誰の記憶にも残らないわたしが、誰からも忘れられる竜のもとへ嫁ぎました
わたしの右手には、誰にも見せられない痣がある。
手の甲を覆う、大きな赤い痣。
見せれば、人が目をそらす。
その一瞬の、気まずい沈黙が、いやだった。
だから、隠すように、わたしは、自分のすべてを、隠して生きてきた。
痣も、声も、わたし自身も。
目立たなければ、誰も、傷つけてはこない。
そのかわり、誰も、わたしを覚えてはいなかった。
名前を呼び違えられても、訂正しない。
欲しいものを取られても、もとから欲しくなかった顔をする。
そうしていれば、波風は立たない。
それが、わたしの生き方だった。
わたしは、誰の記憶にも、残らない女だった。
だから――忘れられる竜のもとへ嫁ぐのは、きっと、わたしが、いちばん、向いていた。
◇
その輿入れは、誰もやりたがらないものだった。
北の果て、霧に沈む山嶺に、竜が棲んでいる。
古く、強く、そして――呪われた竜。
その竜のもとへ花嫁を出せと、王家から達しが来た。
どの家も、娘を出し渋った。
だから、わたしに来た。
「あの子なら、ちょうどいいでしょう」
母は、そう言った。
器量も地味で、嫁ぎ遅れている。
いなくなっても、誰も困らない。
わたしは、うなずいた。
誰も行きたがらない場所への、ちょうどいい充て木。
それだけのことだった。
愛されるとは、思わなかった。
望まれているとも、思わなかった。
◇
竜の棲む城は、霧の中にあった。
石造りの、古く、大きな城。
わたしは、形ばかりの花嫁として、迎えられた。
婚礼の儀も、祝いの宴も、なかった。
ただ、いちばん奥の部屋を与えられ、あとは、放っておかれた。
竜が、わたしに会いに来ることも、なかった。
城には、人の気配が、薄かった。
仕える者たちは、みな、どこか上の空で、わたしを通しながら、目を合わせない。
ここにいる全員が、明日にはここを去ると決めているような、よそよそしさだった。
案内に立ったのは、ひとりの令嬢だった。
「ようこそ、おいでくださいました」
名を、シャルロッテといった。
代々、竜に仕える家の娘だという。
よく気がつく人だった。
気がつきすぎて、わたしの値打ちを、もう、すっかり見定めているようだった。
「あなた、仮の花嫁ですわよね」
歩きながら、彼女は、世間話のように言った。
「ここの方々、竜様のことを、すぐにお忘れになるの。おそばを離れれば、お顔も、お声も、過ごした日々も、きれいに」
わたしは、その意味が、うまく掴めなかった。
「だから、誰も、本気にはなりませんの。想っても、消えてしまうのですから」
その口ぶりは、慣れていた。
悲しみさえ、すり切れたような。
「竜様ったら、ご自分を忘れない娘を、探しておいでなのよ。その娘が現れれば、呪いが解けるんですって」
シャルロッテは、おかしそうに、肩をすくめた。
「でも、そんな娘、現れるはずがありませんわ。みんな、忘れてしまうんですもの」
その「みんな」に、わたしも、当然のように、含まれていた。
◇
竜と会ったのは、その夜だった。
与えられた部屋の窓から、塔の灯りが、見えた。
あそこに、竜がいる。
形ばかりとはいえ、わたしは、あの人の妻になったのだ。
一度くらい、挨拶をするのが、筋だろう。
そう思って、わたしは、塔へ、向かった。
広間の、いちばん奥。
燭台の灯が届かない暗がりに、それは、いた。
人の姿を、していた。
黒い髪の、背の高い男の姿を。
けれど、首筋から手の甲にかけて、黒い鱗が、わずかに覗いていた。
竜だ、と、ひと目でわかった。
「来たのか」
低い声だった。
わたしを見て、けれど、その目は、どこか遠かった。
「無理に、来ることはない。どうせ、すぐに、私のことなど、どうでもよくなる」
わたしは、膝を折り、礼をした。
その拍子に、手袋が、ずれた。
右手の痣が、灯りに、さらされた。
しまった、と思った。
いつもの沈黙が、来る。
目を、そらされる。
けれど。
竜は、目を、そらさなかった。
わたしの痣を、見て。
それから、わたしの顔を、見た。
