第十五話 女王、先生になる
《月花亭》に女性客が訪れるようになってから数日が経った。
パーティーで知り合った貴婦人たちが時折顔を出すようになり、店には少しずつ以前とは違う空気が生まれ始めていた。男性客の隣で女性客が酒を飲み、夫や家族、仕事の愚痴をこぼす。最初こそ戸惑っていたエルザも、今では「女性用の酒をもう少し増やした方がいいかしら」と本気で考え始めている。
麗華としては、それが少し面白かった。
そんなある日の夜だった。
「……強い酒を頼む」
麗華が案内された席に座っていたのは、三十代後半ほどの男だった。
癖のない茶髪を後ろへ流し、服装は仕立てこそ良いが貴族というほど華美ではない。背筋は比較的まっすぐなのに、今は肩だけが妙に重そうに落ちている。
麗華は男の前へ座ると、少しだけ顔を覗き込んだ。
「どれくらい強いのがいいです?」
「できれば、今日のことを忘れられるくらい」
「それ、結構嫌な日でした?」
「……酒を飲みに来ただけだ」
「分かりました」
麗華はそれ以上聞かなかった。
無理に話したくない客に、話をさせる必要はない。
男の希望通り、少し度数の高い酒を用意する。ただし、酔わせるだけにならないよう量は控えめにし、横に水も置いた。
「水はいらん」
「あとで欲しくなるかもしれないので置いておきます」
「……好きにしろ」
「はい」
麗華は微笑み、そのまま隣へ座った。
男は一杯目をゆっくり飲み、二杯目へ手を伸ばしたところで、深く息を吐いた。
「……今日も駄目だった」
麗華はすぐには反応しなかった。
数秒してから、自然に聞く。
「何が?」
「授業だ」
「授業?」
「俺は教師をしている」
麗華が少し目を丸くする。
「先生なんですね」
「王立ルーヴェル学院でな」
「へぇ」
名前は聞いたことがある。
王立ルーヴェル学院は、王国西部でも特に名の知られた学院だ。主に十五歳から十八歳ほどの少年少女が通い、貴族の子弟だけではなく、大商人の跡取りや、試験を通過した優秀な平民も在籍している。
魔法、剣術、歴史、政治、商業、算術。
将来、王国を動かす側へ立つ人間を育てる学校。
「何を教えてるんです?」
「商業基礎と経済だ」
「面白そう」
「……お前は変わっているな」
「何で?」
「生徒は誰一人そんな顔をしない」
男はまた酒を一口飲んだ。
「魔法の授業なら、生徒たちは目を輝かせる。火を出した、水を操った、今まで使えなかった術式が成功した。それだけで成果が見えるからな」
「うん」
「剣術も同じだ。昨日まで当てられなかった相手に一撃入れた、それだけで成長が分かる」
「分かりやすいですね」
「だが商業は違う」
男の眉間へ皺が寄る。
「原価、利益、在庫、契約、信用、流通、税、融資。将来、貴族として領地を持つ者にも、商会を継ぐ者にも絶対に必要な知識だ。なのに」
「なのに?」
「数字を黒板へ書いた瞬間、全員死んだ顔になる」
麗華は思わず笑った。
「笑うな」
「ごめんなさい。でも想像できたから」
「今日も『利益率について説明する』と言った瞬間、前列の一人が露骨に嫌な顔をした」
「最初にそれ言うんです?」
「何?」
「『今日は利益率について勉強します』って?」
「当然だろう。授業なんだから」
「……それは眠そう」
男が麗華を見る。
「お前まで生徒と同じことを言うのか」
「だって」
麗華は少し考える。
「利益率を知らない子に『利益率について説明します』って言っても、それが自分に何の関係あるのか分からなくないです?」
「必要だから学ぶんだ」
「必要なのと、聞きたくなるのは別でしょう?」
「……」
男が黙った。
麗華は彼の反応を見て、近くに置かれた紙片を一枚手に取る。
「例えば」
「何だ」
「その生徒たちに、銀貨十枚渡したとします」
「仮に?」
「うん。それで飲み物の屋台を始めてもらう」
男が眉を寄せる。
「飲み物?」
「材料を買うのに銀貨四枚、場所代で二枚、誰かを雇うなら一枚。残り三枚」
「それで?」
「一杯いくらで売る?」
「……」
「って聞く」
