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【第4話】Paints of dreams③

二人が居間に戻ると、使用人の佐藤がちょうどテーブルに料理を並べ終えたところだった。

部屋中に広がったのは、濃厚なデミグラスソースの香り。大皿の中で湯気を立てるシチューの脇には、表面をパリッと焼き上げた香ばしいバゲットと、野菜を使った彩り豊かなサラダが添えられている。山奥のひっそりとした静寂と、古い洋館の少し冷えた空気に、その温かな家庭料理の匂いは驚くほど優しく調和していた。


「お二人とも、お帰りなさい。ちょうどお食事の準備ができました。お口に合うか分かりませんが...」


「いえ、どれもすっごく美味しそうです!」


玲奈はテーブル一面のご馳走を目で堪能し、お腹の虫を鳴らしかける。だがその横で、透は料理には目もくれず、探るようにあたりを見回していた。


「佐藤さん。あの...一ノ瀬さんは?」


「旦那様は、いつもアトリエで食事をとられます。先ほどもうお持ちしました。」

佐藤はうつむき、寂しそうに声を落とす。


「さあ、お二人とも温かいうちに食べましょう!」


三人は席に着き、「いただきます」と手を合わせた。

玲奈が匙を運び、一口シチューを口に含む。その瞬間、口の中でとろけるほど柔らかく煮込まれた肉の旨味が、深いコクのあるソースと共にじゅわりと広がった。


「...っ、美味しい...!」


思わず顔が綻ぶ。

透も同様に、バゲットをソースにたっぷりと浸して頬張ると、満足げに目を細めた。


「これは...!確かに、思わず笑っちゃうくらい旨いな。」


「本当です!こんなに美味しいシチュー、初めて食べました!」


玲奈の心からの賛辞に、佐藤は少し照れたように目元を緩めた。

「...そう言っていただけると、作り甲斐があります。どうぞ、ごゆっくり。」


「それで...何か分かりましたか?」

食事を進めながら、佐藤がそわそわとした様子で尋ねてくる。

二人は一瞬だけ視線を交わした。透が食事の手を止め、真剣なトーンで切り出す。


「実は、一ノ瀬さんがああなってしまった原因、分かったかもしれません。」


「本当ですか!?何が原因だったんでしょう...やはり、何か悪いものが憑いていたのですか?」


佐藤は驚きと、それ以上の喜びを滲ませて身を乗り出した。


「まだ確定したわけじゃないので、詳しいことは言えません。ですが、原因になっている物を取り除けば、おそらく一ノ瀬さんの症状は収まります。ただ...」


「アトリエにあるんですね...」


佐藤の言葉に、透は一瞬だけ目を見開いたが、すぐにニッと口元を上げた。

「ええ。さすが佐藤さん、察しがいい。その通りです。なので、一ノ瀬さんが眠っている間に、こっそり侵入しようと思います。」


断られるか、あるいは咎められるか。そう身構えた二人だったが、佐藤は静かに頷いた。


「分かりました。お願いします。」


予想外の即答に、玲奈は思わず声を上げる。

「いいんですか?一ノ瀬さん、知ったらものすごく怒るんじゃ...」


「ご立腹になるでしょうね。それでも...私は旦那様の身体が何よりも心配です。」


佐藤はスプーンを置き、エプロンの裾をきゅっと握り締め、すがるような目で二人を見つめた。


「昔の旦那様は、それこそ寝食を忘れてキャンバスに向かうような方でした。限界まで絵を描き、気絶するように眠る。起きれば食事を平らげて、すぐにアトリエへ向かう。世間には一切干渉せず、誰とも付き合わない。健全とは言えない生活でしたが、あの人の絵に対する情熱は間違いなく本物でした。私はそんな旦那様を本当の家族だと思い、陰ながらずっと応援してきたんです。」


そこまで一気にまくしたてると、佐藤の目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。慌ててハンカチで目元を抑える。


