、よりにもよってヴァレクシアが出展予定だった、古代魔術具《エンリルの歯車》の喪失という、致命的な事件だった。

あの孤高の軍事国家、ヴァレクシア。

強硬で秘密主義。隣国オルディアとは古くから技術開発と情報戦で火花を散らしてきた。

国境線一つ隔てた二国の仲の悪さは、三国会議の議場ですら話題になるほどだ。

そんな彼らが、魔術具展覧会という“建前”の平和の場に協力してくれるという奇跡を、ルザリオはなんとか繋ぎ止めていた。

だが今、その奇跡が音を立てて崩れつつある。

案の定、事件発覚から半日と経たずに、ヴァレクシア側からは激しい非難が飛び交った。

「主催国としての責任を果たせていない」

「警備体制に欠陥があった」

「このままでは我が国の技術が流出する」

当然、矛先はオルディアにも向かう。

「オルディアが盗んだのではないか」

「ラゼル=ネイムが裏で動いているに違いない」

「もしくは、その腰巾着どもが──」

そんな不穏な空気が渦巻く中、ルザリオ支部に、ある男がやって来ていた。

──ヴィステ=ゼルハイム。

オルディアから派遣された監査官。

元は高位魔術具開発部に籍を置いていた一流の技術者だが、今はその椅子を降り、粛々と“監査”を行う立場にある。

応接室の扉が開かれた瞬間、ターバリは立ち上がり、彼を出迎えた。

「いやぁ、ゼルハイム監査官。ご足労いただき申し訳ない……トップマイスターのラゼル=ネイムさんに加えて、次席のあなたのような優秀な方にまで来ていただけるとは、なんとも心強い限りです!」

快活な笑顔を浮かべながら、彼は本心からの言葉を告げた。

だが──。

「…………」

ヴィステの眉がピクリと動く。

拳を、一瞬握りしめる。

──次席?

そう言われた瞬間、胸の奥に凍えるような怒気が走った。

かつて、オルディアで自分が主導していた大型魔術具プロジェクトを、「劣化模倣」「非効率」「星界構造の誤読」と論破して潰した男、ラゼル=ネイム。

その名を“上席”として聞かされるたびに、彼の内側は軋む。

(……なぜ、あの気まぐれなトリックスターが今も英雄扱いなのか)

しかし、その怒気にまったく気づかず、ターバリは朗らかに語り続ける。

「現在、我々術規在籍の研究員と、ルザリオ騎士団が協力して全力で事件を追っています。開催日までに、必ず犯人を──」

その言葉の最中だった。

ハラリ。

音もなく、支部長の頭頂から一本の髪が舞い落ちた。

彼自身が気づかなくとも、彼の毛根だけは気づいていた。

図らずとも踏みぬいてしまった――残火。



それは、何かを引き金にする音でもあったのだろう。

静かだった展示ホールの片隅が、かすかな燻りのようにざわめきはじめる。

怒りは導火線のように自国のブースへと波及し、

積もり積もった不信と疑念が、いつしか確信へと姿を変えていた。

 

 

◆ ◆ ◆


 国家同士の罵声が飛び交っていたのは、オルディアの展示ホール出入口付近の通路だった。

空調の効いたはずのその一角は、熱気と苛立ちにすっかり包まれていた。

 「お前たちがやったんだろう! ラゼル=ネイムの腰ぎんちゃくどもめ!」

 「ふざけるな! 我が国が誇る頭脳に、他国の技術なんて必要ない!」

 「盗人が偉そうに! オルディアなんて技術泥棒の温床じゃないか!」

 「ネイムの功績なんぞ、偶然と誇張の産物だろう。奴はただの、気まぐれな道化師だ!」

 その怒声に、誰一人として笑わなかった。

 各国の技術者たちが、互いの肩書きではなく、技術そのもので殴り合う場。

 そこには、技術者の矜持と国家の積年の怨嗟が、うねるように渦を巻いていた。

 ──過去。

 ラゼル=ネイムの名が世界を駆け巡った頃、オルディアはそれを好機ととらえ、技術大国としての優位性を外交に利用しようとした。

 一方、ヴァレクシアはその動きを「横暴」と受け取り、ラゼルの研究資料にたびたび不正アクセスを試みていた。

 「だが、その構造は破綻していた」

 「非効率で、規格外で、意味不明だった」

 「だから、役に立たない。理解不能だ」

 ──理解できなかった。

 それが、彼らの“評価”だった。

 だが、それこそが革新の証なのだと、ラゼルだけは知っていた。

 「……彼が“天才”と呼ばれた理由は、誰かの脚本だったんだろうよ」

 誰かがつぶやいたその言葉に、誰一人反論しなかった。

 なぜなら――

 当の本人、ラゼル=ネイムが、いまだに“答え”を語らないのだから。

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