男が少しだけ考えた。
「材料から作れる数にもよるだろう」
「そう。じゃあ十杯作れるとして?」
「単純に考えるなら、銀貨七枚分を回収するために一杯七十銅貨以上――」
「先生、今ちょっと楽しくないです?」
「……」
男が止まる。
麗華は笑った。
「ほら」
「いや、これは」
「じゃあ途中で雨降らせましょう」
「何?」
「急に雨が降って、お客さんが半分になった」
「……」
「材料余りました。どうする?」
男の目が少し変わる。
「保存が利くなら翌日へ回す。利かないなら値段を下げてでも売り切るか、加工できる方法を考える」
「じゃあ、その値段どこまで下げていい?」
「原価を割れば損になる」
「今、原価使った」
「……」
男はゆっくり麗華を見る。
「お前」
「はい?」
「今、俺に何をしている?」
「何って?」
「俺は酒を飲みに来ただけだったはずだ」
「ああ」
麗華も少し考える。
「いつから授業相談になったんでしょうね」
「俺が聞きたい」
「でも先生から話し始めましたよ?」
「……そうだが」
麗華は楽しそうに笑う。
「生徒に店やらせたらいいんじゃないです?」
「店を?」
「本物じゃなくていいですよ。班で商会を作って、最初に同じだけお金を渡す」
「模擬商会か」
「そう。商品も選ばせる」
麗華は指を折っていく。
「パン、薬草、服、剣、果実水。商品によって仕入れ値も違う。売れる場所も違う」
「……なるほど」
「それで途中で先生が事件起こす」
「事件という言い方をやめろ」
「雨」
「さっきのか」
「街道封鎖、祭り、流行、競合店、盗難、材料高騰」
「待て」
男が身を乗り出した。
「街道が封鎖された場合、輸送費を上げても面白いな」
「いいですね」
「祭りなら飲食物の需要を増やせる」
「そうそう」
「剣の需要は?」
「魔物が増えたら上がるとか」
「逆に冒険者が減ったら落ちる」
「それも」
二人で話しているうち、いつの間にか男の酒を持つ手が止まっていた。
最初に店へ入ってきた時の疲れ切った顔も、少しだけ薄れている。
「名前聞いてなかったですね」
麗華が言う。
「ユリウス・フェルナーだ」
「ユリウス先生」
「先生はやめろ。ここでは客だ」
「じゃあユリウスさん」
「お前は?」
「九条麗華」
ユリウスの顔が僅かに変わった。
「……九条麗華?」
「はい」
「最近、貴族の集まりで伯爵家の息子を――」
「その話は今日はやめましょう」
「……分かった」
「今日は授業の話の方が面白い」
麗華がそう言うと、ユリウスは小さく笑った。
「変な女だな」
「よく言われます」
◇
翌日の夜。
ユリウスは再び《月花亭》へやって来た。
「いらっしゃいませ」
「麗華はいるか」
「ご指名です?」
「……そうなるな」
少しして麗華が席へ来る。
「今日は強い酒?」
「今日は違う」
「じゃあ何飲みます?」
「その前に頼みがある」
「頼み?」
ユリウスは一度姿勢を正した。
「昨日、お前の案を学院長へ話した」
「早いですね」
「思いついたら試したくなった」
「先生、結構行動早いんですね」
「それで」
ユリウスは麗華を見る。
「一日だけ、学院で授業をしてくれないか」
「……私が?」
「ああ」
「先生として?」
「特別講師だ」
麗華は少し黙った。
ユリウスはてっきり断られると思ったのか、続ける。
「もちろん報酬は出る。学院側の許可もすでに取ってある。お前がバルガス商会の特別顧問であることも話した。商業の実務に関わる者としてなら十分――」
「やります」
「……」
「何?」
「いや」
「?」
「もう少し迷うと思っていた」
「面白そうだから」
「本当にいいのか?」
「うん」
麗華は少し楽しそうに笑った。
「先生って、一回やってみたかったんですよね」
「……お前は本当に変わっているな」
「麗華先生」
麗華は自分で言ってみる。
少し考える。
「……悪くないかも」
◇
二日後。
王立ルーヴェル学院。
麗華は正門の前に立ち、見上げていた。
「大きい」
「王立だからな」
横にいるユリウスが答える。