「でも...今の旦那様には生気がありません。まるで、ただの人形のように機械的に筆を動かしているだけ。しかも眠る時間は日に日に長くなっています...このまま、いつか本当に目を覚まさなくなってしまうんじゃないかと、毎日不安で仕方がなかったんです。ですから、不法侵入でも何でも構いません。どうか、旦那様を助けてください。」


「佐藤さん、安心してください。」


透はいつになく穏やかな、それでいて力強い声で言った。

「そのために、俺たちがいるんですから。」


「ありがとうございます...もうすぐ旦那様が眠りにつく時間のはずです。アトリエには鍵がかかっておりますので、私も一緒に参ります。」


透がポケットからスマホを取り出して画面を見ると、時刻はもうすぐ14時を回ろうとしていた。睡眠時間が長くなった結果、寝る時間そのものが前倒しになっているのだろう。


食事を終え、透が静かに立ち上がる。

「佐藤さん、玲奈ちゃん、行こっか。」


玲奈と佐藤は、引き締まった表情で力強く頷いた。


「どうぞ。」


一ノ瀬が眠りに落ちたことを確認し、佐藤は二人を連れて別館のアトリエの前に立った。鍵穴に差し込まれた古びた鍵が回り、重いオーク材の扉がギィと不気味な音を立てて開く。


その瞬間、玲奈は思わず手で鼻を覆った。

本館の、清潔さとはあまりにもかけ離れた、強烈な絵の具と揮発油の臭気が鼻腔を突く。


「うわぁ...こりゃまた、なかなかにパンクなことになってるねぇ。」


透が目を細め、感心したような声を漏らす。

一歩足を踏み入れた玲奈は、足元に転がっていた乾いた筆を踏みそうになり、慌てて飛び退いた。


アトリエの中は、まさにカオスそのものだった。

広い室内の床には、放置されて干からびた絵の具のチューブがいくつも散乱し、使い古されたパレットや、濁った水の入ったバケツが足の踏み場もないほどに放置されている。


そして何より玲奈の目を引いたのは、部屋を埋め尽くすおびただしい数のキャンバスだった。


「これ...全部、一ノ瀬さんが?でも、どれも未完成ですね。」

玲奈が声を潜めて呟く。


イーセルの上に乗せられたもの、壁に乱雑に立て掛けられたもの、あるいは床に投げ出されたもの。それらのほとんどが、途中で描くのを放棄された、おぞましいほど未完成の絵ばかりだった。


「...旦那様は、半年ほど前から、満足のいく絵を一枚も描けておりません。」


後ろからついてきた佐藤が、痛々しいものを見る目で散らかった部屋を見つめる。

「以前なら、どれほど苦悩されても最後には必ず素晴らしい作品を仕上げておられましたが...」


佐藤の切実な言葉を聞きながら、透はすっとしゃがみ込み、床に転がっている引き裂かれたキャンバスの一枚にそっと触れた。


「佐藤さん。ここからは俺らの仕事です。任せてもらえませんか?」


「分かりました...これで、旦那様は本当に元に戻るんですよね?」

佐藤は絞り出すような声で、不安を隠しきれないまま透に尋ねる。


「約束はできませんが、最善を尽くします。」


そんな佐藤を安心させるように、透は小さく微笑んで答えた。


「ありがとうございます...では、外でお待ちしております。」


佐藤がアトリエを後にし、静かにドアが閉まると、透は玲奈に向き直った。


「さぁ、玲奈ちゃん。この部屋にある憑依物を探してみて。幻力がちょっと薄いから、難しいかもね?」

透は意地悪く笑いながら、玲奈の能力を試すように顎をしゃくった。


「...やってみます。」


玲奈は深く息を吐き、そっと目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます。

事務所では、Diが毎日、幻力をコントロールするための特訓に付き合ってくれていた。Diが自分の幻力を物に込め、それを玲奈が探し出すという初歩的な訓練。それでも、玲奈が百発百中で見つけられるようになるまでには丸一週間かかった。

