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女王転生  作者: のあ


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1/15

第一話 歌舞伎町の女王

 東京、新宿。


 午前一時を回っても、この街から光が消えることはない。


 巨大な看板が夜空を照らし、ネオンが濡れたアスファルトに滲んでいる。


 酔った男たちの笑い声。


 客引きの声。


 タクシーのクラクション。


 香水と煙草と酒の匂い。


 眠らない街――歌舞伎町。


 その中心にある、とある高級キャバクラ。


 今夜も店の前には黒塗りの車が何台も止まっていた。


 会社経営者。


 芸能関係者。


 投資家。


 誰もが名前を知る企業の役員。


 普通なら一晩同じ席につくだけでも緊張してしまうような男たちが、この店を訪れる。


 目的は一つだった。


「麗華ちゃん、今日いる?」


「申し訳ありません。本日、麗華は既に――」


「三十分だけでもいいよ」


「来月の予約取れない?」


「今日、地方からわざわざ来たんだけど」


 黒服が申し訳なさそうに頭を下げる。


「申し訳ございません」


 その視線の先。


 店の一番奥にあるVIPルーム。


 一人の女が笑っていた。


「それ、本当に言ったんですか?」


「ああ。会議中にな。『だったらお前が社長やれ』って」


「ふふっ」


 女が口元に手を添えて笑う。


「笑うなよ」


「だって、そのあと絶対後悔したでしょう?」


「……した」


「でしょうね」


 男もつられて笑った。


 女の名前は――九条麗華。


 二十一歳。


 腰まで伸びた艶のある黒髪。


 整った鼻筋。


 少し切れ長の瞳。


 化粧は決して派手ではない。


 むしろ、この街では薄い方だった。


 それでも彼女が店内を歩けば、人の視線が自然と集まった。


 芸能事務所から声をかけられた回数は数え切れない。


 モデルにならないか。


 女優にならないか。


 インフルエンサーをやらないか。


 そんな言葉を、麗華は昔から何度も聞いてきた。


 客の一人が彼女を見て言った。


『女神みたいだ』


 それが店で広まり。


 いつしか彼女には、もう一つの呼び名がついた。


 ――歌舞伎町の女王。


 入店から、わずか一年。


 たった一年で、この街の頂点に立った女。


 けれど。


「麗華ちゃん」


「はい?」


「本当に俺と付き合わない?」


「付き合いません」


「即答!?」


「ふふ」


「マンション買うよ?」


「いりません」


「車は?」


「自分で買えます」


「じゃあ何が欲しい?」


 麗華は少し考える。


「そうですね」


 男が期待する。


 麗華は微笑んだ。


「今日はもう一本、シャンパンをお願いします」


「結局それかよ!」


 部屋に笑い声が響く。


 これが麗華だった。


 男に媚びる。


 甘える。


 恋愛感情を匂わせる。


 そういうことを全くしないわけではない。


 けれど、決して一線は越えない。


 客とは寝ない。


 キスもしない。


 店の外で二人きりになることもほとんどない。


 それでも客は来た。


 麗華に会うためだけに。


 彼女は、男を騙していたわけではない。


 むしろ逆だった。


「社長」


「ん?」


「今日は仕事のお話やめません?」


 麗華が言う。


「どうして?」


「さっきから時計、三回見てます」


 男が止まった。


「あと、ここに来てから会社の名前が出た時だけ顔が固いです」


「……そんなに分かる?」


「分かります」


 麗華はグラスに水を注ぐ。


「外でも社長で、ここでも社長でいたら疲れるでしょう?」


「……」


「今日は普通のおじさんでいいですよ」


「おじさんは余計だ」


「あら」


 麗華が笑う。


「じゃあ普通のお兄さん?」


「それは嘘っぽい」


「難しいですね」


 男が吹き出した。


 麗華はそれを見て、ほんの少しだけ目を細める。


 相手が何を欲しがっているか。


 何を言いたいか。


 何を言ってほしくないか。


 自慢したいのか。


 慰めてほしいのか。


