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誰の記憶にも残らないわたしが、誰からも忘れられる竜のもとへ嫁ぎました

作者: 中身無男
掲載日:2026/07/01

 わたしの右手には、誰にも見せられない痣がある。


 手の甲を覆う、大きな赤い痣。


 見せれば、人が目をそらす。


 その一瞬の、気まずい沈黙が、いやだった。


 だから、隠すように、わたしは、自分のすべてを、隠して生きてきた。


 痣も、声も、わたし自身も。


 目立たなければ、誰も、傷つけてはこない。


 そのかわり、誰も、わたしを覚えてはいなかった。


 名前を呼び違えられても、訂正しない。


 欲しいものを取られても、もとから欲しくなかった顔をする。


 そうしていれば、波風は立たない。


 それが、わたしの生き方だった。


 わたしは、誰の記憶にも、残らない女だった。


 だから――忘れられる竜のもとへ嫁ぐのは、きっと、わたしが、いちばん、向いていた。


    ◇


 その輿入れは、誰もやりたがらないものだった。


 北の果て、霧に沈む山嶺に、竜が棲んでいる。


 古く、強く、そして――呪われた竜。


 その竜のもとへ花嫁を出せと、王家から達しが来た。


 どの家も、娘を出し渋った。


 だから、わたしに来た。


「あの子なら、ちょうどいいでしょう」


 母は、そう言った。


 器量も地味で、嫁ぎ遅れている。


 いなくなっても、誰も困らない。


 わたしは、うなずいた。


 誰も行きたがらない場所への、ちょうどいい充て木。


 それだけのことだった。


 愛されるとは、思わなかった。


 望まれているとも、思わなかった。


    ◇


 竜の棲む城は、霧の中にあった。


 石造りの、古く、大きな城。


 わたしは、形ばかりの花嫁として、迎えられた。


 婚礼の儀も、祝いの宴も、なかった。


 ただ、いちばん奥の部屋を与えられ、あとは、放っておかれた。


 竜が、わたしに会いに来ることも、なかった。


 城には、人の気配が、薄かった。


 仕える者たちは、みな、どこか上の空で、わたしを通しながら、目を合わせない。


 ここにいる全員が、明日にはここを去ると決めているような、よそよそしさだった。


 案内に立ったのは、ひとりの令嬢だった。


「ようこそ、おいでくださいました」


 名を、シャルロッテといった。


 代々、竜に仕える家の娘だという。


 よく気がつく人だった。


 気がつきすぎて、わたしの値打ちを、もう、すっかり見定めているようだった。


「あなた、仮の花嫁ですわよね」


 歩きながら、彼女は、世間話のように言った。


「ここの方々、竜様のことを、すぐにお忘れになるの。おそばを離れれば、お顔も、お声も、過ごした日々も、きれいに」


 わたしは、その意味が、うまく掴めなかった。


「だから、誰も、本気にはなりませんの。想っても、消えてしまうのですから」


 その口ぶりは、慣れていた。


 悲しみさえ、すり切れたような。


「竜様ったら、ご自分を忘れない娘を、探しておいでなのよ。その娘が現れれば、呪いが解けるんですって」


 シャルロッテは、おかしそうに、肩をすくめた。


「でも、そんな娘、現れるはずがありませんわ。みんな、忘れてしまうんですもの」


 その「みんな」に、わたしも、当然のように、含まれていた。


    ◇


 竜と会ったのは、その夜だった。


 与えられた部屋の窓から、塔の灯りが、見えた。


 あそこに、竜がいる。


 形ばかりとはいえ、わたしは、あの人の妻になったのだ。


 一度くらい、挨拶をするのが、筋だろう。


 そう思って、わたしは、塔へ、向かった。


 広間の、いちばん奥。


 燭台の灯が届かない暗がりに、それは、いた。


 人の姿を、していた。


 黒い髪の、背の高い男の姿を。


 けれど、首筋から手の甲にかけて、黒い鱗が、わずかに覗いていた。


 竜だ、と、ひと目でわかった。


「来たのか」


 低い声だった。


 わたしを見て、けれど、その目は、どこか遠かった。


「無理に、来ることはない。どうせ、すぐに、私のことなど、どうでもよくなる」


 わたしは、膝を折り、礼をした。


 その拍子に、手袋が、ずれた。


 右手の痣が、灯りに、さらされた。


 しまった、と思った。


 いつもの沈黙が、来る。


 目を、そらされる。


 けれど。


 竜は、目を、そらさなかった。