Di曰く、玲奈の「幻素に対する抵抗力が高い体質」が、逆に察知の邪魔をしている可能性が高いとのことだった。


「...見つけました。」

玲奈は目を開けると、迷いのない足取りで歩き出した。


床に散らかるパレットや絵の具のチューブを器用に飛び越え、部屋の最奥にあるイーセルへと向かう。その横に置かれた、薄汚れた作業机の前で足を止めた。


「これです。この絵の具が、憑依物です。」


玲奈が指差したのは、作業机の上に置かれていた絵の具のチューブの山だった。

一見すると市販の絵の具と何の変わりもない。だが、玲奈は絵具から立ち上る微かな幻力を見逃さなかった。


「正解!さすがだね。」


透はパチパチと小さく拍手し、感心したように目を細める。


「じゃあ、封印しちゃおうか。はい、これ。」


手渡されたのは、幻力を封じ込めるための幻札だ。玲奈はそれを受け取ると、絵具のチューブを箱に入れ直し、幻札自身の幻力を込めて、絵の具の箱の蓋に貼り付けた。

とたん、先ほどまで感じた微かな幻力が姿を消す。


「ふぅ...」

玲奈は胸をなでおろす。


「よくできました。あとは本人に事実確認するだけだけど...正直に話してくれるかなぁ?」


玲奈が絵の具箱を鞄に収め、二人はアトリエを後にした。

廊下で待っていた佐藤に、対象の物品を見つけ、対処を完了した旨を伝える。


「ありがとうございます!これで旦那様は元に戻るんですよね?」


「経過観察は必要ですが、おそらくは。ただ、一ノ瀬さんに何て説明しようかなぁ...」


透はポリポリと後頭部を掻いた。家主のあの偏屈な性格を考えると、今回の無断侵入を許してくれるとは思えない。どうやって弁明しようかと頭を悩ませた、その時だった。


「透さん!」


緊迫した玲奈の声に弾かれ、透は彼女が指差す廊下の先へと視線を移した。

そこには、形相を変え、激しい足取りでこちらへ走ってくる一ノ瀬の姿があった。


「旦那様!?どうして...」


佐藤が驚愕の声を上げる。今の一ノ瀬は、一度眠れば16時間は起きないはずだ。まだ眠りについてから2時間ほどしか経っていないにもかかわらず、その目がはっきりと開いているという事実に、佐藤は震えていた。


「お前らっ!勝手にアトリエに入ったな!?何をした!俺の目が覚めたのは、お前らの仕業か!?」


一ノ瀬は三人の前で足を止め、肩を激しく上下させながら問い詰めてくる。

透はため息混じりに、玲奈の鞄から先ほどの絵の具箱を取り出し、一ノ瀬の目の前に突きつけた。


「これのことですか?だったら、俺たちが封印しました。」


その言葉を聞いた瞬間、一ノ瀬の瞳からすっと光が消えた。まるで糸の切れた人形のように、その場にへなへなと崩れ落ちる。


「話、聞かせてもらえますか?これは一体何なのか。どこで手に入れたのか。そして、なんでアンタが、治療を頑なに拒んでいたのかを。」


地面に座り込んで動かなくなってしまった一ノ瀬を、三人がかりで居間のソファへと運んだ。最初は放心状態で会話ができる状態ではなかったが、10分ほど経ち、一ノ瀬の呼吸がようやく落ち着いたのを見計らって、透が静かに口を開いた。