 ただ話を聞いてほしいのか。


 忘れたいのか。


 麗華はそれを見抜くのが、異常なほど上手かった。


 時計。


 靴。


 酒。


 指先。


 目線。


 声。


 笑うタイミング。


 話題を変えた瞬間の表情。


 ほんの僅かな変化を拾う。


 それは天性の才能でもあった。


 けれど。


 彼女が人の顔を見るようになった理由は、決して幸せなものではない。


     ◇


 麗華が十七歳の冬。


 父と母と、五歳下の弟が死んだ。


 交通事故だった。


 麗華だけは、その日車に乗っていなかった。


 学校帰り。


 教師に呼び止められ。


 病院へ連れていかれ。


 白い廊下を歩いた。


 あの日のことを、麗華は今でも鮮明に覚えている。


 白。


 どこを見ても、白かった。


 壁。


 天井。


 シーツ。


 医者の服。


 なのに、妙に暗かった。


 誰かが何かを説明していた。


 事故。


 衝突。


 救急搬送。


 心肺停止。


 死亡。


 言葉は聞こえているのに、意味が頭に入ってこなかった。


 弟の小さな手だけを覚えている。


「……冷たい」


 それしか言えなかった。


 父も。


 母も。


 弟も。


 三人ともいなくなった。


 葬儀が終わってから、麗華をどうするかという話になった。


「うちに来ればいいよ」


「そうそう。一人じゃ大変でしょう」


「麗華ちゃん綺麗なんだから、変な男に捕まったら危ないし」


 親戚たちは優しかった。


 少なくとも言葉だけは。


 けれど麗華には分かってしまった。


 視線。


 口調。


 距離。


「大学の学費くらい出してあげる」


「うちにいた方が安心だよ」


「本当に美人になったねえ」


 顔を見る。


 身体を見る。


 そのあと家や金の話をする。


 一人の親戚の男は、麗華の肩に手を置きながら言った。


「俺が面倒見てあげるから」


 麗華はその手を静かに外した。


「結構です」


「そんな遠慮しなくても」


「遠慮じゃありません」


 冷たい空気が流れた。


 誰も彼女に聞かなかった。


 何がしたいのか。


 どこにいたいのか。


 これからどうしたいのか。


 ただ一人を除いて。


「麗華」


 部屋の隅から、老婆の声がした。


 母方の祖母だった。


 小柄で。


 背中が少し丸く。


 髪はほとんど白くなっている。


「嫌じゃなかったら」


 祖母は言った。


「ばあちゃんのところにおいで」


 それだけだった。


「……いいの?」


「あんたが来たいならね」


「でも」


「金はないよ」


 祖母は笑った。


「ほんとにない」


 麗華は少しだけ笑った。


「自慢することじゃないでしょ」


「はは。そうだねぇ」


 その時だった。


 家族を失ってから初めて。


 麗華は少しだけ、呼吸ができた気がした。


     ◇


 祖母の家は、東京の古い雑居ビルの上にあった。


 一階には小さなバーがある。


 看板には一文字。


 ――《灯》。


 カウンター八席。


 奥に小さなテーブル席が二つ。


 決して綺麗な店ではない。


 床には傷がある。


 カウンターにも染みがある。


 エアコンから時々変な音がする。


「ほんとにボロいでしょ?」


 祖母が笑った。


「うん」


「否定しなさいよ」


「おばあちゃんが先に言ったんじゃん」


 二人で笑った。


 麗華は、この店が好きになった。


 学校帰り。


 カウンターの端に座って宿題をする。


 祖母が料理を作る。


 常連客が、


「麗華ちゃん、また綺麗になったなぁ」


 と言えば、


「そういうのいいから」


 と返す。


「冷たいなぁ」


「お酒飲んでるおじさんに言われたくない」


「ばあちゃん、孫が怖い」


「昔からだよ」


 祖母が笑う。


 そんな夜が好きだった。


 けれど。


 一年ほど経ったある日。


 麗華は学校から帰り、店の扉に手をかけた。


 中から男の声が聞こえた。


「いつまで待たせんだよ」


 麗華の手が止まった。


「……申し訳ありません」


 祖母の声。


「来月には必ず」


「それ前も聞いたよな?」


「……はい」