白い石で作られた本館を中心に、魔法演習場、剣術場、図書館、食堂、寮まで備えた巨大な学院だった。
朝から制服姿の少年少女たちが行き交っている。
年齢は十五歳から十八歳ほど。
麗華の前世で言えば、高校生くらいだ。
「若いですね」
「お前も大して変わらんだろう」
「私、二十一ですよ」
「三つしか違わない生徒もいる」
「あ、本当だ」
「だから余計に心配なんだが」
「何が?」
ユリウスは麗華を一度見る。
今日の麗華は《月花亭》のドレスではない。
白いブラウスに黒のロングスカート、その上から学院側が用意した濃紺の講師用ローブを羽織っている。装飾はほとんどないが、むしろそのシンプルさが麗華の美貌を際立たせていた。
「……生徒が授業どころじゃなくならないか」
「失礼ね」
「もう門を入ってから何人振り返ったと思っている」
「知らない」
「数える気にもならん」
実際、廊下を歩くだけで視線が集まっていた。
「誰?」
「新しい先生?」
「綺麗……」
「生徒じゃないよな?」
「絶対違うだろ」
小声。
麗華には全部聞こえている。
「やっぱり帰ろうかな」
「今さら逃げるな」
「冗談ですよ」
ユリウスはため息を吐きながら教室の扉を開けた。
◇
「静かに」
教室。
三十人ほどの生徒が座っている。
男女ほぼ半々。
制服の意匠は同じだが、胸元の徽章や小物を見れば、貴族と平民が混ざっていることがなんとなく分かる。
「今日は事前に伝えた通り、特別講師を招いている」
生徒たちが少しざわつく。
「入ってくれ」
麗華が教室へ入る。
一瞬。
本当に。
静かになった。
「……」
「……」
「……え」
最前列の男子生徒が口を開けたまま固まっている。
女子生徒も目を丸くし、隣同士で小さく何かを囁く。
「綺麗……」
「誰?」
「先生?」
「若すぎない?」
麗華は教壇へ立つ。
黒板。
生徒。
三十人。
なんとなく新鮮だ。
「初めまして」
少しだけ笑う。
「今日一日、皆さんの先生をする九条麗華です」
男子。
一人。
小声。
「今日絶対寝ない」
隣の女子。
「普段も寝るな」
麗華がそちらを見る。
「そこ」
「はい!?」
「普段寝てるんです?」
教室に笑いが起こる。
「ち、違います!」
「今、絶対寝ないって言ったでしょう?」
「気合いの話です!」
「じゃあ今日は最後まで起きててくださいね」
「はい!」
ユリウスが後ろで目を細める。
もう。
いつもの授業開始時と空気が違う。
「さて」
麗華は黒板の前に立った。
「今日は難しい勉強はしません」
「おい」
後ろからユリウス。
麗華が振り返る。
「先生、ちょっと黙っててください」
「お前が先生だろうが」
「今日は私が先生なので」
また笑い。
麗華は黒板へ大きく書いた。
『今日一日で、一番お金を増やした商会が勝ち』
生徒たちの目が変わる。
「商会?」
「勝負?」
「どういうこと?」
「皆さんには今から、五人ずつで商会を作ってもらいます」
麗華は机の上へ小さな木製の貨幣を置く。
「最初に全班同じだけお金を渡します。商品を仕入れて、売って、お金を増やしてください」
一人の男子生徒が手を挙げる。
「先生」
「はい」
「一番増やしたら何かあるんですか?」
「ありますよ」
教室。
ざわ。
「何ですか?」
「学院近くのお菓子屋さんで買ってきた焼き菓子」
小箱。
見せる。
「一位の班全員分あります」
「よし!」
「絶対勝つ!」
後ろ。
ユリウス。
眉。
寄せる。
「物で釣るのか?」
麗華が見る。
「最初くらいいいでしょう?」
「教育として」
「先生だってお給料もらってるでしょう?」
「……」
「やる理由って一個じゃなくていいと思いますよ」
教室。
笑い。
ユリウス。
「好きにしろ」
「では始めます」
◇
六つの班。
それぞれ。
選べる商品は五種類。
パン。
薬草。
衣服。
剣。
果実水。
仕入れ価格。
売値の目安。
輸送費。
場所代。
全て簡単な表にしてある。
「先生!」
「はい」
「剣が一番高いから、剣買えば一番儲かるんじゃないですか?」
「どうして?」