透の隣では、玲奈が手帳を開いてペンを構え、いつでも会話を記録できるようスタンバイしている。


「...佐藤さんはどうした?」


ようやく正気を取り戻した一ノ瀬が、居間を見回して呟いた。


「『私は旦那様に戻ってほしいだけです。ここからの内容は、私は聞かない方がいいでしょう』だってさ。気を使って、席を外してくれたんだよ。」


「そうか...佐藤さんには、心労をかけたな...」

一ノ瀬は痛ましそうに目を伏せる。


「そう思うなら、本当のことを言ってください。」


透のまっすぐな視線に、一ノ瀬は観念したように息を漏らした。


「ここで待っていろ。すぐ戻る。」

一ノ瀬はソファから立ち上がり、重い足取りで居間を出て行った。玲奈と透は顔を見合わせ、小さく肩をすくめる。


数分後、戻ってきた一ノ瀬の手には、一枚の封筒が握られていた。

彼は向かいのソファに深く腰掛け直すと、その封筒を二人の前のテーブルに差し出した。


「半年前に、知らない人から小包が届いた。これが、その中に入っていた手紙だ。」


透封筒を手に取り。「中、見ても?」という問いに一ノ瀬が「ああ」と短く応じると、透は中から三つ折りにされた便箋を取り出した。折りたたまれた紙を広げると、そこには上品で、驚くほど整った美しい文字が並んでいた。


◇

拝啓


初夏の候、一ノ瀬様におかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。


かねてより、私どもは一ノ瀬様が描かれた作品を幾度となく拝見させていただいておりました。そのどれもが言葉を失うほどに素晴らしく、深く感銘を受けておりましたことは、今も鮮明に記憶に刻まれております。


しかしながら、仄聞するところによれば、近頃は少々筆が進まぬご様子とお見受けいたします。そればかりか、一ノ瀬様ご自身が深く苦悩され、心を痛めていらっしゃると伺い、私ども一同、胸が締め付けられるような思いでおります。


美術界の第一線へと再び返り咲き、ご自身が心から納得のいく作品を描き上げるという一ノ瀬様の高き夢。その夢を、どうか諦めないでいただきたいと切に願っております。


つきましては、その大いなる夢を叶える一助となるかもしれない「ある代物」を、不躾ながら本状に同封いたしました。私どもからの、ささやかな贈り物でございます。どうかお受け取りいただけますと幸いに存じます。


みずみずしい新緑の季節、一ノ瀬様が再び眩い輝きを取り戻される日を、一同、心よりお祈り申し上げます。


敬具


望月組一同


一ノ瀬蓮 様

◇


「手紙にある『ある代物』っていうのが、さっきの絵の具ですね。」

透は文面を読み終えると、それを隣の玲奈に手渡した。


「ああ。手紙と一緒に小包に入っていた。」

一ノ瀬は自嘲気味に笑い、ぽつりぽつりと語り始めた。


「2年前からだ、スランプに陥ったのは。自分が満足できる絵が、一枚も描けなくなった。...今まで、そんなこと一度もなかったのに。世間が俺の絵にどれだけの価値をつけようが、そんなことはどうでもよかった。俺はただ、自分が納得のいく作品を描きたかっただけなんだ。そのためなら、何だってするつもりだった。そんな時に、あの小包が届いたんだ。」


一ノ瀬は深く息を吸い込み、視線を落とす。


「神からの啓示か、それとも悪魔の誘いか。普段なら気味の悪い悪戯だと捨てていただろうが、あの時の俺は、あまりの絶望にその藁に縋ってしまった。届いた絵の具を使って、すぐに絵を描いた。...だが、何も変わらなかった。いつも通り、思い通りの線が引けない。絵の具ごときで才能が戻るわけがない。そんなことは分かっていたはずなのに、いざ突きつけられると、目の前が真っ暗になるほどの落胆だったよ。」


そこで一度言葉を切り、一ノ瀬はテーブルの上の冷え切った紅茶を小さく啜った。


「そのあとは...どうなったんですか?」

玲奈が身を乗り出し、先を促す。


「その日も満足のいく作品が描けず、放心状態で泥のように眠りについた。そうしたら...夢を見たんだ。」


一ノ瀬の瞳に、陶酔したような、どこか異常な熱が宿る。


「思い通りの絵が、思い通りに描ける夢だ。それはそれは甘美で、恐ろしいほどリアルな夢だった。目が覚めても、満足感と達成感が肌に残っているほどに...だが、所詮は夢だ。ひとたび起きれば、また才能の枯れた現実の自分に引き戻される。それから毎日、俺はあの夢を見続けた。いつしか、あの夢を見るために眠ることを求める自分がいた。そして眠る時間も日に日に長くなっていた...」

