空蝉にかケテ
納得顔を繕った私はたかくんと別れた後、物思いに耽りながら帰宅の道をトボトボ歩いた。
納得しようと努力はしてみたのだ。
だって、あんな真剣な顔のたかくんを見たのは久し振りだったから。正直言って面食らってしまった。
たかくんが真剣になるのはいつだって、私や村のことを考えてのことだと分かっている。
だから、本当なら即答して頷くべきだったのだ。それができなかった理由を私は気づいていた。
あの手記を読んだ時から……生贄の儀式や鬼、そういった風習があったことには驚いた。驚いたのだが、関係ないはずの【ケイドロ】が何故こうも自分の中で引っ掛かるのか。
(……そうだった)
ずっと疑問に思っていたことだったんだ。【ケイドロ】が先じゃない、ずっとおじいちゃんが何を隠していたのか、【ケイドロ】の話になると豹変するのか。というより昔の話をしないのか。
私は知らない。以前の輿御村を……藪羅儀村を。
その先が不思議でしょうがなかったんだ。どうして隠すのかが自分には謎だった。
なんで? どうして? という気持ちを募らせた。そこに【ケイドロ】の謎が近橋先生によって舞い込んできた。
その一端を今、垣間見たことで抑えようのない……満たしたい空虚感が疼くのだ。
ふっと、辺りの明りがフェードアウトするように黒に染まっていくのをぞっとしながら感じた。夜の闇が襲い掛かるように光を飲み込む瞬間だ。
門限はないが、過保護だと思うほど暗くなると心配するため、私は足早に向かいながら一旦思考を途絶えさせた。
薄らと暗がりの中に広大な影が徐々に近づいてくると、見慣れた門扉が開け放たれていた。
敷地内に入れば石畳の隙間を砂利が埋め尽くし、その上をテンポよく駆ける。
荘厳な佇まいの平屋が出迎えた。これが私の家だ。
大地主と呼んでいいのかわからないけど、村の中でも一・二番目に大きいと思う。
玄関に向かう途中で、斜向かいに見える居間から明りが洩れ、夕飯の支度をしているのだろう香ばしい香りが漂ってきた。
私は「ただいまぁ~」と返ってくるだろう返事を待たずに自分の部屋へと急いで向かう。
がらんとした部屋は女の子らしいものを散りばめてみたものの、どうにも自分に合わない気がして物寂しくなったりもする。
外から聞こえる虫の鳴き声が一層孤独感を引き立て、部屋の中を縫うように抜けていく生温かい風すらも心地良さより気味の悪い冷ややかなものに感じた。
急かされるように制服を脱ぎ散らかし、部屋着に着替える。そんな心境は無意識に長袖を選んでいた。
すぐにキッチンに向かい、現在進行形でせっせと夕飯の支度に取りかかる母に再度、帰宅の知らせを述べる。
「おかえり……」
手伝ってという言葉を聞く前に、私は自分のエプロンを着用。
花嫁修業というほど大袈裟なものではないけど、料理くらいはと始めた手伝いも今では習慣になっているし、レパートリーもだいぶ増えて来た。
料理も終盤に差し掛かった辺りで、村役場に勤めるお父さんが帰宅し、続いておじいちゃんも帰ってくる。
畳みが敷かれた、縁側に面した居間に次々と出来上がった料理が運ばれていく。
そして二人が順にお風呂から上がるのを待ち、夕食の時間。いつもと変わらない時間で食卓に着く。家ではだいたい七時前に夕食を取るのが習慣だ。
夕食の風景は異様だ。格式ばったと言えるのかもしれないが、基本的に会話はない。
黙々と口に運ばれる料理。外から聞こえる虫の音が静けさを際立たせる光景は今に始まったことでもない。
それでも誰かが口を開けばそれなりに会話が成立するのだが、黙って食べるという決まり事のようなものが家には暗黙の了解としてある。