「一個売った時の金額が大きいから」
「いいですね」
「じゃあ正解?」
「さあ?」
「えぇ」
「自分でやってみて」
その班。
初期資金。
ほぼ全部。
剣。
「全部いくの?」
「いきます!」
「男ですね」
「商人です!」
別。
女子中心。
衣服。
「高級品と普通の服、半分ずつ」
「どうして?」
「高級品は売れたら利益が大きいけど、売れないかもしれないから」
「いい考え」
麗華。
何も答え。
教えない。
「では」
全班。
決定。
「一日目」
麗華は袋から札を一枚引く。
『晴天。市場は通常通り』
「普通じゃん!」
「最初だからね」
売上。
計算。
生徒。
慣れない。
でも。
楽しそう。
「二日目」
札。
『祭り開催』
「来た!」
「飲み物!」
「パンも売れる!」
果実水。
大量。
仕入れ。
班。
歓声。
剣。
班。
「先生、剣売れないんだけど!」
「祭りでみんな剣買います?」
「買わない!」
「じゃあどうする?」
「……待つ」
「それも選択」
そして。
三日目。
『冒険者減少。武器需要低下』
「終わった!」
剣班。
頭。
抱える。
教室。
爆笑。
「先生!」
「はい」
「これ絶対俺たち狙ってるでしょう!」
「札は昨日ユリウス先生に作ってもらいました」
全員。
ユリウス。
見る。
「先生!」
「俺は悪くない!」
麗華は笑う。
「じゃあどうする?」
「値下げ!」
「どこまで?」
「半額!」
「仕入れ値より安くない?」
「……あ」
麗華は黒板へ書く。
『仕入れ値 銀貨5枚』
『販売価格 銀貨3枚』
「一個売るたび?」
「銀貨二枚損」
「そう」
生徒。
止まる。
「じゃあ、安くすれば売れるから正解、じゃない?」
「売れても損なら意味ないでしょう?」
「じゃあ別の街で売る!」
「いいね」
「先生、輸送費!」
別の生徒。
言う。
「あ」
「そこも考えて」
「面倒くさい!」
麗華。
笑う。
「商売って面倒なんですよ」
後ろ。
ユリウス。
黙る。
いつもの授業なら。
この時点。
半分。
時計。
見る。
今。
誰も。
見てない。
全員。
机。
数字。
仲間。
必死。
◇
「一回止めます」
麗華が言う。
生徒たち。
「えー!」
「まだやる!」
「止めるだけ」
麗華。
黒板。
二つ。
書く。
『A商会 売上100 経費95』
『B商会 売上60 経費30』
「どっちの商会が儲かってる?」
「A!」
何人か。
「売上百だから!」
別。
女子生徒。
「待って」
「何?」
「経費」
計算。
「Aは利益五」
「Bは三十」
「あ」
麗華が笑う。
「売上が大きい=儲かってる、ではないです」
ユリウスが後ろで僅かに目を見開く。
昨日まで。
同じ内容。
何度。
説明。
した。
でも。
今日は。
全員。
自分で気づいた。
「じゃあ皆さんの班」
麗華。
「売上だけ見てません?」
全員。
一斉。
自分たちの紙。
見る。
「あ!」
「俺ら場所代入れてない!」
「輸送費忘れた!」
「先生!」
「はい」
「利益って、全部引いた残り?」
「そう」
「じゃあ俺たち思ったより全然儲かってない!」
「そういうこと」
「最悪!」
でも。
笑っている。
失敗。
楽しい。
麗華。
それ。
見る。
少し。
嬉しい。
◇
午前の授業が終わる鐘が鳴った。
「今日はここまで」
「えぇー!」
「続き午後?」
「午後は別のことします」
「何やるんです?」
「まだ秘密」
生徒。
ざわ。
ユリウスが前へ出る。
「昼休みだ。九条講師も教師室へ――」
「麗華先生!」
一人。
男子。
呼ぶ。
麗華。
止まる。
「何?」
「普段何してるんですか?」
「私?」
「はい!」
「冒険者と接客」
「冒険者!?」
何人か。
一気。
寄る。
「ランクは!?」
「F」
「嘘だ!」
「本当ですよ」
別。
上級生。
顔。
変わる。
「待って」
「何?」
「九条麗華って……」
「うん」
「この前の伯爵家のパーティーで騎士止めた人?」
教室。
一瞬。
静か。
「……」
全員。
麗華。
見る。
「多分それ私」
「えぇぇぇ!?」