一ノ瀬は自嘲するように頭を振った。


「ある日、絵を描けず眠ったら、あの夢を見なかった。そこでようやく気づいたんだ。あの絵具が、俺に夢を見せていたのだと。そして、あの絵具せいで寝る時間が伸びていることを。馬鹿げている。だが、否定できなかった。拒否できなかった。毎日あの絵の具をキャンバスになすりつけ、あの甘い夢を求めて、俺は泥のように眠り続けたんだ。」


「なるほどねぇ...じゃあ、手紙にあるこの『望月組』っていうのは?」

透が手紙の署名を指差したが、一ノ瀬は力なく首を横に振った。


「俺にも分からん。そんな名前の知り合いはいない。小包が届いたのも半年前の一度きりだ。送り主の住所を調べさせたが、存在しない架空の場所だったよ。」


「毎日絵を描いていたんですよね?」

玲奈が不思議そうに眉をひそめる。


「半年もの間毎日使っていて、その絵の具は使い切らなかったんですか?」


透も「確かに」と同意するように頷く。すると、一ノ瀬は怯えたように自分の頭を抱え込んだ。


「...減らないんだ。使っても、使っても、あの絵の具のチューブは、中身が一切減らないんだよ!」

不気味な沈黙が居間を支配する。


「だから、抜け出せなくなった。あの都合の良い夢から。結果がこのざまだ。惨めすぎて、笑いしか出てこない。まさか、現実から逃げて夢に縋るなんてな。全盛期の自分が今の姿を見たら、腹を抱えて軽蔑していただろう...」


静かに打ち明けた一ノ瀬の肩は、小さく震えていた。

その姿を冷めた目で見下ろしていた透が、おもむろに立ち上がる。


「一ノ瀬さん。俺は絵に関しては完璧に素人だよ。」

透はポケットに両手を突っ込み、いつもの軽い調子の中に、それでいて確かな芯のある声を混ぜた。


「でもさ、これだけははっきり言えるよ。夢に向かって足掻いてる人間は、泥臭くてカッコいいよ。それがどんなに惨めでも、他の誰かに、ましてや自分自身に、それを否定する権利なんてないさ。壁が高くて先が見えないからって、偽物の夢に逃げてどうすんの?乗り越えることそのものを楽しまなきゃ。」


透はパーカーの胸元に引っ掛けていたサングラスをかけた。


「まあ、聞きたいことは聞いたし、俺たちの仕事はここまで。これで失礼するよ。この手紙と絵具は、こっちで回収させてもらいます。あと、言うまでもないと思いますけど、今回のことは一ノ瀬さんの心の中にしまっておいてください。また何かあったら連絡してください。玲奈ちゃん、帰るよ」