 わたしの痣を、見て。


 それから、わたしの顔を、見た。


 遠かったはずのその目が、ゆっくりと、見開かれていく。


「……お前」


 竜の声が、かすれた。


 けれど、彼は、すぐに、口をつぐんだ。


 何かを、こらえるように。


「……いや。もういい。下がれ」


 わたしは、礼をして、退いた。


 扉を閉める間際。


 竜が、ひとり、つぶやくのが、聞こえた。


「まさか、な」


 その声の、寂しさだけが、いやに、耳に残った。


    ◇


 あの寂しそうな声が、どうしても、放っておけなかった。


 だから、翌日から、わたしは、塔へ、通うことにした。


 形ばかりの妻でも、できることは、ある。


 誰も世話をしないなら、わたしが、すればいい。


 茶を運び、部屋を整え、傷んだ書物を、繕う。


 竜は、無口だった。


 けれど、追い返しは、しなかった。


 城の者たちが、なぜ竜を遠ざけるのか、わたしは、じきに、知った。


 夕餉を運んだ娘が、翌朝には、竜の顔を、思い出せずにいたのだ。


「そんな方、いらしたかしら」


 悪びれもなく、首をかしげる。


 離れれば、忘れる。


 情も、約束も、過ごした時間も。


 だから、誰も、竜を想わない。


 わたしは、その様を見ながら、ふしぎと、胸が痛んだ。


 誰の記憶にも、残らない。


 それが、どういうことか、わたしは、知っていた。


    ◇


 ある日、わたしは、手袋を、外していた。


 痣のある手で、茶器を、置いた。


 竜が、その手を、見た。


 わたしは、とっさに、隠そうとした。


「隠すな」


 竜が、言った。


「見苦しいものでは、ない」


 わたしは、手を、止めた。


 竜は、自分の手の甲の、鱗を、見せた。


「私も、これだ。皆、恐れて、目をそらす」


 黒く、硬い鱗。


 けれど、わたしは、恐ろしいとは、思わなかった。


「……きれいです」


 気づけば、そう、言っていた。


 竜が、目を、見張った。


 それから、ふっと、笑った。


 初めて、見る、笑顔だった。


「変わった娘だ」


 その夜から、わたしのために、椅子が、ひとつ増えていた。


    ◇


 竜は、少しずつ、話すようになった。


 そして、奇妙なことに、彼は、わたしの些細なことを、覚えていた。


「お前は、苦い茶を好むな」


「先日、庭の白い花を、見ていただろう」


「左の肩を、かばう癖がある。痛むのか」


 わたしが、忘れているようなことまで。


 誰かに、覚えていてもらう。


 それが、こんなにも、あたたかいものだと、知らなかった。


 あるとき、わたしは、繕っていた書物の話を、した。


 古い、竜の一族の、物語だった。


 竜は、それを、懐かしそうに、聞いていた。


「それは、私が、幼い頃に、読んだものだ」


 彼は、ぽつぽつと、昔の話を、始めた。


 まだ、呪いを受ける前の、空を飛んでいた日々のこと。


 一族が、まだ、栄えていた頃のこと。


 わたしは、聞いた。


 竜が、これほど話すのを、城の誰も、知らないのだろうと、思いながら。


 その夜は、灯りが尽きるまで、二人で、話していた。


 わたしは、いつのまにか、竜のそばが、いちばん、息のしやすい場所に、なっていた。


 こんな時間が、ずっと続けばいい。


 そう、思った。


 けれど、続けばいいと願うほど、胸の隅に、小さな不安が、芽生えていた。


 わたしのような女に、こんな日々が、許されるはずがない、という不安が。


    ◇


 ある夜、竜が、ぽつりと、言った。


「お前も、いつか、私を忘れる」


 燭台の灯が、揺れていた。


「皆、そうだった。忘れない、と誓った者も、離れれば、忘れた。一人残らず」


 その声には、諦めが、染みついていた。


「これほど、語ったのは、久しぶりだ。だが、どうせ、明日には」


 わたしは、首を、振った。


「忘れません」


 竜が、わたしを、見た。


「皆、そう言う」


「わたしは、忘れません」


 もう一度、言った。


 なぜ、そう言い切れるのか、自分でも、わからなかった。


 ただ――この人を、忘れる自分が、どうしても、想像できなかった。


 竜は、何も、言わなかった。


 信じて、いないのが、わかった。


 だから、わたしは、証明することにした。


 翌朝も。


 その翌朝も。


 部屋に下がっても、幾晩過ぎても、わたしは、竜を、忘れなかった。


