八、朽ちて尚、椿香りて
閑話
耳にさめざめと降る雨音が聞こえた。
ゆっくりと目を覚ますと、女が枕元で泣いている。
「どうして泣いている」と問うと女は「枕元に飾っていた椿の一輪挿しが落ちた」と答えた。
思わず私は笑ってしまった。一つは女の純粋さに対しての賛美として、もう一つは命の輪廻を考え得ぬ阿呆具合への失笑として。
女はただただ泣き続けた。時折「子も残せずに」やら、「喉が焼けたでしょうに」やら呟いている。
さて私は枕元に転がっている一輪の椿を手にとってみた。
彼女はこの椿をとても愛していたようだ。そう考えれば、なるほど私にとっても大切な花であるはずだ。紅の花弁を指で摘むと、すとんと花弁が抜け落ちた。不意に妙な哀しさが私の胸を締め付ける。彼女が愛した椿が、時を負う毎に崩れていくという摂理。
何と哀しい摂理だろうか。
ひとであれ椿であれ、感じる時の流れの速さは同じであるはずなのに、それぞれによってそれぞれの長さを歩む。ひとも椿も、一生の長さは同じであるはずなのに、生物としての時の流れには明確な差がある。
ついに私までもが、その哀しみにぽろぽろと泣き始めてしまった。みっともないとは思うが、一枚の花弁が抜け落ちた椿の悲壮さには勝てぬ。
「この子は幸せだったのかしら」
唐突に女が私の腕に縋りそう呟いた。落ちた椿の花弁を手に取り、私はその香りを嗅いだ。すると何とも言えない甘酸っぱい香りがした。
私は女にこう言った。
「きっと、幸せだった」
「どうして」
「嗅いでごらん。甘酸っぱい香りをさせて。自身の花を誇っているじゃあないか」
不思議そうな顔をした女は、ゆっくりと花弁の香りを嗅ぎ笑った。
「本当、何て透き通った香りでしょう」
私は小さく微笑むと落ちた椿を手に取り、それを女の手に乗せ、手を取り女の鼻先に運んだ。
「きっと、これもこの子の幸せだ」
「弔うことがですか」
「いいや、忘れずに刻むことがだ」
涙は時と場合を選ばぬものだ。そしてひとにとって涙とは、自虐的に流すものでも哀しみにくれる為に流すものではない。
涙とは刻み背負う為に流すものだ。
「また私達のところに、うまれてくれるかしら」
「きっとうまれてくれる」
私と女は、ただ朽ちた椿を両手に抱えて、ゆっくりと微笑みあった。
「ほら、明日は晴れますわ、きっと」
視線を向ければ、いつの間にか雨はやみ、空には陽が差していた。諦観にも似た悲しみと共に、私は微笑む女を見詰めた。