第1話 過労死した俺は、異世界で赤ん坊として目覚める
「また徹夜か……」
それが前世の、最後の記憶だった。
★
都内某所。大型商業施設の建設現場。
深夜二時を回っているというのに、現場は昼間のような明るさを保っていた。巨大な投光器が鉄骨や資材を白々と照らし出し、影が鋭く伸びている。
フォークリフトのエンジン音。職人達の怒鳴り声。無線機の雑音。そして鳴り止まない携帯電話。
完成見学会まで、残り三日。工程は大幅に遅れていた。
ポケットの中の携帯が震えるたびに、胃がきゅっと縮む。その感覚に慣れてしまっている自分が嫌だった。
「材料届いてないぞ!」
「図面変更だ、今すぐ確認しろ!」
「施主から電話だ!」
「明日の工程どうする!」
四方八方から声が飛んでくる。
職人は足りない。追加工事は増える。施主からの要望は際限なく積み上がる。現場全体が、焦げ付いた鍋のように音を立てて軋んでいた。
そしてその中心で走り回っているのが、自分だった。
建設会社勤務、職種は施工管理。聞こえは良い。だが実態は何でも屋だった。工程管理、安全管理、材料発注、図面確認、職人との打ち合わせ、客先対応、クレーム処理、書類作成……問題が起きれば全て自分のところへ飛んでくる。
しかも入社してまだ半年だった。
本来なら先輩から教わりながら経験を積む立場だ。だが建設業界にそんな余裕は無い。慢性的な人手不足。その一言で全てが片付いてしまう世界だった。
(逃げ出したい)
何度その言葉が頭をよぎったか、もう数える気にもなれなかった。
それでも足を止められない理由は、ただ一つだった。
(自分が投げ出したら、現場が止まる。職人達に迷惑が掛かる。客にも迷惑が掛かる)
(それだけは……できない)
その責任感一本で、ずっと走り続けていた。
気付けば休日など存在しなくなっていた。積みっぱなしのゲームソフト。コンビニのおにぎり一個で終わる食事。現場近くの仮眠部屋で一、二時間だけ目を閉じる睡眠。それがいつの間にか、普通になっていた。
誰かに助けを求めることも、弱音を吐くことも、なんとなくできなかった。
「頑張れます」と言い続けた結果が、これだった。
★
「一時間だけ寝るか……」
現場近くのアパート。会社が仮眠用に借りている小さな部屋だ。
ベッドへ倒れ込んだ瞬間、背中がスプリングに沈む感触と同時に、何かが音を立てて切れる感覚があった。
身体ではなく、もっと内側の何かが。
(一時間後には起きなきゃ。まだやることは山ほど残ってる)
瞼を閉じた瞬間、自分でも驚くほど早く意識が沈んでいった。
もう少しだけ。もう少しだけ、頑張れば……。
意識は闇へ沈んだ。
そして、二度と目覚めることはなかった。
★
次に目を開けた時、そこは見知らぬ場所だった。
比喩ではない。根本から、見知らぬ天井だった。
木材で組まれた天井。見たことのない照明。中央には青白く光る石のようなものが埋め込まれていて、電球も配線も無いのに部屋全体を柔らかく照らしていた。
(……どこだ)
身体を起こそうとして、違和感に気付く。
腕が短い。足も短い。力が入らない。
慌てて手を見た。
小さい。異常なほど小さい。ぷにぷにとした赤ん坊の手だった。
「あう」
出てきた声まで赤ん坊だった。
(いやいやいやいや)
(待て待て待て)
(何が起きた)
混乱しながら周囲を見渡す。木製のベビーベッド。見たことのない家具。見たことのない建築様式。柱に刻まれた文様は、どこかヨーロッパ中世を思わせるが、それとも微妙に違う。
少なくとも日本では、絶対にない。
誘拐? 病院? 実験施設?