 声も、鱗の色も、ふとした横顔も、少しも、薄れなかった。


 むしろ、日ごとに、はっきりと、刻まれていく。


「……まだ、覚えて、いるのか」


 幾日も過ぎたある朝、竜が、信じられないという顔で、聞いた。


「忘れません」


 わたしは、笑った。


「言ったでしょう」


 竜が、長いあいだ、わたしを、見つめた。


 その目に、これまでなかった光が、灯っていた。


 すがるような、けれど、あたたかい、光が。


 わたしは、生まれて初めて、誰かに、必要とされている気が、した。


    ◇


 幸せだ、と思ってしまった。


 それが、いけなかったのかもしれない。


 ある日、わたしは、シャルロッテに、呼び止められた。


 もう、にこやかでは、なかった。


「ずいぶん、竜様に、可愛がられているようね」


「……シャルロッテ様」


「でも、忘れていない? あなた、仮の花嫁ですわ」


 彼女の声は、冷たかった。


「竜様が、お探しの娘がいるの。ご自分を忘れない、本物の娘が。その方が現れたら――あなたは、用済みよ」


 胸が、ひやりとした。


「竜様は、その娘を、何年も探しておいでなの。あなたは、それまでの、ただの繋ぎ。本物が来れば、捨てられる」


 わたしは、何も、言えなかった。


 そうだ。


 わたしは、忘れていた。


 自分が、何者なのかを。


 誰も行きたがらない場所への、ちょうどいい充て木。


 地味で、取るに足らない、余り物。


 竜が、わたしの些細を覚えていてくれたのも、必要としてくれたのも。


 きっと、本物が現れるまでの、かりそめ。


 本物の娘は、もっと、ふさわしい誰かのはずだ。


 わたしのような女で、いいはずが、ない。


    ◇


 その日から、シャルロッテは、たびたび、わたしの部屋を、訪れた。


「あなたのためを思って、言っているのよ」


 彼女は、優しく、囁いた。


「あなたが、ここにいるかぎり、竜様は、本物の娘を、探せない。あなたが、邪魔をしているの」


 そして、ある夜。


 彼女は、声を、ひそめて、言った。


「逃がして、さしあげる」


「……逃がす?」


「ええ。表向きは、花嫁が逃げたことにすれば、ご実家にも、累は及びませんわ。馬車も、手配しました。竜様には、わたくしから、うまく、お伝えしておく」


 彼女は、わたしの手を、握った。


 まるで、味方のように。


「あなたが消えれば、竜様は、自由になる。呪いも、解ける。それが、いちばん、いいでしょう?」


 その言葉は、わたしの、いちばん、柔らかいところに、刺さった。


 わたしさえ、消えれば。


 丸く、収まる。


 ずっと、そうしてきたように。


    ◇


 夜明け前。


 わたしは、霧の中を、歩いていた。


 シャルロッテの、手配した馬車が、城の外で、待っているという。


 荷を、まとめる手は、震えていた。


 竜のそばは、生まれて初めて、息のしやすい場所だった。


 忘れたくない、と思った。


 けれど、だからこそ。


 わたしが、いてはいけない。


 本物の娘の、場所を、奪っては、いけない。


 最後に、一度だけ、竜の顔を、見たかった。


 けれど、それすら、許されない気がして。


 わたしは、足を、速めた。


    ◇


「待て」


 声が、霧を、裂いた。


 振り返ると、竜が、いた。


 息を、切らして。


 あの、寡黙な竜が。


「なぜ、行く」


「……竜様。なぜ、ここに」


「シャルロッテが、お前は逃げたと、言いに来た。だが、信じられなかった。お前が、何も言わずに消えるなど」


 竜は、わたしの前に、立った。


「なぜだ。なぜ、行く」


 わたしは、俯いた。


「わたしは、仮の花嫁です。本物の娘が、来れば」


「本物の娘?」


「竜様は、ご自分を忘れない、本物の娘を、探しておいでなのでしょう。わたしは、その方が来るまでの、繋ぎだと」


「――そうだ」


 竜は、言った。


「私は、ずっと、探していた。一人の娘を」


 ほら。


 やっぱり。


 胸が、軋んだ。


「もう、いいのです」


 わたしは、微笑もうとした。


「わたしは、消えます。だから、その娘を」


「お前だ」


 竜が、言った。


 わたしは、顔を、上げた。


「……え?」


「私が探していたのは、お前だ」


 竜が、わたしの、右手を、取った。


 痣のある、その手を。


「ずっと昔。私が、呪いを受けて、間もない頃。傷ついて、森に倒れていた私に、ひとりの幼い娘が、触れた」