「先生何者!?」
「Fランクじゃないでしょう!」
「カードはFなんです」
「絶対おかしい!」
ユリウス。
額。
押さえる。
「授業と関係ない話はあとにしろ!」
麗華。
「先生、人気ありますね私」
「その自覚は今持つな」
◇
結局、麗華は教師室へ行かなかった。
中庭。
生徒。
何人か。
一緒。
昼食。
取る。
「麗華先生、これ食べます?」
「ありがとう」
「先生って二十一なんですよね?」
「そう」
「私と四歳しか違わない」
十七歳ほどの女子生徒。
言う。
「そう考えると先生って呼ばれるの変な感じ」
麗華も。
笑う。
「私も」
「でも似合ってます」
「本当?」
「綺麗だから」
「先生関係ないね」
一同。
笑う。
別。
女子。
麗華。
髪。
見る。
「先生」
「ん?」
「髪って何使ってるんですか?」
「特に何も」
「嘘!」
「本当に」
「その髪どうやったらなるんです?」
「生まれつき?」
「ずるい!」
男子。
横。
「俺も先生みたいな髪に――」
「お前はいいだろ」
「何でだよ!」
笑い。
麗華。
自然。
混ざる。
そこへ。
一人。
男子。
少し。
真面目。
「先生」
「何?」
「俺、貴族の家なんです」
「うん」
「次男だけど、兄が病弱だから、多分将来は俺が領地の仕事やる」
麗華。
少し。
姿勢。
変える。
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「うん」
「金の話が苦手です。父から勉強しろって言われても、数字見たら頭痛くなる」
「今日どうだった?」
「……面白かった」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
「え?」
「嫌いなんじゃなくて、今まで面白い入り口知らなかっただけかも」
「……」
「領地持ったら」
麗華。
パン。
一口。
「今日の商会ゲームの大きいやつですよ」
「大きいやつ?」
「住んでる人がいて、税金があって、道直して、警備して、食料仕入れて」
「あ」
「数字だけじゃなくて、人がいる」
男子。
少し。
考える。
「……それなら、ちょっと分かる気がする」
隣。
商人の娘。
言う。
「私は逆に、自分には関係ないと思ってました」
「何で?」
「兄が店継ぐので」
「自分でお金使わないの?」
「使います」
「働かない?」
「多分働きます」
「じゃあ関係あるでしょう?」
「……」
「お金って」
麗華。
軽く。
指。
動かす。
「商人だけのものじゃないから」
今度。
剣士志望。
男子。
「でも俺は冒険者になるから商売しません」
「剣買う?」
「買います」
「防具」
「買います」
「宿」
「泊まります」
「依頼報酬」
「もらいます」
「薬」
「買います」
男子。
「あ」
「逃げられないね」
全員。
笑う。
「先生、ちょっとずるい」
「何が?」
「言い返せない」
「接客してるので」
「それ関係ある?」
「かなり」
◇
少し離れた場所。
女子生徒。
三人。
ひそひそ。
麗華。
見る。
「何?」
「い、いえ」
「気になる」
一人。
覚悟。
「先生!」
「はい」
「結婚してますか!」
中庭。
「お前何聞いてんの!?」
男子。
騒ぐ。
麗華。
一瞬。
ルシアン。
思い出す。
でも。
もう。
大丈夫。
「してませんよ」
「じゃあ好きな人は!」
「いません」
男子。
一人。
急。
立つ。
「じゃあ俺――」
「続きは言わなくていいですよ」
「まだ何も言ってない!」
「分かるから」
「先生ずるい!」
女子。
爆笑。
麗華。
少し。
笑う。
高校生。
くらい。
若い。
真っ直ぐ。
その空気。
悪くない。
◇
午後。
「では」
麗華は黒板へ書く。
『信用』
「次はこれ」
生徒。
「信用?」
「午前よりつまらなそう」
「言いましたね?」
「すみません!」
「じゃあつまらなくないようにします」
麗華。
各班。
紙。
配る。
「今から皆さんには他の商会と取引してもらいます」
商品。
貸す。
借金。
約束。
契約。