「婆さん」


 男が笑った。


「こっちも商売なんだよ」


 麗華が僅かに扉を開けた。


 スーツ姿の男が三人。


 祖母が頭を下げている。


 麗華は、その光景を見た瞬間。


 胸の奥が冷たくなった。


「あといくらだ?」


「……」


「聞こえねぇのかよ」


 机が蹴られた。


 祖母の肩が震える。


 麗華が扉を開けようとした。


 その時。


「でもまあ」


 一人の男が言った。


「金になりそうなもの、あるじゃねぇか」


 麗華の足が止まる。


「……何の話でしょう」


「孫娘」


 祖母が顔を上げた。


「……」


「綺麗なんだろ?」


 男が笑う。


「うちに預けろよ」


「……」


「二十歳になったら十分稼げるだろ。借金なんてすぐだぞ」


 祖母の表情が変わった。


 麗華が初めて見る顔だった。


「お断りします」


「あ?」


「この子には指一本触れさせません」


 声が震えている。


 怖いはずだった。


 それでも。


 祖母は男の前に立っていた。


「偉そうなこと言える立場か?」


「……」


「金借りてんのは誰だよ」


「私です」


「だったら――」


「それでもです」


 祖母は頭を下げた。


「お金は必ず返します」


 そして。


「ですから」


 深く。


 額が膝につきそうなほど。


「孫だけは勘弁してください」


 麗華は何も言えなかった。


 男たちが帰ったあと。


 店の灯りはつかなかった。


 祖母はカウンターの椅子に座っていた。


「……聞いてた?」


 麗華は答えなかった。


「ごめんねぇ」


 祖母が笑おうとする。


 笑えていなかった。


「昔ね」


 ぽつり。


「この店を始める時、知り合いに騙されたの」


 保証人。


 名義。


 事業資金。


 祖母には難しい言葉だった。


 信じて判を押した。


 残ったのは借金だった。


「ごめんね」


「……」


「こんな家で」


 祖母が目を伏せる。


「もっとちゃんとした家だったらよかったね」


「違うよ」


 麗華が言った。


「え?」


「違う」


 祖母の前にしゃがむ。


「私がおばあちゃんのところに来たの」


「麗華」


「誰かに無理やり連れてこられたんじゃない」


 祖母の手を握った。


 皺だらけだった。


 小さかった。


「私がおばあちゃんが好きだから」


 麗華は笑った。


「私がここにいたいの」


 祖母の目から涙が落ちた。


 麗華はその涙を見ないふりをして。


 祖母の手をずっと握っていた。


     ◇


 それから二年。


 麗華が二十歳になった春。


 男たちは再びやってきた。


「一年だ」


「……」


「一年以内に全部返せ」


 男が封筒を机へ投げる。


「無理なら店を畳んでもらう」


 祖母が唇を噛む。


「それでも足りなきゃ」


 男は麗華を見る。


 あの時と同じ目。


「こいつを貰う」


「させません」


 祖母が即答した。


「じゃあ返せよ」


「……」


「一年」


 男は笑った。


「楽しみにしてるぜ」


 扉が閉まった。


 麗華は封筒を開いた。


 金額を見る。


 無言。


「麗華」


「うん?」


「気にしなくていいからね」


「うん」


「店はもういいんだ」


「うん」


「ばあちゃん別の仕事探すし」


「うん」


「だから――」


「おばあちゃん」


「何?」


「今日、もう寝なよ」


「でも」


「大丈夫」


 麗華は笑った。


「私が考えるから」


 その夜。


 祖母が眠ったあと。


 麗華は一人で《灯》のカウンターに座った。


 封筒を開く。


 何度見ても金額は変わらない。


 普通のアルバイトでは無理だった。


 一年。


 絶対に足りない。


 麗華はスマートフォンを取り出した。


 メッセージ。


 過去に何度も来ていた。


《キャバクラで働きませんか?》


《絶対売れます》


《時給相談できます》


 いつも無視していた。


 嫌いだった。


 自分の顔で金を稼ぐということが。


 昔から、美貌のせいで嫌な視線を向けられてきた。


 だから。


 自分からそれを利用することだけはしたくなかった。