私は今日この夕食時、妙に緊張感に満ちた空気を破ると決めていた。
麦茶で喉を潤し、箸を音もなく置く。
私は視線を下げたまま口を開いた。
「おじいちゃん…………ムロ様って何?」
「…………」
その瞬間、音が消えた。私にはそう感じた。そして注がれる視線。
ゆっくり、恐る恐る視線を上げ、反対に座るおじいちゃんを見上げる。
「――――――!!!」
そこにはおじいちゃんだけでなく、斜向かいのお父さんも隣のお母さんも私をじっと見詰めていた。
その表情からは何も探れない無感情なもので、私には家族の真黒な目が酷く怖く見えた。
少し見開かれた目には黒眼の球体が見え、白い部分が僅かしか見えないほど。
言葉を続けることができない。視線を外すこともできない。
その光景は首から下の時間が止まってしまったように首だけが私を捉えていたからだ。
母の箸に挟まれたご飯が、父が掴んだ唐揚げが、微動だにせず時間を止めた。秒針の音、はたまた虫の鳴き声すら遠方に遠ざかって消失する。鼓膜が破れたと勘違いしそうな無音。
それが奇怪に見えた私は聞いてはならないことだったと、たかくんの言葉を思い返した。
静寂がどれぐらい続いたのだろうか、たぶんほんの僅かな間、瞬き程度の一瞬だったのかもしれない。
「美代、どこでそれを知ったんだ?」
それはおじいちゃんから発せられたものだった。怒っているのか、それとも単なる訊き返し? どちらともつかない滔々とした声音だ。
時間が動き出したのはその直後だった。お父さんもお母さんも、運び途中だった料理を口に持っていく。
「ちょっと小耳に挟んだの」
「美代、どこで知ったんだ?」
ほとんど同じ声音、録音した音声を巻き戻したような繰り返される問い。
私は拒めない。
「図書室で見た……の」
「そうか」
おじいちゃんは目を伏せた。
で、ムロ様っていうのは何なの? とは紡ぐことが出来なかった。
「美代、偶然にしろ調べるのはやめなさい」
隣でお母さんが黙々と、そんなことを言い、
「そうだぞ、もう運動会も近いんだしな」
と父が窘めるように口を揃える。
「…………」
「「もう、やめなさい……」」
左右から強制力を持った声が同時に両耳の鼓膜を震わせた。
「でも……」
「いいな、美代」
一番の圧力を持った重苦しい声を上げたのはおじいちゃんだった。同じことを数年前にたかくんと耳にした。まったく同じものを含んでいるように感じる。
私は三人からの視線、同じ意味合いの言葉に責められて頷くことしかできなかった。
「わかりました」
その言葉を皮きりに更に異様な光景を目の当たりにする。
世界が変わってしまったような。
「どお、あなた、これ美代が作ったのよ」
「すぐにわかったよ。美代の味付けも好きだからね」
父がさっきまでとは打って変わって美味しそうに咀嚼し、
「もちろん母さんのも美味い」
と付け加える。どこにでもある団欒がひどく不気味だ。そして、
「今日はたか坊が珍しく礼を言ってきた」
「あら孝くんも変わらないわね」
「実直な子だ」
おじいちゃんが、お母さんがお父さんが、たかくんの話題を持ち出して、頬を緩める。
「子供が気にするんじゃないと叱ってやったわ」
鼻息を荒くしたおじいちゃんが、腕を組むが、どこか儚く頬を持ち上げる。
「父さんも相変わらずだ」
「む、お前もさっさと役場なんてやめて、継げ」
お父さんが藪蛇を突いたように苦い顔を浮かべて、瞬間ハッと白々しい笑みを浮かべた。
「心配しなくても父さんの後は孝明が継ぐんじゃないか?」
「気が早いわよ、あなた」
ケラケラと笑う二人が、ふいに「ねっ、美代」と訊いてくる。