すべて。
生徒。
自分たち。
決める。
「先生、契約書作っていい?」
「もちろん」
「相手が払えなかったら?」
「事前に決めて」
「利息は?」
「好きにしていいけど」
麗華。
笑う。
「嫌われない程度にね」
班。
交渉。
始まる。
「パン十個と薬草五個交換しよう」
「いや、薬草の方が高い」
「じゃあこっちが銀貨二枚つける」
「三枚!」
「二枚半!」
「半って何だ!」
麗華。
見る。
ユリウス。
後ろ。
少し。
笑っている。
しばらく。
して。
一班。
他班。
借りた。
金。
返さない。
「先生!」
「何?」
「こいつら契約破った!」
破った班。
笑う。
「だって今返さなかったら俺たち一位だもん!」
「なるほど」
麗華。
「じゃあ次の取引」
全班。
見る。
「この班と取引したい人?」
「……」
誰も。
手。
挙げない。
「え?」
「だって返さないじゃん」
「また裏切るだろ」
「嫌だ」
麗華。
その班。
見る。
「どうする?」
「……」
「今日銀貨十枚得した」
「はい」
「でも」
黒板。
『これからの取引』
書く。
「この先、誰も取引してくれなくなりました」
生徒。
静か。
「それが信用です」
ユリウス。
目。
細く。
なる。
「一回騙して銀貨十枚得しても、そのせいでこれから百枚分の商売を失ったら?」
「……損」
「そう」
麗華。
黒板。
『信用も資産』
書く。
「見えないけど」
生徒。
全員。
見る。
「お金と同じくらい大事なものです」
さっき。
契約。
破った。
男子。
手。
挙げる。
「先生」
「はい」
「じゃあどうしたら戻せます?」
麗華。
少し。
嬉しい。
「いい質問」
「!」
「皆ならどうする?」
「謝る」
「返す」
「多めに返す?」
「次からちゃんと契約守る」
「時間かかりそう」
「そう」
麗華.
「信用って作るの時間かかるのに、壊れるのは早い」
生徒。
少し。
真剣。
そこに。
最初の。
難しい顔。
ない。
◇
最後。
結果発表。
「一位」
麗華.
紙.
見る.
「第三班」
「よっしゃあ!」
歓声.
「焼き菓子どうぞ」
「やった!」
ユリウス.
「結局それは渡すのか」
「約束なので」
「しかし」
麗華.
「あと三つあります」
「増えてるじゃないか」
「途中で頑張ってたから」
生徒.
見る.
「一番立て直しが上手かった班」
剣.
大量.
仕入れ.
失敗.
した班.
「俺ら!?」
「最初は最悪だったけど、最後は隣町に売ってちゃんと利益出したから」
「やった!」
「一番信用を集めた班」
別.
班.
「そして一番協力できてた班」
ほぼ.
全員.
何か.
もらう.
ユリウス.
ため息.
「甘いな」
麗華.
少し.
笑う.
「頑張ったところは褒めた方がいいでしょう?」
「競争にならん」
「一位は一位ですよ」
「……」
「それに」
麗華.
生徒.
見る.
「今日は初日だから」
鐘.
鳴る.
授業.
終了.
普通なら.
すぐ.
立つ.
はず.
でも.
誰も.
動かない.
「麗華先生」
「何?」
「次いつ来るんです?」
「次?」
「来週?」
「またやるでしょう?」
「次は店もっと増やしたい!」
「俺、今度絶対剣買わない!」
「また剣でもいいだろ!」
麗華.
少し.
驚く.
「私、一日だけですよ」
教室.
一斉.
「えぇぇぇー!」
ユリウス.
後ろ.
その光景.
見る.
何も.
言えない.
いつも.
鐘.
待つ.
生徒.
今日は.
次.
聞く.
「先生、また来てください!」
「学院長に言って」
「言います!」
「本当に言うな!」
ユリウス.
止める.
教室.
笑い.
◇
放課後。
教室には麗華とユリウスだけが残っていた。
黒板にはまだ、原価、利益、信用という文字が残っている。
ユリウスはそれをしばらく眺めてから、ゆっくり口を開いた。
「……悔しいな」
「何が?」
「俺は何年も教えている」
「うん」
「今日の内容だって、ほとんど全部教えたことがある」
「そうでしょうね」
「なのに」
ユリウス.
生徒.
空.
席.
見る.