 でも。


 カウンターの向こう。


 祖母が毎日立っている場所を見る。


 男たちに頭を下げていた姿を思い出す。


「……一年ね」


 麗華は小さく呟いた。


 鏡を見る。


 昔から嫌いだった自分の顔。


「分かった」


 スマートフォンを手に取る。


「使ってあげる」


 自分の容姿も。


 頭も。


 言葉も。


 全部。


「絶対返す」


 そして。


 麗華は目を細めた。


「おばあちゃんに頭下げさせた奴ら」


 唇が笑みを作る。


 だけどその目は笑っていなかった。


「全員、私たちの前で土下座させてやる」


     ◇


 翌日。


 歌舞伎町。


 麗華は面接を受けた。


 店長は彼女を見るなり固まった。


「……えっと」


「九条麗華です」


「本当に未経験?」


「はい」


「モデルとかやってない?」


「やってません」


「芸能関係は?」


「ありません」


「……そう」


 履歴書と麗華の顔を何度も見比べる。


「採用」


「ありがとうございます」


「今決めていい?」


「面接する意味ありました?」


「ないかもしれない」


 こうして麗華の夜が始まった。


 最初の一週間。


 ほとんど指名は入らなかった。


 当然だった。


 どれだけ美人でも、新人。


 固定客はいない。


 けれど麗華は焦らなかった。


 他のキャストを見た。


 黒服を見た。


 客を見た。


 店全体を見る。


「麗華ちゃん」


「はい」


 先輩キャストが笑う。


「もっと客に甘えなきゃ」


「甘える?」


「そう。『会いたかったぁ』とか」


「会ってないのに?」


「そうだけど!」


 麗華は首を傾げる。


「嘘ってバレません?」


「キャバクラなんだからいいの!」


「なるほど」


 けれど麗華はやらなかった。


 三週間目。


 一人の男についた。


 五十代。


 会社経営者。


 他のキャストが聞く。


「社長さんなんですかぁ?」


「すごーい!」


「何の会社ですか?」


 男は笑う。


 でも麗華は見ていた。


 笑顔が少し硬い。


 仕事の話になる度に、左手でグラスを触る。


「九条です」


「麗華ちゃん?」


「はい」


「珍しいね。あんまり喋らないんだ」


「そうですか?」


「皆もっと質問してくるよ」


「じゃあ」


 麗華は少し考える。


「今日は仕事の話やめません?」


「……え?」


「疲れてそうなので」


 男の目が変わる。


「なんで?」


「会社の話する度にグラス触ってるから」


「……見てたの?」


「はい」


 麗華は笑う。


「外でも社長して、ここでも社長させられたら疲れません?」


 数秒。


 男は笑った。


「君、面白いね」


 翌週。


 その男が来た。


「麗華ちゃんいる?」


 初指名だった。


 その次の週。


 また来た。


 さらに、その男が知人を連れてきた。


「こいつ面白いんだよ」


「女の子紹介する言い方じゃないですね」


「ははは!」


 一人。


 二人。


 三人。


 麗華の客が増えていく。


 けれど麗華は、誰に対しても同じ接客をしなかった。


 自慢したい男には自慢させた。


「若い頃、営業で全国一位取ったんだ」


「それって何歳の時ですか?」


「二十六」


「二十六?」


 少し驚く。


「それは凄いですね。どうやったんです?」


 男は嬉しそうに話し始める。


 逆に、褒められるのが嫌いな男には何も言わない。


 疲れている男には静かに酒を作る。


 喋りたい男には質問をする。


 寂しい男には隣にいる。


 麗華が話しているのではない。


 麗華は、


 相手に話させていた。


 三か月。


 店内順位五位。


「新人で!?」


 黒服たちが驚いた。


 半年。


 二位。


 そして。


 八か月目。


「一位……」


 麗華は張り出された表を見た。


 店長が隣で笑う。


「おめでとう」


「ありがとうございます」


「嬉しくない?」


「嬉しいですよ」


「顔に出ないね」


「これでまだ半分くらいなので」


「何が?」


「目標です」


 麗華は順位表から目を離した。