「勝手に人の屋敷に押し入って、アトリエを荒らし、用が済んだらさっさと帰るか。まったく、身勝手極まりない連中だ。」

一ノ瀬は悪態をついたが、その表情は、心なしか少しだけ前を向いているように見えた。


「すいません!お邪魔しました!」

玲奈は手帳と手紙を勢いよく鞄に押し込むと、綺麗に一礼した。


居間を出た二人は、一ノ瀬の寝室を掃除していた佐藤に「一ノ瀬さんをよろしくお願いします」と挨拶を済ませ、静かに洋館を後にした。


洋館を背に、二人は来た時と同じ舗装されていない山道を下り始めていた。

行きとは違い、玲奈の足取りはいくぶん軽い。もちろん肉体的な疲労はピークに達していたが、あの奇妙な事件を無事に解決できたという達成感が、彼女の背中を押していた。


「いやあ、解決解決!」

前を歩く透は両腕を大きく頭の上に伸ばし、伸びをする。


「透さん、さっきの一ノ瀬さんへの言葉...ちょっとだけ格好良かったです。」

玲奈は歩調を合わせながら、前を歩く白髪の後頭部に声をかけた。


「ん〜?なにそれ、お兄さんに惚れちゃった?」


透は振り返りもせず、サングラスの奥でへらへらと笑う。相変わらずのチャラいノリに、玲奈は「それはないです」と即答した。


「ただのチャラ男じゃなくて、いいこと言うんだなあって。」


「あはは、手厳しいなぁ。まあでも、スランプの芸術家に、偽物の安らぎを見せて骨抜きにするなんて、悪趣味だねぇ、あの『望月組』とやら。」

透のトーンが、わずかに低くなる。


数時間後。すっかり日が傾き、琥珀色の夕暮れに包まれた街へ戻ってきた二人は、事務所のドアを押し開けた。


「おつかれさまでーっす。いや〜、今回もマジできつかったわ〜。特に山登りがね!」


透がいつも通りの軽い調子で室内に滑り込む。

ソファには、すでに別の依頼を終えたらしい日向と、その隣で静かに報告書をまとめているDiの姿があった。

社長席にドカッと座っているれおは相変わらずで、手元の小説から視線すら上げずにページをめくっている。


「おかえり。ずいぶん早かったな。もう片付いたのか?」

れおが怪訝そうに眉をひそめ、ようやく本を閉じた。


「おうよ!玲奈ちゃんが憑依物を見つけてくれてさ。大活躍だったよ!」

透が自分のことのように胸を張って報告すると、日向がソファから飛び起きた。


「マジっすか玲奈ちゃん!スゲーっすね!」


「いや、全然...Diさんが毎日、特訓に付き合ってくれたおかげだよ。」


Diは持っていたペンを置き、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「いえ。玲奈さんの努力があってこそです。私はほんのちょっとした手助けをしたに過ぎませんから。」


「で、透っち、お土産は!?」

日向が期待の目を輝かせて透に詰め寄る。


「あるわけないでしょ、ただの山奥だよ?はい、これ。今回の戦利品」

透は玲奈の鞄から例の絵の具箱と、あの奇妙な手紙を取り出すと、れおのデスクの上へ放り出した。

透と玲奈も空いているソファに腰を下ろし、洋館で起きていた事件の経緯を順を追って説明していく。


「...望月組?」

れおが手紙の末尾にある署名を指先でなぞり、低く呟いた。


「そうそう。そいつらが、その訳あり絵の具を送り付けてきたってわけ。何者なのかは、さっぱり分からないけどね。」

透はソファの背もたれに体重を預け、大げさに肩をすくめてみせる。


「初めて聞くな。八咫烏の連中に情報を聞いてみるか。」

れおは手紙をデスクに置くと、深く椅子にもたれかかった。


「何者なんだろうねぇ。名前からして一人じゃなさそうだし。もしかして、他にも同じような被害者がいるのかねぇ?」

透は吐き捨てるように言うと、冷蔵庫から勝手に炭酸飲料を取り出して喉を鳴らした。


「だとしたら、なんでわざわざそんなことするんっすかね?」

日向の純粋な疑問に、瞳を冷たく光らせたDiが答えた。


「手紙の文面を見る限り、明確な目的は読み取れません。今の段階で可能性として高いのは、一般人を巻き込んだ愉快犯の線でしょうか。」


「まあ、何はともあれだ。二人とも、無事で何より。礼の望月組は俺から聞いてみるよ。」


事件後、定期的に佐藤から事務所宛てにメールが届くようになった。その内容は一ノ瀬の体調が良くなり、睡眠時間も徐々にもとに戻っていたとのこと。

半年後、「天才画家一ノ瀬、2年の沈黙を破り美術界へ完全復活!新作は異例の数億円で落札!」というタイトルのネット記事が掲載されたのはまた別の話である。


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