「あんな顔を見たことがない」
麗華は少しだけ考えた。
「でも」
「何だ」
「今日、あの子たちが分かったのって、先生が今まで教えてきたからじゃないです?」
ユリウスが麗華を見る。
「私は今日一日しかいないですよ」
「……」
「原価って言葉も、利益も、契約も、みんな聞いたことあった」
「それは」
「先生が教えたんでしょう?」
「……ああ」
「だから今日は、私は入口変えただけ」
麗華は黒板を軽く指す。
「知識の土台は先生が作ってたと思います」
ユリウスは長く黙った。
「お前は」
「はい?」
「こういう時だけ妙に優しいな」
「こういう時だけ?」
「普段は言い方が刺さる」
「失礼ですね」
「だが」
ユリウス.
少し.
笑う.
「助かった」
「ならよかった」
「それに、一つ分かった」
「何が?」
「俺は内容を教えることばかり考えていた」
「うん」
「どうしたら知りたいと思わせられるかは、ほとんど考えていなかった」
麗華.
頷く.
「先生、生徒のこと好きでしょう?」
「……なぜそうなる」
「嫌いなら」
麗華.
少し笑う.
「授業聞いてくれないくらいで、酒飲みに来るほど悩まないでしょう?」
ユリウス.
止まる.
「お前、本当に嫌なところまで見るな」
「よく言われます」
「だが」
彼はもう一度黒板を見た。
「次は俺がやってみる」
「いいと思います」
「手伝え」
「え?」
「教材を作る」
「それ仕事増えません?」
「顧問料は払う」
「学院の?」
「個人的にでも払う」
「……」
麗華.
笑う.
「先生、結構商売上手になりましたね」
「誰のせいだ」
◇
夜。
《月花亭》。
「おかえりなさい」
ルナが麗華を迎える。
「ただいま」
「先生、どうでした?」
「先生」
麗華はその呼び方を聞いて、少しだけ笑った。
「結構楽しかった」
「似合いそうです」
セリアが言う。
「麗華さん、人に説明するの上手いから」
「でも生徒、十六とか十七くらいでしょう?」
アリア.
麗華.
見る.
「あなたとそんなに歳変わらないじゃない」
「そうなんですよ」
「男子生徒とか大丈夫だった?」
「何が?」
「全員惚れさせて帰ってきたんじゃないでしょうね」
「失礼ね」
「本当に?」
麗華.
少し.
考える.
「……多分大丈夫」
「多分!?」
ルナの顔が僅かに曇る。
麗華.
気づく.
「ルナ?」
「何でもないです」
「妬いてる?」
「違います」
「早い」
「違います!」
麗華が笑う。
「でも」
「?」
麗華はカウンターの椅子へ座り、今日一日を思い返した。
黒板。
騒がしい教室。
笑う生徒。
真剣に数字を計算していた顔。
『麗華先生!』
呼ばれた声。
「麗華先生……」
一度、自分で呟いてみる。
ルナ.
「?」
麗華.
少しだけ口元を上げる.
「悪くないかも」
「先生続けるんですか?」
「それは大変そうだから嫌」
「そこなんですね」
「一日くらいがちょうどいい」
アリアが呆れて笑った。
その時、店の扉が開く。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのはユリウスだった。
麗華がすぐ気づく。
「あ、先生」
「ここでは先生と呼ぶな」
「今日は授業相談?」
「今日は本当に酒だけだ」
「分かりました」
麗華はいつもの席へ案内し、酒を用意する。
「今日は聞かない方がいい?」
「ああ」
「じゃあ黙ってますね」
「助かる」
三十秒。
一分。
二分。
「……麗華」
「はい?」
「次の授業なんだが」
麗華がゆっくり笑う。
「結局相談するんじゃないですか」
「少しだけだ」
「今日は酒だけじゃなかったの?」
「うるさい」
「ふふ」
そして麗華は、また一枚の紙を手に取った。
剣でも魔法でもない。
夜の店で培った、人の話を聞き、人が何を求めているのかを考える力。
それが今度は、一つの教室で三十人の少年少女を夢中にさせた。
異世界へ来てから、麗華ができることは少しずつ増えている。
冒険者。
接客。
商会の顧問。
そして今日。
一日だけの先生。
「で、次は何教えるんです?」
「税だ」
「……それはまた難しそうですね」
「だから相談してるんだ」
「じゃあ」
麗華は少し楽しそうに頬杖をついた。
「今度は国を一個作ってもらいます?」
「何?」
「皆で王様や領主になって」
ユリウスの目が、また少しだけ変わった。
麗華はそれを見て笑う。
どうやら。
麗華先生の仕事は、一日だけでは終わらないかもしれなかった。