遠かったはずのその目が、ゆっくりと、見開かれていく。
「……お前」
竜の声が、かすれた。
けれど、彼は、すぐに、口をつぐんだ。
何かを、こらえるように。
「……いや。もういい。下がれ」
わたしは、礼をして、退いた。
扉を閉める間際。
竜が、ひとり、つぶやくのが、聞こえた。
「まさか、な」
その声の、寂しさだけが、いやに、耳に残った。
◇
あの寂しそうな声が、どうしても、放っておけなかった。
だから、翌日から、わたしは、塔へ、通うことにした。
形ばかりの妻でも、できることは、ある。
誰も世話をしないなら、わたしが、すればいい。
茶を運び、部屋を整え、傷んだ書物を、繕う。
竜は、無口だった。
けれど、追い返しは、しなかった。
城の者たちが、なぜ竜を遠ざけるのか、わたしは、じきに、知った。
夕餉を運んだ娘が、翌朝には、竜の顔を、思い出せずにいたのだ。
「そんな方、いらしたかしら」
悪びれもなく、首をかしげる。
離れれば、忘れる。
情も、約束も、過ごした時間も。
だから、誰も、竜を想わない。
わたしは、その様を見ながら、ふしぎと、胸が痛んだ。
誰の記憶にも、残らない。
それが、どういうことか、わたしは、知っていた。
◇
ある日、わたしは、手袋を、外していた。
痣のある手で、茶器を、置いた。
竜が、その手を、見た。
わたしは、とっさに、隠そうとした。
「隠すな」
竜が、言った。
「見苦しいものでは、ない」
わたしは、手を、止めた。
竜は、自分の手の甲の、鱗を、見せた。
「私も、これだ。皆、恐れて、目をそらす」
黒く、硬い鱗。
けれど、わたしは、恐ろしいとは、思わなかった。
「……きれいです」
気づけば、そう、言っていた。
竜が、目を、見張った。
それから、ふっと、笑った。
初めて、見る、笑顔だった。
「変わった娘だ」
その夜から、わたしのために、椅子が、ひとつ増えていた。
◇
竜は、少しずつ、話すようになった。
そして、奇妙なことに、彼は、わたしの些細なことを、覚えていた。
「お前は、苦い茶を好むな」
「先日、庭の白い花を、見ていただろう」
「左の肩を、かばう癖がある。痛むのか」
わたしが、忘れているようなことまで。
誰かに、覚えていてもらう。
それが、こんなにも、あたたかいものだと、知らなかった。
あるとき、わたしは、繕っていた書物の話を、した。
古い、竜の一族の、物語だった。
竜は、それを、懐かしそうに、聞いていた。
「それは、私が、幼い頃に、読んだものだ」
彼は、ぽつぽつと、昔の話を、始めた。
まだ、呪いを受ける前の、空を飛んでいた日々のこと。
一族が、まだ、栄えていた頃のこと。
わたしは、聞いた。
竜が、これほど話すのを、城の誰も、知らないのだろうと、思いながら。
その夜は、灯りが尽きるまで、二人で、話していた。
わたしは、いつのまにか、竜のそばが、いちばん、息のしやすい場所に、なっていた。
こんな時間が、ずっと続けばいい。
そう、思った。
けれど、続けばいいと願うほど、胸の隅に、小さな不安が、芽生えていた。
わたしのような女に、こんな日々が、許されるはずがない、という不安が。
◇
ある夜、竜が、ぽつりと、言った。
「お前も、いつか、私を忘れる」
燭台の灯が、揺れていた。
「皆、そうだった。忘れない、と誓った者も、離れれば、忘れた。一人残らず」
その声には、諦めが、染みついていた。
「これほど、語ったのは、久しぶりだ。だが、どうせ、明日には」
わたしは、首を、振った。
「忘れません」
竜が、わたしを、見た。
「皆、そう言う」
「わたしは、忘れません」
もう一度、言った。
なぜ、そう言い切れるのか、自分でも、わからなかった。
ただ――この人を、忘れる自分が、どうしても、想像できなかった。
竜は、何も、言わなかった。
信じて、いないのが、わかった。
だから、わたしは、証明することにした。
翌朝も。
その翌朝も。
部屋に下がっても、幾晩過ぎても、わたしは、竜を、忘れなかった。
声も、鱗の色も、ふとした横顔も、少しも、薄れなかった。