 必要なのは、一位ではない。


 金だ。


 祖母を守れるだけの。


 金。


     ◇


 当然。


 危険な客もいた。


「麗華」


 ホテルの前。


 男が腕を掴んだ。


「離してください」


「いいだろ、一回くらい」


「嫌です」


「いくら?」


 麗華の顔から笑顔が消える。


「何がです?」


「だから、一晩」


「ありませんよ」


「は?」


「値段」


 麗華は男の手を見る。


「私は商品じゃないので」


 腕を振り払う。


「調子乗るなよ」


 男が低い声を出す。


「キャバ嬢だろ?」


 麗華は男を見た。


 怖くないわけではない。


 相手は自分より大きい。


 男。


 力なら負ける。


 でも。


 麗華は昔からこういう人間を知っている。


 強く見せている。


 相手が怯えることを前提にしている。


 だから。


「店に連絡しますね」


「は?」


「あと奥様にも」


 男の顔が変わった。


「……何で」


「結婚指輪の跡ありますよ」


 男が左手を見る。


「今日は外してますけど」


「……」


「ホテルの場所、時間、全部残ってます」


 スマートフォンを見せる。


「どうします?」


 男が黙る。


 麗華は微笑んだ。


「離していただけます?」


 それ以来、その男は二度と来なかった。


 暴力なんて使えない。


 だからこそ。


 相手を見る。


 弱点を見る。


 欲を見る。


 恐怖を見る。


 それが麗華の武器になった。


     ◇


 そして一年。


 二十一歳。


 月間売上。


 指名本数。


 店内記録を次々と更新した。


 他店からも名前を知られるようになった。


「歌舞伎町の女王」


 誰かがそう呼び始めた。


「大袈裟ですよ」


 麗華は笑った。


「でも実際そうじゃん」


「違います」


「じゃあ何?」


「ただのキャバ嬢です」


「ただのキャバ嬢が一年でここまで来ないって」


「そうですか?」


 麗華は気にしなかった。


 女王。


 No.1。


 そんなものはどうでもよかった。


 スマートフォンの銀行残高を見る。


 数字。


 何度も計算する。


 そして。


 ある夜。


 麗華は小さく息を吐いた。


「……足りた」


 翌日。


《灯》。


 祖母が開店準備をしていた。


「おばあちゃん」


「ん?」


「明日、店休んで」


「どうしたの?」


「行くところあるから」


     ◇


 翌日。


 麗華と祖母は、男たちの事務所にいた。


「なんだ?」


 一年前と同じ男。


 麗華は大きなバッグを机へ置いた。


「確認してください」


「……何だこれ」


「借金です」


 男の表情が変わる。


「元金」


 麗華が指を一本立てる。


「利息」


 二本目。


「そちらが請求した手数料」


 三本目。


「全部」


 麗華は微笑んだ。


「入っています」


「……」


 男たちが中身を確認する。


 一人が書類を見る。


 何度も。


 何度も。


「……マジかよ」


 祖母が麗華を見る。


「麗華……」


「言ったでしょ」


 麗華は笑った。


「大丈夫って」


 男が舌打ちする。


「……分かった」


 書類を机へ置く。


「これで終わりだ」


「まだです」


「あ?」


 麗華は椅子に座った。


 足を組む。


 一年前。


 この部屋で。


 祖母は頭を下げた。


 麗華は忘れていない。


「土下座」


「……何?」


「してください」


 部屋が静かになる。


「誰に言ってんだ?」


「皆さんに」


 麗華は笑う。


「一年前」


 男を見る。


「私のおばあちゃん」


「……」


「頭下げさせましたよね」


「それがどうした」


「だから」


 麗華は笑顔のまま言った。


「今度はあなたたちの番です」


「調子乗んなよ」


 男が机を叩いた。


「キャバ嬢風情が」


「そうですね」


「……」


「ただのキャバ嬢ですよ」


 麗華はスマートフォンを机へ置く。


「でも」


 画面には、一つの連絡先。


 弁護士。


 さらに。


 別の資料。