 竜の指が、わたしの痣を、なぞった。


「誰もが、私の鱗を恐れて、逃げた。だが、その娘は、逃げなかった。痣のある手で、私の鱗に触れて、笑ったのだ」


 その瞬間。


 わたしの中で、忘れていた、遠い一日が、像を結んだ。


 幼い頃。


 家を抜け出して、迷い込んだ、森の奥。


 傷ついた、黒い鱗の、生き物。


 みんなが恐れるそれを、わたしは、恐れなかった。


 なぜなら、わたしにも、人が目をそらす徴が、あったから。


 痣のある手を、伸ばして、その鱗に、触れて。


 言ったのだ。


 ――同じだね、と。


「あ……」


 声が、漏れた。


 あれは、あの、なんでもない、わたしの一日。


 とっくに、忘れていた。


 取るに足らない、些細な一日として。


 でも、竜は。


「同じだね、と、お前は、笑った」


 竜の声が、震えていた。


「私は、その一言を、一度も、忘れたことが、ない。何年も、お前を、探し続けた。お前の、痣だけを、頼りに」


 涙が、あふれた。


 わたしが、忘れていた、わたしを。


 この竜は、何年も、抱えていた。


 いちばん、大切に。


「で、ですが」


 わたしは、震える声で、言った。


「あんな、些細なこと。わたしは、忘れていました。覚えてすら、いなかった。そんな女が、あなたの探した娘だなんて」


「些細?」


 竜は、わたしの手を、強く、握った。


「あれが、私の、すべてだった。誰にも忘れられ、誰にも触れられなかった私に、ただ一人、差し出された手だった」


 彼は、その手を、自分の頬に、当てた。


「お前が、忘れていても、いい。私が、覚えている。お前の、すべてを」


    ◇


 城に戻ると、シャルロッテが、立ちすくんでいた。


 わたしと竜を見て、その顔が、こわばる。


「竜様。お戯れを。その娘が、本物のはずが」


「シャルロッテ」


 竜は、静かに、言った。


「お前は、長く、私に仕えた。だが、一つ、聞こう」


 彼の目が、彼女を、捉えた。


「お前が、はじめて私に会った日。私は、お前に、何と言った」


 シャルロッテの、笑みが、固まった。


「……それは」


「言えないのだな」


「そんなもの、誰だって、忘れますわ! 呪いの、せいで!」


「そうだ。誰だって、忘れる」


 竜は、わたしの手を、握ったまま、言った。


「ただ、ひとりを、除いて」


 シャルロッテは、青ざめ、唇を、噛んだ。


 それから、何か言いかけて。


 けれど、結局、何も言わずに、踵を返した。


 彼女は、その日のうちに、城を、去った。


 きっと、里へ下がるころには、竜のことも、この日のことも、きれいに、忘れているのだろう。


 最後まで、忘れる側のまま。


 それが、彼女の、生きる場所だった。


    ◇


 呪いが、解けたのか。


 わたしには、わからない。


 ただ、その日から、城の者は、竜を、忘れなくなった。


 一日離れても、幾晩過ぎても、竜の顔を、声を、ちゃんと、覚えていた。


 まるで、ひとりの娘が、忘れなかったことで、みなの、忘れる力が、少しずつ、溶けていくように。


    ◇


 その夜。


 わたしは、竜の隣に、いた。


 手袋を、していなかった。


 痣のある手を、隠さずに。


「ひとつ、聞いても、いいか」


 竜が、言った。


「お前は、これから、私を、忘れないでいてくれるか」


 わたしは、笑った。


 泣きながら、笑った。


「忘れるわけが、ありません」


 これほど、覚えていて、もらったのだ。


 忘れられる、はずが、ない。


「わたしは、あなたに、覚えていてもらった、初めての人間です。だから、わたしも――あなたを、覚えています。何があっても」


 それから、わたしは、彼の名を、呼んだ。


「ノクト」


 誰も、もう、呼ばなくなった名前を。


 皆が忘れ、ただ「竜」とだけ呼ぶようになった、その名を。


 ノクトが、くしゃりと、顔を歪めた。


 泣くのを、こらえそこねた子供のような顔だった。


 竜が、わたしの痣に、口づけた。


 隠すべきだった徴に。


 誰もが、目をそらした、その手に。


 いちばん、優しく。


 誰の記憶にも、残らなかった女は、もう、どこにも、いない。


 わたしは、忘れられない女に、なったのだ。


 たったひとり、この竜にとって。


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