ありえない団欒が作られたように感じられて、不気味に一人蚊帳の外にいた。さっきまでの冷たく重苦しい空気が嘘のように偽装されていく様を見ているのだ。
本来なら顔を赤らめて、窮するはずなのだが、今、この場だけは気味が悪く「……うん」と頷くことしかできない。
それからも、食べ終わるまで作られたような談笑が続いた。普段、食事中にこんなに話をすることはない。
私は急いで食事を済ませて、カチャカチャと台所に食器を置き、自分の分を洗う。
その間も廊下を一つ挟んだ居間から聞こえる話声が背筋に張り付く。
急かされるように泡立てたスポンジを食器に滑らせて洗い流す。蛇口を全開まで捻っていたことにも気づかず。
そして、今も続いている談笑を一瞥して、足早に自分の部屋へ向かった。耳を塞ぎたい……。
しかし、廊下を直進して行く間ずっと聞こえていた三人の話し声がピタリと止んだ。
私は不気味に思って振り返り、耳をそばだてた。
するとカチ、カチ、と箸が茶碗にぶつかる音だけが静寂の中で鳴り響く。
ぞわぞわっと足元から這い上がる寒気に声を殺すように自室へと駆け込んだ。
変で変で、何かがおかしい。
鍵の無いドアを背にしゃがみ込んだ私を逆撫でするように風が髪を持ち上げて項を冷やす。
あんな、お父さんもお母さんも見たことがない。どうしちゃったのよ。
ムロ様って何? この話題から始まった一連のやり取りが、私の中でムロ様に対する疑心を強くシコリになって残す。
おじいちゃんの反応は【ケイドロ】のことを聞いた時に似ていた。
あの眼は今でも覚えている。この話をするときの大人の眼だ。
身体を抱えるように蹲った私は顔を上げる。
そこには部屋から見えるもう一つの建物があった。
あれは……あれは蔵だ。
おじいちゃんの言いつけで一度も入れてもらったことはない蔵。
「あそこになら何かあるかも」
みんなにはやめると言ったけど、知る手立てが見つかった以上、探らないという思考はなかった。だって、私はこの時、バレないようにすることを考えていたのだから。
それから4日、どんよりと暗雲が立ち込める日だった。私は今日まで件の話題に一切触れなかった。たかくんの前でも不自然ながら口にも出さなかった。だからなのか、たかくんは不思議そうな顔を浮かべながらも諦めたのだと思ったことだろう。
私はただその時を待っていただけ、家に誰もいなくなる日を……そしてそれはたかくんにも話すことはできなかった。きっと……いや、絶対に反対されるからだ。
本音を言えば昔のように付いてきて欲しかったのだけど……。
その日、私はたかくんと一緒に帰らなかった。時間が惜しいと焦燥感に駆られながら授業の終了と同時に教室を飛び出したのだ。もちろん悪いと思いながらも間近に迫った体育祭の準備をたかくんに押しつけて。
今にも雨が降り出しそうな空模様、じんめりとした空気がワイシャツを肌に張り付かせ、靡く髪も心なしか重く感じた。
速足で向かっていた足もいつの間にか駆け足になり、呼吸も荒くなる。肩に掛けたスクールバッグが交互に地面を踏み締める衝撃に揺さぶられていた。走り難さを感じることもなく、私はひたすらに両足を動かした。
門扉を潜り、タンッと鳴る石畳の音もバラバラに引き戸を勢いよく開け放つ。
家の隅々まで響く声でわざとらしく「ただいま」と発する。
「……………」
当然、返ってくる言葉はない。
おじいちゃんとお父さんは仕事に、お母さんは二週に一回の茶話会に出かけているはずなのだ。
一応、自分の部屋まで視線を彷徨わせるが、がらんと閑散とした屋内には人の気配がない。
少しだけ隙間を開けてバッグだけを放り込むと、すぐに蔵の前まで急ぐ。
