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なんでもない


朝から蝉が鳴いていた。


窓を開けても暑い。


じめった空気が肌にまとわりつく。


今日は、今年で最後になる花火大会の日だった。


「……暑い」


扇風機の前に座る。


風は生ぬるい。


スマホを見る。


まだ待ち合わせの時間には早い。


「……」


机の上には、昨日のうちに出しておいた浴衣が置いてある。


着るのは、たぶん初めてだ。


「……どうやって着るんだっけ」


スマホで調べる。


しばらく画面を眺めてから、諦めた。


「……苑乃に聞けばいいか」


そう呟いたところで、スマホが震えた。


『もう出る?』


「……早」


『まだでしょ』


『でも浴衣の着方わかんないでしょ?』


『なんで分かるの』


『だってかずみくんだもん』


『どういう意味?』


『そのままの意味』


『……』


『今から行こうか?』


『いいの?』


『うん』


『じゃあお願い』


『分かった』


スマホを置く。


「……」


本当に来てくれるらしい。


僕は浴衣を持って、もう一度スマホを見る。


『帯は持った?』


「……」


『持ってない』


『やっぱり』


「……なんで分かるんだよ」


『かずみくんだから』


「それ便利な言葉だね」


『でしょ?』


僕は少しだけ笑った。


玄関の方から、インターホンが鳴る。


「……早いな」


立ち上がって、玄関へ向かった。


「はぁ…はぁ…来たよ!」


「走った?」


「走った」


「なんで?」


「え?早く会えた方が良くない?」


「……」


「なに?」


「いや……」


「?」


「なんでもない」


「またそれ?」


苑乃は少し笑って、僕の持っていた浴衣を見る。


「ちゃんと持ってるじゃん」


「…父さんのだと思う」


「へー、いいじゃん」


「だから…若干大きい」


「そう?」


苑乃が浴衣を広げて見る。


「……ほんとだ」


「でしょ」


「でも、これくらいなら大丈夫じゃない?」


「そうかな」


「うん。むしろちょっと変なのがいい」


「何それ」


「かずみくんっぽい」


「……褒めてる?」


「あんまり」


「そっか」


「帯の巻き方わかる?」


「わかんない」


「じゃあ貸して」


「いや……教えてくれたら……」


「いいから貸して」


「……」


僕は帯を渡す。


「これ、こうやって……」


「うん」


「ここ持ってて」


「こう?」


「そうそう」


苑乃が後ろに回る。


「ちょっと動かないで」


「動いてないよ」


「動いてる」


「動いてない」


「動いてるって」


「やっぱり自分で……」


「ちょっと動かないでってば」


「……はい」


「素直でよろしい」


「なんか子供扱いされてない?」


「気のせい」


「絶対違う」


「はい、できた」


「もう?」


「うん」


僕は少し身体を捻って、帯を見る。


「……ちゃんとできてる」


「でしょ?」


「すごい」


「もっと褒めていいよ」


「じゃあ、すごい」


「それだけ?」


「それ以上ない」


「あはは」


苑乃が笑う。


僕も少しだけ笑った。


「じゃあ、夕方まで解かないでよ」


「そうじゃんなんで今巻いたの」


「……」


「……」


「忘れてた」


「忘れてたの?」


「うん」


「じゃあ一回解く?」


「……せっかく巻いてくれたのに?」


「だって暑いでしょ」


「……」


「どうする?」


「このままでいい」


「なんで?」


「せっかく巻いてくれたから」


「……そっか」


「うん」


苑乃が少し笑う。


「じゃあ、夕方までそのままね」


「うん」


「暑くても?」


「暑くても」


「後悔しても知らないよ」


「大丈夫」


「ほんとかな」


「たぶん」


「またたぶん」


二人で笑った。


*


『もうすぐ着くよ』


ピコン。


『了解!』


スマホをポケットにしまう。


「……」


玄関の鏡を見る。


浴衣。


帯。


少し大きい袖。


「……まあ、変じゃないか」


そう呟いて外に出る。


しばらくして、遠くから苑乃が歩いてくる。


「かずみくん!」


「お疲れ様」


「お疲れ様じゃないよ」


「え?」


「待たせた?」