 過去の違法な取り立て。


 金利。


 録音。


 全て。


「この一年」


 麗華が言う。


「いろんな人と知り合いました」


 経営者。


 弁護士。


 金融関係者。


 行政関係者。


 そして。


 表には出ない世界の人間も。


「皆さん、意外とお喋りなんですよ」


 麗華は頬杖をついた。


「お酒が入ると特に」


 男の額から汗が流れる。


「私としては」


 麗華は言う。


「このまま弁護士に全部渡してもいいんです」


「……」


「ただ」


 祖母を見る。


「おばあちゃん」


「え?」


「どうする?」


 祖母は困った顔をする。


「私は……」


「許す?」


 祖母はしばらく黙った。


 そして。


「もう」


 優しく笑った。


「麗華が無事なら、それでいいよ」


 麗華は目を伏せた。


「……そっか」


 そして男たちを見る。


「聞きました?」


「……」


「うちのおばあちゃん」


 麗華は笑う。


「優しいんですよ」


 一拍。


「私は優しくないけど」


 男の顔が引きつる。


「だから」


 麗華は静かに言った。


「一回だけ」


 笑顔が消える。


「頭、下げてください」


 誰も喋らなかった。


 やがて。


 一人。


 膝をついた。


 もう一人。


 そして。


 最後に、あの男も。


 床に手をつく。


 額を床につける。


「……申し訳ありませんでした」


 麗華は何も言わなかった。


 隣を見る。


 祖母が泣いていた。


「おばあちゃん」


「麗華……」


「終わったよ」


「……」


「全部」


 祖母が麗華を抱きしめた。


「ごめんね」


「何で謝るの」


「こんなことさせて」


「違うよ」


 麗華も祖母の背中へ腕を回した。


 小さな身体。


 昔よりさらに細くなっていた。


「私がやりたかったの」


「……」


「おばあちゃん」


「うん」


「もう頭下げなくていいからね」


 祖母は声を上げて泣いた。


 麗華は。


 一年間。


 どんな客の前でも崩さなかった顔を。


 その時だけ崩した。


「……よかった」


 涙が落ちる。


「ほんとに」


 もう。


 大丈夫。


 これからは普通に暮らせる。


 祖母と二人。


 店を続けてもいい。


 辞めてもいい。


 旅行だって。


 少しくらい贅沢だって。


 してもいい。


 幸せになれる。


 そう思った。


     ◇


 その夜。


 麗華は仕事を早めに上がった。


「明日休みます」


「珍しいね」


 店長が言う。


「おばあちゃんとご飯行くので」


「いいね」


「何食べようかな」


「麗華がそんなこと言うの初めて聞いた」


「そうですか?」


「いつも仕事仕事だったから」


「もう」


 麗華は笑う。


「いいんです」


「何が?」


「頑張らなくて」


 店長は少し驚き。


 それから笑った。


「そっか」


「はい」


「じゃあ楽しんできな」


「ありがとうございます」


 店を出る。


 歌舞伎町。


 相変わらず眩しい。


 うるさい。


 酔っ払い。


 客引き。


 車。


 煙草。


「……一年か」


 長かった。


 でも。


 終わった。


 麗華はスマートフォンを見る。


 祖母からメッセージが来ていた。


《明日何食べたい?》


 麗華が笑う。


《おばあちゃんの作るオムライス》


 送信。


 すぐ既読になる。


《外食じゃないの?》


《それがいい》


《安上がりな孫》


《誰の孫でしょうね》


 麗華は笑いながら歩く。


 その時。


「九条」


 後ろから声。


 麗華が振り返る。


「……?」


 昼間の男だった。


 土下座した。


 あの男。


 顔が歪んでいる。


「お前のせいで……」


 麗華の表情が変わる。


「……何して」


「お前さえいなきゃ!」


 銀色。


 何かが光った。


 避ける。


 そう思った。


 でも。


 遅かった。


「――っ」


 腹部。


 熱い。


 何が起きたのか。


 一瞬分からない。


 男の手。


 包丁。


 自分の腹。


