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scene3

「……ここまでくれば大丈夫かな」

「え、ええと……助けてくれてありがとう……?」


 男は足を止め、千尋の手を離す。先ほどまで三階にいたのに、ハギノから逃げるために一階に戻ってきてしまった。途中の踊り場で赤黒い物体を見てしまった気もしたが、暗かったうえに一瞬の事なのでよくわからない。あれは見間違いだったのだと自分に言い聞かせつつ、千尋は男を見上げた。

 やはりどこかで見たような事のある顔だ。童顔なせいか自分より年下のようにも見えるが、ここにいるという事は自分の同級生だったのだろう。恐らく彼は瑛士か悟朗であるはずだ。しかし千尋と二人は別の高校に行ったため、彼らとは五年前に別れたきりだった。当然、どちらの顔もよく覚えていないし、懐中電灯でしか照らせない彼の顔は非常に見えづらい。目の前の男がどちらなのかはわからなかった。

 そんな千尋の視線に気づいたのか、男は微苦笑を浮かべる。周囲を警戒するように見渡しながら、彼は小さな声で告げた。


「今野瑛士だよ。久しぶり、英」

「今野君!?」


 彼が瑛士ではないかというのは予想していたが、それでも改めて聞かされると驚愕と安堵が胸を占める。正輝の発言から、瑛士の生存は絶望的だと思っていたからだ。彼の事は瑛士か悟朗のどちらかだと思いつつ、悟朗である可能性が高いだろうと考えていた。だが、瑛士がこうして生きているのなら、他の者達の生存も期待していいかもしれない。

 ハギノは決して、すべてを無条件で呪い殺せるような存在ではないのだ。自分達が逃げ切れた事がそれを証明している。生きてこの校舎を脱出する事は決して不可能ではない。

 たとえハギノが自分達に恨みを持つ悪霊であっても、千尋にはここでハギノに殺される気などさらさらなかった。五年も前のできごとなどとっくに時効だろうし、なにより自分は直接いじめに加担していたわけではないのだ。ハギノに取り殺されるゆえんなどありはしない。

 生への渇望を一層強くし、千尋は外に出てみせると固く心に誓った。そのために重ねた言い訳がとことん下種で自分本位なものである事に、彼女はまだ気づかない。


「よかった、今野君も無事だったんだね……」


 千尋はふにゃりと頬を緩ませる。何はともあれ、彼が生きていてよかった。学生時代のいじめの主犯格こそが彼なのだ。その瑛士が許されているなら、自分達が殺される道理もない。千尋はほっと肩をなでおろした。

 だが、許される事と生きている事は等式で結ばれない。それすらわからないまま、千尋は横目で瑛士の顔を窺った。

 学生時代から彼は女子に人気だった。別の高校に進学してからも、彼の浮いた噂はよく耳に入ってくる。そのたびに住む世界が違う事を突きつけられた感じがして胸が苦しくなったのは今でもよく覚えていた。

 瑛士は自分達の中心的存在だった。顔がいいだけではなく成績もよくて運動もでき、さらに家は地元の名士。そのうえ明るく話し上手とくれば、これで人気が出ないわけがない。きっとほとんどの女子が彼に密かな好意を抱いていた事だろう。そして千尋もその例に漏れなかった。

 クラスでも目立たない地味な自分が彼のような人気者に想いを寄せるなど身の程知らずな事だと我ながら思っていたが、憧れを抱くだけなら誰にも迷惑をかけはしない。どうせ打ち明ける予定もないような想いだし、彼の姿を視線で追うぐらいは許されるだろう。そう自分に言い聞かせ、千尋は自らの恋心に折り合いをつけていた。

 久しぶりに見る瑛士は、記憶にある彼よりもずっと落ち着いてみえた。だが、いかんせん童顔なのでそれがアンバランスにも映る。もちろん中学生だった当時とすでに成人した今では心のありようも変わっているものだろうが、見た目が自分より年下なのでそこがギャップに感じられるのだ。まるで彼だけ高校生で時が止まっているようにも思えた。