唯一ここだけは鍵が掛かっているのだけど、鍵の場所はおじいちゃんの部屋にある机の中にあるのを見たことがある私は迷わず鍵を抜き取った。
錆びれた錠を外すと静かに開け放つ、僅かな隙間から湿っぽい空気が独特のカビ臭さとともに漏れ出る。
一人分の隙間だけ開けて身体を滑り込ませて侵入。
内部は様々な物が収納されていて、蔵というより物置のような倉の様相だ。
採光窓から僅かな明かりが差し込むが、今日の天気では内部を照らすほどの採光はない。
懐中電灯を持ってこようかと逡巡していると、蔵の奥に一際古い箱が不自然に置かれているのに気が付き、妙に気になった。
誘われるように木箱に近寄る。
「何これ……」
木箱だと思っていたけど近づくと酷く錆びついた鉄製の箱。
正方形の箱に違和感を持った私は徐に手を掛けた。手に黄土色の錆びが付くことすら構わずに両手に力を込めて蓋を開けた。
「……!!」
目に飛び込んだのは【悪災】と書かれた古い紙だった。一番上に、いくつもの紙が下で積み重なっていた。
古い文体で書かれたもの、古文だろうか古典のように読み解けない文が多い。
その中に絵のような紙があるの見つけた。
鬼!? 鬼のような悪鬼が人間を頭から食べている絵だ。その周りを大勢の人間が円を描いて膝を付いて拝んでいる。
「これがムロ様?」
すぐに情報となる紙を漁ってみた。その中でも取り分け私でも読める新しい物がある。
文字を滑れるように眼を移動させて読む。
じっくり読んでいる時間はない。
大凡でも把握できればいい。
私は両手に紙を持って必死に頭に叩きこんだ。いつ、誰が帰ってくるとも知れない恐怖を背に感じながら、箱の中に手を突っ込んでは戻す。
脳内で単語のようなピースが組み合わさっていく。漠然といくつもの仮説が……可能性が頭の中で集束していくのを私は感じていた。裏づけされていく一文一文が核心に近づいていく感覚。
そしてふと、虫の知らせにも似た予感が背筋を撫でる。
振り返るのと同時に私の手は閉める為に蓋へと手を掛けていた。
この場から離れなければと立ち上る直前に箱の角――底に見える厚みのある手帳のようなものを見つけた。私はそれを強引に引っこ抜くと目を通さず、制服の中に仕舞い込んだ。
一直線に出口へと向かうと雨の匂いが鼻をつく。小雨ながらいつの間にか雨が降り出していたのだ。
来た時と同じように施錠し、気づかれないように差し足で家の中へと戻る。
中には誰もいないようだった。見られたような怖気は気のせいだったのだ。鍵を元の場所に戻し、安堵のため息を溢すと丁度玄関が開く音が聞こえ、続いて「ただいま」というお母さんの声がビクッと心臓を弾ませる。
私は声だけで返事を済ませ、そのまま自室へと戻った。
そして手早く着替え、服の中に仕舞ったメモ帳を机の引き出しの中に放って、お母さんに体調が優れないから夕食まで寝る旨を伝える。
高鳴る心臓をどうにか抑え、手帳を片手に薄い掛け布団を全身に被った。
これで謎が解ける。そんな期待を抱いていたんだと思う。
既に十分過ぎる裏づけを得た。やっぱり【ケイドロ】は無関係じゃなかった。
私はこの上、何の情報を得られるのかとページを捲りだした。
そして知るのだ。
知るべきじゃなかったと思う気持ちと、知っておかなければならないと思う気持ちが相克をきたし、
文字をなぞる目が反転したような眩暈に襲われ、そして……私は涙を流しながら嘔吐した。
私は知った……知らなければならないことでも、それは今でなかったと。
メモに太く書かれた単語は何回も上からなぞったからだ。
たった一つの文字【罪】を…………何度も何度も……何度も。