むしろ、日ごとに、はっきりと、刻まれていく。
「……まだ、覚えて、いるのか」
幾日も過ぎたある朝、竜が、信じられないという顔で、聞いた。
「忘れません」
わたしは、笑った。
「言ったでしょう」
竜が、長いあいだ、わたしを、見つめた。
その目に、これまでなかった光が、灯っていた。
すがるような、けれど、あたたかい、光が。
わたしは、生まれて初めて、誰かに、必要とされている気が、した。
◇
幸せだ、と思ってしまった。
それが、いけなかったのかもしれない。
ある日、わたしは、シャルロッテに、呼び止められた。
もう、にこやかでは、なかった。
「ずいぶん、竜様に、可愛がられているようね」
「……シャルロッテ様」
「でも、忘れていない? あなた、仮の花嫁ですわ」
彼女の声は、冷たかった。
「竜様が、お探しの娘がいるの。ご自分を忘れない、本物の娘が。その方が現れたら――あなたは、用済みよ」
胸が、ひやりとした。
「竜様は、その娘を、何年も探しておいでなの。あなたは、それまでの、ただの繋ぎ。本物が来れば、捨てられる」
わたしは、何も、言えなかった。
そうだ。
わたしは、忘れていた。
自分が、何者なのかを。
誰も行きたがらない場所への、ちょうどいい充て木。
地味で、取るに足らない、余り物。
竜が、わたしの些細を覚えていてくれたのも、必要としてくれたのも。
きっと、本物が現れるまでの、かりそめ。
本物の娘は、もっと、ふさわしい誰かのはずだ。
わたしのような女で、いいはずが、ない。
◇
その日から、シャルロッテは、たびたび、わたしの部屋を、訪れた。
「あなたのためを思って、言っているのよ」
彼女は、優しく、囁いた。
「あなたが、ここにいるかぎり、竜様は、本物の娘を、探せない。あなたが、邪魔をしているの」
そして、ある夜。
彼女は、声を、ひそめて、言った。
「逃がして、さしあげる」
「……逃がす?」
「ええ。表向きは、花嫁が逃げたことにすれば、ご実家にも、累は及びませんわ。馬車も、手配しました。竜様には、わたくしから、うまく、お伝えしておく」
彼女は、わたしの手を、握った。
まるで、味方のように。
「あなたが消えれば、竜様は、自由になる。呪いも、解ける。それが、いちばん、いいでしょう?」
その言葉は、わたしの、いちばん、柔らかいところに、刺さった。
わたしさえ、消えれば。
丸く、収まる。
ずっと、そうしてきたように。
◇
夜明け前。
わたしは、霧の中を、歩いていた。
シャルロッテの、手配した馬車が、城の外で、待っているという。
荷を、まとめる手は、震えていた。
竜のそばは、生まれて初めて、息のしやすい場所だった。
忘れたくない、と思った。
けれど、だからこそ。
わたしが、いてはいけない。
本物の娘の、場所を、奪っては、いけない。
最後に、一度だけ、竜の顔を、見たかった。
けれど、それすら、許されない気がして。
わたしは、足を、速めた。
◇
「待て」
声が、霧を、裂いた。
振り返ると、竜が、いた。
息を、切らして。
あの、寡黙な竜が。
「なぜ、行く」
「……竜様。なぜ、ここに」
「シャルロッテが、お前は逃げたと、言いに来た。だが、信じられなかった。お前が、何も言わずに消えるなど」
竜は、わたしの前に、立った。
「なぜだ。なぜ、行く」
わたしは、俯いた。
「わたしは、仮の花嫁です。本物の娘が、来れば」
「本物の娘?」
「竜様は、ご自分を忘れない、本物の娘を、探しておいでなのでしょう。わたしは、その方が来るまでの、繋ぎだと」
「――そうだ」
竜は、言った。
「私は、ずっと、探していた。一人の娘を」
ほら。
やっぱり。
胸が、軋んだ。
「もう、いいのです」
わたしは、微笑もうとした。
「わたしは、消えます。だから、その娘を」
「お前だ」
竜が、言った。
わたしは、顔を、上げた。
「……え?」
「私が探していたのは、お前だ」
竜が、わたしの、右手を、取った。
痣のある、その手を。
「ずっと昔。私が、呪いを受けて、間もない頃。傷ついて、森に倒れていた私に、ひとりの幼い娘が、触れた」