「英?」

「あ……ご、ごめん、なんでもない」


 瑛士は怪訝そうに千尋を見る。千尋は慌ててぶんぶんと首を左右に振った。彼と自分が釣り合わない事は自覚している。五年経った今でも、やはり自分は地味で平凡なままだった。久しぶりに彼と会った事で思い出した恋心も、再び心の奥にしまっておくべきなのだろう。


「ねえ、今野君も一人なの?」

「ああ。ここには悟朗と一緒に来たんだが、『三年一組』に行く途中ではぐれちまってな。英は?」

「私は雫ちゃんと内村君と、それから紀井君と一緒に来たの。でも、宗田君と侑奈ちゃんにも会ったよ」


 恋愛脳のおかげで恐怖が和らいだが、いつまでもお花畑でいるわけにもいかない。現状把握の足掛かりとして旧友達の事を尋ねると、今野は少し渋い顔をした。どうしたのだろう。


「じゃあやっぱり、あそこにあったのは洋祐と水野か……」

「……え?」


 人は『あった』ではなく『いた』だ。そんな単純な間違いを彼が犯すとは思えない。それでも瑛士は洋祐と侑奈が『あった』と称した。何故その言い回しを選んだのか、嫌な予感が頭をよぎる。


「その……『一年一組』で……」


 瑛士は言いにくそうに口ごもる。それで千尋は理解してしまった。最悪の想像が現実となってしまったのだ。

 洋祐と侑奈は逃げ切れなかった。きっとあそこでハギノに殺されたのだ。二人を見捨てた事に対する罪悪感が鎌首をもたげたが、あそこで逃げなかったら殺されたのは自分だった。逃げなかった二人が悪いのだと強引に自分を納得させ、溢れ出す罪悪感を抑え込む。

 それに昴と尚忠について言及しないという事は、あの二人は生きているという事だ。全滅しなかっただけでもよかったと、何の免罪符にもならない自己満足のためだけの言い訳を心の中でもごもごと呟いていく。それぐらいしか平常な精神を保つ(すべ)はなかった。


「でも、お前が無事でよかった」


 そう言って、瑛士は爽やかに笑う。不謹慎にも胸が高鳴った。ときめいている場合ではないというのに、心臓は先ほどとは別の意味で激しく動き出している。我ながら現金な女だと、もう一人の自分が呆れたような声で呟いた。


「こ、今野君こそ……」


 周囲が暗いせいで赤くなった頬を見られないのが幸いだろうか。いくら目が闇に慣れたと言っても、頬に差した赤みまでは見分けられないはずだ。懐中電灯だって互いの顔を直接照らしているわけでもないし、よほどの事がない限りは気づかれないだろう。


「……だけど、無事を喜ぶのはまだ早いよね。とにかくここから抜け出さないと」

「ああ。でも、どうする気なんだ? 出入口はどこも封鎖されてたけど」


 高鳴る鼓動をごまかすように、千尋はあえて現実に引き戻されるような発言をする。互いの無事を噛み締めるのは、ここから出られてからでいい。


「『三年一組』に行こうと思ってるの。あの子が死んだあそこに行けば、少しは何かわかるんじゃないかなって」


 もちろんそれは何の根拠もない、ただの希望的観測だ。それでも『三年一組』に行って手を合わせれば、少しは供養になるのではないだろうか。

 そんな千尋の言葉を、瑛士は黙って聞いていた。話し終えても彼は何の反応も示さず、何とも言えない沈黙が訪れる。数分とも数十分とも取れるような居心地の悪い時間の後、やっと瑛士は口を開いた。


「……わかった。三階に戻ろう」


 三階には正輝の死体があるし、ハギノがまだうろついているかもしれない。それでも二人は再び階段を昇り始めた。

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