「全然」


「よかった」


苑乃は僕の浴衣を見る。


「ちゃんと着れてるじゃん」


「苑乃が着せたんでしょ」


「そうだった」


「…」


「どう?」


苑乃は浴衣姿だった。


普段とは少し違って見える。


「……似合ってる」


「ほんと?」


「うん」


「本当に?」


「うん」


「じゃあ、行こっか」


二人で歩き出す。


まだ昼の暑さが残っている。


蝉が鳴いている。


祭りの会場までは、歩いて少し。


「何から行く?」


「……」


「決めてない?」


「うん」


「また?」


「だって、いっぱいあるし」


「じゃあ適当に行こ」


「それでいいの?」


「いいの」


「……そっか」


僕たちは、屋台の並ぶ道へ向かって歩いていった。


 屋台の並ぶ通りに入る。


焼きそば。


たこ焼き。


りんご飴。


射的。


見慣れたものばかりなのに、いつもより少しだけ特別に見えた。


「何食べる?」


「……」


「また?」


「迷ってる」


「じゃあ私、焼きそば」


「じゃあ僕も」


「また同じの?」


「だめ?」


「別にいいけど」


二人で焼きそばを買う。


「熱い」


「気をつけて」


「うん」


少し歩いて、近くの階段に座る。


「……おいしい」


「うん」


「祭りの焼きそばって、なんで普通よりおいしく感じるんだろ」


「雰囲気じゃない?」


「雰囲気か」


「たぶん」


「またたぶん」


「便利だから」


「苑乃も使うじゃん」


「あはは」


焼きそばを食べ終える。


次は射的を見つけた。


「やる?」


「やる」


「かずみくん、こういうの得意そう」


「なんで?」


「なんとなく」


「苑乃もなんとなくばっかりじゃん」


「いいの」


「……」


「どうしたの?」


「いや、なんか楽しいなって」


「今さら?」


「うん」


苑乃は少し笑った。


「まだ花火まで時間あるよ」


「じゃあ、もうちょっと遊ぼう」


「うん」


二人はまた歩き出す。


人の声。


屋台の明かり。


蝉の声。


夏の夜が、少しずつ深くなっていく。


*


「あ、もうすぐ花火じゃない?」


「そうなの?」


「穴場知ってるよ」


「ほんと?」


「うん」


「どこ?」


「秘密」


「教えてよ」


「ついてきて」


人の多い通りを抜ける。


屋台の明かりが少しずつ遠ざかっていく。


坂道を上る。


神社の横を通る。


蝉の声が少しだけ小さくなった。


「まだ?」


「もうちょっと」


「遠くない?」


「大丈夫」


しばらく歩く。


「着いた」


そこは川沿いの小さな土手だった。


祭りの会場からは少し離れている。


人もほとんどいない。


「へー」


「いいでしょ?」


「うん」


二人で並んで座る。


遠くから祭りの音が聞こえる。


夜風が少しだけ涼しかった。


「なんでこんな場所知ってるの?」


「バイト帰りに見つけた」


「そうなんだ」


「うん」


そのとき。


遠くで花火が打ち上がった。


「始まった」


「うん」


「かずみくん」


「……なに?」


「私さ……前、この街を出るって言ったじゃん」


「全部切ってってやつ?」


「うん」


「……」


空に光が広がる。


花火が一つ、夜空に広がる。


赤い光が消える。


少し遅れて、破裂音が聞こえた。


「今もそう思ってる?」


「うん」


「そっか」


「でもね」


「…」


「前とはちょっと違うかも」


「どう違うの?」


「わかんない」


「また?」


「うん」


苑乃が笑う。


僕も少しだけ笑った。


「どこに行っても、全部忘れられるわけじゃないなって」


「……」


「最近、そう思う」


花火が打ち上がる。


花火の光で、苑乃の顔が見えた。

なんとなく、もういいような気がした。


「かずみくんは?」


「え?」


「卒業したら、どうするの?」


「わかんない」


「即答だね」


「だって、本当にわかんないし」


「そっか」


また沈黙が訪れる。


でも、不思議と気まずくはなかった。


二人で空を見上げる。


最後の花火大会。


僕はたぶん、この夏をずっと覚えているんだろうな、と思った。

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