竜の指が、わたしの痣を、なぞった。
「誰もが、私の鱗を恐れて、逃げた。だが、その娘は、逃げなかった。痣のある手で、私の鱗に触れて、笑ったのだ」
その瞬間。
わたしの中で、忘れていた、遠い一日が、像を結んだ。
幼い頃。
家を抜け出して、迷い込んだ、森の奥。
傷ついた、黒い鱗の、生き物。
みんなが恐れるそれを、わたしは、恐れなかった。
なぜなら、わたしにも、人が目をそらす徴が、あったから。
痣のある手を、伸ばして、その鱗に、触れて。
言ったのだ。
――同じだね、と。
「あ……」
声が、漏れた。
あれは、あの、なんでもない、わたしの一日。
とっくに、忘れていた。
取るに足らない、些細な一日として。
でも、竜は。
「同じだね、と、お前は、笑った」
竜の声が、震えていた。
「私は、その一言を、一度も、忘れたことが、ない。何年も、お前を、探し続けた。お前の、痣だけを、頼りに」
涙が、あふれた。
わたしが、忘れていた、わたしを。
この竜は、何年も、抱えていた。
いちばん、大切に。
「で、ですが」
わたしは、震える声で、言った。
「あんな、些細なこと。わたしは、忘れていました。覚えてすら、いなかった。そんな女が、あなたの探した娘だなんて」
「些細?」
竜は、わたしの手を、強く、握った。
「あれが、私の、すべてだった。誰にも忘れられ、誰にも触れられなかった私に、ただ一人、差し出された手だった」
彼は、その手を、自分の頬に、当てた。
「お前が、忘れていても、いい。私が、覚えている。お前の、すべてを」
◇
城に戻ると、シャルロッテが、立ちすくんでいた。
わたしと竜を見て、その顔が、こわばる。
「竜様。お戯れを。その娘が、本物のはずが」
「シャルロッテ」
竜は、静かに、言った。
「お前は、長く、私に仕えた。だが、一つ、聞こう」
彼の目が、彼女を、捉えた。
「お前が、はじめて私に会った日。私は、お前に、何と言った」
シャルロッテの、笑みが、固まった。
「……それは」
「言えないのだな」
「そんなもの、誰だって、忘れますわ! 呪いの、せいで!」
「そうだ。誰だって、忘れる」
竜は、わたしの手を、握ったまま、言った。
「ただ、ひとりを、除いて」
シャルロッテは、青ざめ、唇を、噛んだ。
それから、何か言いかけて。
けれど、結局、何も言わずに、踵を返した。
彼女は、その日のうちに、城を、去った。
きっと、里へ下がるころには、竜のことも、この日のことも、きれいに、忘れているのだろう。
最後まで、忘れる側のまま。
それが、彼女の、生きる場所だった。
◇
呪いが、解けたのか。
わたしには、わからない。
ただ、その日から、城の者は、竜を、忘れなくなった。
一日離れても、幾晩過ぎても、竜の顔を、声を、ちゃんと、覚えていた。
まるで、ひとりの娘が、忘れなかったことで、みなの、忘れる力が、少しずつ、溶けていくように。
◇
その夜。
わたしは、竜の隣に、いた。
手袋を、していなかった。
痣のある手を、隠さずに。
「ひとつ、聞いても、いいか」
竜が、言った。
「お前は、これから、私を、忘れないでいてくれるか」
わたしは、笑った。
泣きながら、笑った。
「忘れるわけが、ありません」
これほど、覚えていて、もらったのだ。
忘れられる、はずが、ない。
「わたしは、あなたに、覚えていてもらった、初めての人間です。だから、わたしも――あなたを、覚えています。何があっても」
それから、わたしは、彼の名を、呼んだ。
「ノクト」
誰も、もう、呼ばなくなった名前を。
皆が忘れ、ただ「竜」とだけ呼ぶようになった、その名を。
ノクトが、くしゃりと、顔を歪めた。
泣くのを、こらえそこねた子供のような顔だった。
竜が、わたしの痣に、口づけた。
隠すべきだった徴に。
誰もが、目をそらした、その手に。
いちばん、優しく。
誰の記憶にも、残らなかった女は、もう、どこにも、いない。
わたしは、忘れられない女に、なったのだ。
たったひとり、この竜にとって。