 赤。


「……え」


 男も。


 自分が本当にやったことに気づいたのか。


 顔を青くする。


 麗華の身体が傾いた。


 地面。


 冷たい。


 遠くで誰かが叫んでいる。


「救急車!」


「警察!」


「人刺された!」


 音が。


 遠い。


 麗華は自分の腹を押さえる。


 血。


 止まらない。


「……やだ」


 声にならない。


 痛い。


 怖い。


 死ぬ。


 その言葉が。


 頭に浮かぶ。


「……いや」


 やっと。


 終わったのに。


 一年。


 頑張った。


 寝ない日もあった。


 嫌な客にも笑った。


 怖い思いもした。


 酒で吐いた日もあった。


 泣きたい日も。


 全部。


 全部耐えた。


 なのに。


《明日何食べたい?》


 スマートフォンの画面。


 さっきの会話。


《おばあちゃんの作るオムライス》


 麗華の目から涙が流れた。


「……おばあちゃん」


 まだ。


 何もしていない。


 温泉。


 連れていってない。


 新しい服。


 買ってあげてない。


 店のエアコン。


 直してない。


 あの古い椅子だって。


 買い替えてない。


 もっと。


 もっと。


「……一緒に」


 いたかった。


 視界が暗くなる。


 麗華は手を伸ばした。


 誰もいない。


 でも。


 祖母の小さな手を思い出した。


 家族が死んだ日。


 誰も自分を見てくれなかった。


 唯一。


 祖母だけが。


『あんたが来たいなら、おいで』


 そう言ってくれた。


「……ありがとう」


 唇が動いた。


 誰にも聞こえない。


「おばあちゃん」


 もう。


 力が入らない。


「……大好き」


 歌舞伎町の光が。


 ゆっくり。


 消えていった。


     ◇


 ――九条麗華。


 二十一歳。


 家族を失い。


 祖母を守るために夜の街へ入り。


 わずか一年で頂点へ昇った女。


 後に。


 歌舞伎町の女王と呼ばれた彼女は。


 その夜。


 静かに息を引き取った。


 ――はずだった。


     ◇


「…………」


 何もない。


 白。


 どこまでも白い。


「……ここ」


 麗華は目を開けた。


 身体を起こす。


 腹を見る。


 傷がない。


 血もない。


「……病院?」


 違う。


 床も。


 壁も。


 天井すらない。


 ただ白い。


 その時。


「目を覚ましたか」


 男の声。


 麗華が顔を上げた。


 一人の男が立っている。


 白い長衣。


 銀色の髪。


 整いすぎた顔。


 人間離れした雰囲気。


「九条麗華」


 男が彼女を見る。


 そして。


「私は――」


 止まった。


「……」


「?」


「……」


 麗華が首を傾げる。


 男は麗華の顔を見たまま、数秒間完全に固まっていた。


「……何ですか?」


「いや」


 男が視線を逸らす。


「失礼した」


 麗華は少しだけ目を細める。


 そして。


 いつものように。


 相手の表情を見る。


 視線。


 声。


 僅かな間。


 全てを拾う。


「もしかして」


「何だ」


「私の顔見て、言うこと忘れました?」


「……」


「あら」


 麗華は微笑んだ。


「神様みたいな人でも、そんな顔するんですね」


 男の眉が動く。


「……なぜ私が神だと分かった」


「え?」


 麗華は一瞬黙り。


 次の瞬間。


 にっこりと笑った。


「今、自分で言いましたよ?」


「…………」


 神は。


 この時まだ知らなかった。


 目の前にいる女が。


 剣よりも。


 魔法よりも。


 遥かに厄介な武器を持っていることを。


 そして。


 この女との会話によって。


 本来一つだけ与える予定だった転生特典を。


 とんでもない数まで増やされることになるなど。


 知る由もなかった。


 歌舞伎町の女王。


 九条麗華。


 彼女の二度目の人生は。


 ここから始まる。


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