異変
満天の星空が広がっていた。
雇主からようやく解放されたカルロスは、重い法衣を脱ぎ、一人、甲板の手すりに寄りかかっていた。
……疲れた。
本当は酒でも呑みたい気分ではあったが、今は任務中だ。
近くに魔物の気配はないし、これだけのご一行様を襲うような命知らずの輩はそうそういない。とはいえ、いつ何時、何が起こるかはわからない。
カルロスは「常に不測の事態に備えろ」と、師であるクレメンスに叩きこまれてきた。ゆえに、酒が大好きなカルロスであっても、任務中に飲酒することはほとんどない。
精神をごりごりに削られているとはいえ、今回の任務でも酒を呑むわけにはいかなかった。
冷たい夜風が心地よい。
煌々と明かりが灯る船内からは優美な音楽が流れてくるが、甲板は人影が少なく静かだった。
向こうから老水夫が近づいてくるのが見えた。浅黒く日焼けし、皺が深く刻まれた顔には、大きな傷跡がある。
「旦那は魔術師の先生だよな」
「おぅよ」
気安い老水夫の口調に、カルロスは気さくに軽く手を上げた。しかし老、水夫は固い表情を崩さなかった。
「どうかしたのか?」
「妙なんでさ。いつもとなんかが違う。何かが起きる。あっしの長年の勘が、そう言ってるんでさ」
「どういうことだ?」
カルロスは寄りかかっていた手すりから身体を離し、老水夫の方へ身を乗り出した。
「わからねぇ。が、何かある。隊長さんに話してみたんだが、全く取り合っちゃくれねぇ」
「そうか。とっつぁんみてぇなベテランが感じてんなら、その違和感はホンモノかもしれねぇ」
カルロスの言葉に、老水夫の表情は少しだけホッと緩んだが、すぐに顔を引き締めると、船縁から身を乗り出す。
「……静かすぎるんでさ。波の音まで死んでやがる」
鋭い眼差しで暗い水面を見つめながら、ささやくようにそう言った。カルロスも身を乗り出す。
「いつもなら、もっとこう、ザザッて水を切る音とか、ササーッて水面を渡る風音が聞こえる。けど今は、まるで雪の中にでもいるみてぇに、音が聞こえてこねぇ」
カルロスは耳を傾け、聴覚を研ぎ澄ませた。
確かに、老水夫の言う通りだ。船内からは優雅な音楽と人々のにぎやかな声が流れてくるが、大河からは水音ひとつ聞こえてこない。
精神を集中させ魔力探知を試みたが、付近にそれらしき気配はなかった。しかし、この不自然な静けさは、長年戦場で培ってきたカルロスの肌をチリチリと刺す。
「こりゃ、普通じゃねぇな」
「先生もそう思いやすか」
「ああ。教えてくれて、ありがとな。念のため警戒しててくれ」
「あいよ」
老水夫が歩き出した、その時だった。
突如、夕闇を切り裂くように銅鑼のジャンジャンという騒々しい音が響き渡る。
「命が惜しければ船を止めろ!」
右舷の暗闇に、無数の松明を赤々と灯した数隻の低く黒い快速船が現れた。船首には醜悪な髑髏の旗が掲げられている。
「者ども、略奪だぁ! 金も女も全て頂きだっ!!」
船は汚い言葉を撒き散らしながら、凄まじい勢いで迫ってくる。
「海賊だ! 海賊が出たぞーッ!」
甲板は一瞬でパニックに陥った。
「ヒヤッホー!」
海賊たちは、怒号をあげながら右往左往する水夫たちを嘲笑うかのように、次々と接舷用のフックを投げ打ってくる。
「面舵一杯! 弓兵、右舷に集結せよ!」
「側妃様をお守りしろ!」
騎士や兵士たちが剣を抜き、右舷へと殺到していく。船内からは令嬢たちの甲高い悲鳴が上がった。
狂騒の中、カルロスは静かに鋭いまなざしで辺りの様子を眺めていた。
空間が歪み、カルロスのすぐ横にフランクが姿を現した。
「側妃様には隊長が張り付いています。ご安心を」
フランクの言葉に小さく頷くカルロスの袖を、老水夫が引いた。
「先生」
静かな左舷を指さす。
右舷の派手で明るい喧騒を盾にするかのように、左舷へ滑るように近づいてくる黒い船影が見えた。
「どうやら、本命はこっちのようだな」
カルロスは目を細める。
「どうします? カルロス」
フランクの落ち着いた声には、単に問いかけるというよりも、判断を仰ぐような響きがあった。カルロスは臨時に編成される魔術師協会実働部隊の隊員。このような実戦の場においては、経験豊富なカルロスに指揮を委ねるのがベストだという暗黙の了解があった。
「とっつぁんは持ち場に。くれぐれも気をつけてな」
「なぁに、慣れっこでさ」
カルロスの言葉に、老水夫はにっと不敵な笑みを浮かべた。大きく揺れる甲板をものともせず、素早い足取りで駆けていく。
フランクがすかさず老水夫の背に向かって物理防御術を展開する。老水夫の身体が一瞬、仄かに青白く光った。
「フランク。おめぇはあっちのうるせえ奴らを黙らせろ。こっちは俺が狩る」
「了解」
フランクは素早く飛翔術を発動させ、法衣の裾を翻しながら夜空へと舞い上がった。
カルロスは加速術と防御術、そして飛翔術を同時に展開し、滑るように左舷へと向かった。