いくつか可能性を並べてみるが、どれもこの赤ん坊の手を説明できなかった。
赤ん坊の身体。知らない世界。未知の光源技術。
導き出される答えは、一つだけだった。
(まさか……異世界転生)
昨日までの自分なら笑い飛ばしていただろう。だが今の状況は、ゲームや小説で何度も見てきた展開そのものだ。むしろ異世界転生以外に、説明がつかない。
(死んだのか、自分)
その事実が、じわじわと染み込んでくる。
驚くほど、悲しくなかった。
あの生活が終わったという事実に、どこかほっとしている自分がいた。それが少しだけ、悲しかった。
★
その時だった。
部屋の扉が、静かに開いた。
入ってきた人物を見て、思わず目を見開く。
美人だった。とんでもない美人だった。
鮮やかな青髪が肩から流れ落ち、透き通るような白い肌が照明の光を柔らかく弾いている。優しげな瞳。柔らかな笑顔。前世で見てきた女優やモデルと比べても、引けを取らない。いや、それ以上かもしれない。
(な、なんで異世界の人ってこんなに綺麗なんだ)
女性は自分を見ると、ぱっと顔を輝かせた。そして嬉しそうに微笑む。
その笑顔を見た瞬間、不思議な安心感が胸の奥へ広がった。
初対面のはずなのに、警戒心が湧かない。まるで昔からずっと知っている人のような温かさがある。
「〇△◇□×〇」
優しい声で、何かを話しかけてくる。当然、意味は分からない。それでも声色だけで、優しさが全て伝わってきた。
(異世界語か。まずは言葉を覚えないと何も始まらないな)
そんなことを考えていると、女性はそっと自分を抱き上げた。
温かかった。柔らかかった。そして驚くほど、安心した。
前世では何年も感じたことのない安心感だった。
常に納期に追われ、責任に押し潰されそうになり、眠ることすら惜しみながら走り続けた日々。じりじりと積み上がってきた緊張が、ゆっくりと、音もなく解けていく。
(ああ……)
(この人が、母親なんだな)
自然とそう思った。胸の奥が、じんわりと温かくなる。
気付いたら、泣いていた。
声も出ない。理由も分からない。ただ涙が、止まらなかった。
女性は何も言わなかった。ただ優しく、背中をさすり続けてくれた。
それだけで十分だった。
★
やがて授乳が始まった。
だが途中で、異変に気付く。
母乳とは別に、何かが流れ込んでくるのだ。
暖かい。柔らかい。でも液体じゃない。身体の奥へ直接染み込んでくるような感覚。
(なんだ……これ)
その力は全身を巡り、身体の隅々まで静かに広がっていく。不思議と嫌な感じはない。むしろ、心地良かった。
授乳が終わると、母親は自分の額へ手をかざした。
次の瞬間、手が淡く光った。
(!?)
暖かな光が全身を包む。優しい熱が身体を巡る。
数秒後、光は消えた。
だが感覚だけは、確かに残っていた。身体の奥に何かが存在している。見えない力。でも確かにそこにある何か。
(これって……魔力か)
心臓が高鳴る。
異世界。魔法。転生。
もし本当にそうなら――自分は憧れていた世界へ来たことになる。
前世では仕事に追われ続けた人生だった。旅行も、趣味も、恋愛も、全部後回しにしてきた。いつかやろう、余裕ができたらやろうと言い続けて、気付いたら終わっていた。
だが今なら。
もう一度、やり直せるかもしれない。今度こそ、自分の人生を――。
そんな期待が胸に生まれた、その瞬間だった。
視界の端に、文字が浮かんだ。
【ステータスを確認しますか?】
「あう」
一瞬、思考が停止する。
そして次の瞬間。
(出たぁぁぁぁっ)
心の中で、全力で叫んでいた。
ゲーム好きなら誰もが知るステータス画面。ネットゲーム、家庭用ゲーム、スマホゲーム。何十本、何百時間と向き合ってきた表示だ。
でも今度は違う。
画面の向こう側ではない。
これは、自分自身のステータスなのだ。
(確認する、確認する、絶対確認する)
興奮で胸が激しく高鳴る。赤ん坊の小さな心臓が、うるさいくらいに跳ね上がっていた。
前世で死ぬほど働き、碌に楽しめなかった分まで、今度はこの世界で全部取り返してやる。
そう心に誓った。
★
……まだこの時の自分は知らなかった。
固有スキルが何を意味するのかを。そして、その能力がやがて世界の常識すら変えていくことを。
これは、一人の転生者が数多の職業を渡り歩きながら、自分だけの魔導を創り上げていく物語。
そして――
後に【〇〇〇】と呼ばれる少年、レイの伝説の始まりである。




