第33話 刻まれていた邪悪なアレ
ルザリオ支部、魔術具鑑定室。
エリセが初めてその部屋に足を踏み入れたとき、最初に思ったのは「狭い」だった。
白壁に囲まれた十数畳ほどの空間に、大小の作業机と資料棚が押し込まれていて、隙間なく詰め込まれた魔術解析器具が圧迫感を与えてくる。
そのせいか、呼吸が浅くなる。
でも今日の息苦しさは、たぶん機材のせいじゃない。
――鑑定室の空気が、張り詰めている。
七人の鑑定士が作業台を囲み、その周囲を補佐研究者や嘱託職員たちが固める。
その視線の先、静かに固定台に横たえられた魔術具。それが、エリセの相棒《紅蓮の牙》様だった。
その場に、無理を押して顔を出していたルザリオ支部長は、蒼白い顔色のまま椅子に半身を預けていた。
「……これだけは、自分の目で確かめておきたくてな」
支部長の声は覇気がなく、痩けた頬に深い疲れが滲む。連日の《煌霊炉》事件で魔術監察局とのやり取りに追われ、明らかに消耗しているのが見て取れた。
そして、《紅蓮の牙》の再鑑定が中盤に差し掛かったとき――
部屋の空気が、凍りついた。
「ひぃっ……!」
エリセが小さく息を呑んだのと同時に、部屋の誰もが声を失う。
術具から滲む“気配”。
それは呪力でも瘴気でもなく、“知覚されざる何か”。
空間そのものを縛り上げるような、理解を拒む、異質の圧。
「……なに、これ……」
鑑定士ユフィが震える指で、分解作業を中断した。
「誰が組んだんだよ、こんな術式……」
壁際にいた若い鑑定士が、つい本音を漏らすように言った。
その目は、まるで何かに引き寄せられるように、魔術具から離れない。
所長もまた、椅子から半ば立ちかけた姿勢のまま、額に滲む汗を拭うこともなく、ただ一点を凝視していた。
その目に宿っていたのは、驚愕。深い疲労。そして――ほんの僅かに、畏怖の色。
「――くそっ」
「――無理」
「――だめです」
「――嘘でしょっ」
「――術式受け付けません」
「1階層すら突破できない――」
「なんかもう、このヘ……いや生物に、殺気すら芽生えてきたわ…… 」
(……あたしのすさんだ眼光に気づいて言葉を言い換えるユフィは、優しかった )
《紅蓮の牙》様の中核部には、、強固な封印が施されていた。
しかも、誰ひとり突破できなかった。
そしてその封印術式――
それは、ある“生き物”のような図案だった。
細長く、蠢く双頭の存在。
見ているだけで、背筋が凍る。
視線が、返されてくるような錯覚。
エリセは、反射的に一歩引いた。
(最悪……こういうの、本当にダメ)
あたしが忌避してやまない、生物カテゴリ不動の最下層。
細長くて、邪悪で、ぞっとするほど無理なやつ。
まさか、それが……
あたしの大切な《紅蓮の牙》様の中核部に、刻まれていたなんて――。
「イヤー――――っっ!!!」
無理。
無理だからっ。
無理だからっっ!!!!!
見えない部分にだって、あの図案があると思ったら……
知らなかった頃には、もう戻れない。
あたしは床に膝をつき、はいつくばるようにして項垂れた。
――目が、映ろ。
「終わった……」
隣では、支部長がエリセと同じく床にはいつくばっていた。
(……なんで?)
「《煌霊炉》の代わりに、あわよくば――君の《紅蓮の牙》を展覧会の主軸に据えるつもりだったのに……!」
「勝手に人の魔術具あてにしないでください」
エリセは即座に突き放した。
「そもそも、大量生産のC級魔術具を、個人でS級相当に魔改造した技術なんて――
公開しちゃダメでしょ? 真似されたらどうするつもりですか。
下手したら、大量破壊兵器のレシピをばら撒くようなもんですよ?」
支部長はぶつぶつと呟きながら、机の下で何かを決意していた。
「……全部は公開しなかったらイケる……。イケる……。
いま、この地獄から抜け出せるなら――僕ァ悪魔にだって魂を売れるッ!!」
ハラリ。
(闇落ちした……!)
ハラリ。
(俺、明日毛生え薬買ってきてやろう)
ハラリ。
(……胃薬差し入れしよう)
ハラリ。
(甘いもの……)
ハラリ。
(……頭髪が、風前の灯!!)
部屋にいた研究員たちは、誰もが肩を落とし、沈黙に沈んだ。
その光景がまた、しみじみと哀しかった。
「エリセはさぁ、この”魔改造”、実際に見てたんだよね? いいなぁ」
「うん、まあ……」
エリセは記憶の中のあの場面を探る。
――草むらに座っていた、あの変人の姿。
出会ったその日に、彼はあっさりと《紅蓮の牙》を分解し、数分で組み直してみせた。
『……起動が遅いな。貸してみろ』
その一言からすべてが始まった。
たった数点の部品を取り換えただけ。それなのに。
(……別物だった)
起動速度、制御性、安定性――何もかもが格段に向上していた。
それは、もはや「魔改造」なんかじゃない。
「……魔術だったのかもしれない」
支部長が机の下から這い出てきた。
「魔術師……いったい、どこの誰なんだい? 」
支部長が、机の下からパッと上半身だけ這い出してきた。
そりゃ気になるよね、あんな改造ができる人の話なんて。
「えっと……どこの誰だかわかんないんです。旅の間は、“先生”って呼んでたし 」
「先生? どこかの技術顧問かい? それとも、ネイムさんみたいな、名声を集めてる魔術具マイスター?」
「ううん、あたしの恋愛の大先生」
「は?」
「性格がね、最低最悪で、不愛想で、無表情なのに――女の人にぜんっぜん振られないんですよ。すっごくないですか!? 」
「……は??」
なんか、最後は支部長も研究員も鑑定士も、みんな揃って硬直してたから。
あたしは、そろそろ潮時かなって思って、いそいそ工具を片付け始めた。
使い終わった分解ツールを一つずつ布で拭いて、定位置の引き出しに戻していく。
精密ピンセット。導魔針。感応式トレーサー。小型の術式照射器――。
淡々と作業する手の中で、拭き掃除の手が止まる。
(……あれ?)
思い出したのは、あのときの変人の言葉だった。
『あは♡ 間違いない、双頭の蛇印だ! わぉ、魔力変換率が化け物だ……!』
『蒸発冷却の魔石♡♡ 若い女の子が使う火属性の量産型に仕込むとか、容赦ないなぁ。……あー、久しぶり、この魔力残渣』
待って、……あの人分解してた!
あのとき――、あたしの目の前で!
躊躇もなく、《紅蓮の牙》を分解して――中核 まで全部、把握してた。
(ってことは……)
唇が乾くのを感じて、そっと舐める。
自分で封印を解除して、しかもその痕跡を残さないで再封印していたとしたら――
(そんなの……あたし、気づきもしなかった!)
そりゃ、ただの「変人』とか、「やんちゃな昼休みの学生」とまでは 思っていなかったけど。
でも今なら、わかる。
彼は、やんちゃで変人で本物だ。
魔術具の中枢に封じられた“異質”を、あっさりと扱える存在――
(……もしかして、先生と同等、いや――)
あたしは工具箱の蓋を静かに閉め、その上に手を置いた。
ほんのわずかに、畏れと――希望が胸の内に灯る。
(……あの人にアレを、何とかしてもらわなきゃ)
そう決めた夜は、なかなか眠れなかった。




