1-4 仕事好きの若様は人騒がせすぎる(1/2)
ゼノン様は無事に、隣国のエングリーンへと旅立った。
お見送りの時はもうね、カロリーナ奥様がそれはもう綺麗な涙をはらはらとお流しになっていて……それを囲んで旦那様もイヴァン様もゼノン様も、男三人がおろおろと右往左往しててねえ。
……男性陣、奥様の涙には本当に弱いんだなというのがよくわかりました……。高位貴族といっても家族仲がよくて、なんだか微笑ましいよ。
それからというもの、少しだけ邸の中の雰囲気が静かになった気がする。
使用人の同僚たちとは『若様のすごく前向きな決断を応援したいね』って口々に言い合ったけども、それでも皆どこか寂しさを隠せない様子だった。
とはいえ、ゼノン様がいなくなっても変わらずこの邸での日々は過ぎていく。私が今なんとなく感じてる喪失感のようなものも、きっと少しずつ小さくなっていっていくんだろうな。
「アリスさんごめんなさい、ちょっといいかしら? もう遅い時間だけれど、ひとつお願いしたいことがあって……」
給仕室から出てきたところで、ペルラ様に呼び止められる。
今日は急な来客……ちょっと遅い時間にイヴァン様の同僚の方が訪ねて来てね。内容は別に深刻なものじゃなくて仕事の軽い打ち合わせって感じっぽかったけど、私は来客がご帰宅なさった後の応接室の片づけをしつつお茶の食器を下げてきたところ。
これから自室へ引き上げてお仕着せから着替えようとしていたタイミングだったんだけどなあ……。
「ごめんなさいね……若様がまだ書類仕事をなさっているみたいで、執務室にお夜食とお茶をお持ちしてほしいのよ」
ああ……今日はその急な来客があったから、元々の予定が後ろ倒しになったのかな? そういうこともあるよね。
「私はまだ別の仕事が残っていて、申し訳ないんだけどお願いできないかしら。そのかわり、明日の朝は少し遅く勤務を遅く開始してもいいから」
「そういうことでしたら、わかりました」
イヴァン様は普段も昼はお城でお仕事、帰宅なさってからは領地運営のお手伝いもなさっているみたいなんだよねえ。旦那様と奥様は今またご領地にいらっしゃるし、色々と大変だろうな。ゼノン様の分まで、と張り切っていらっしゃるんだろうけど……。
あ、でももう深夜だよね……私がお部屋へ行って、二人きりになったら外聞とかあんまりよくないんじゃないかな……?
イヴァン様は婚約者がいらっしゃると言っていたので向こうから何かされたり、そういうことはないだろうと信じてるけどね。一応、そういう人ではないよな、という信頼関係はできているとは思ってる。
ただ、万が一疑われるような事態になって噂になったりしたらイヴァン様にご迷惑だものね……。
「部屋には交代で執事も待機させるようにしてるから、お夜食は二人分持っていってね」
うん、さすがに私の心配は杞憂だったね。ぺルラ様がとっくに対策してくださってた。そうだよね、仕事をなさってるのに完全にお一人でってことはないはずだ。寝室にいらっしゃるわけではないんだから。
寝室に行ってお相手しろとか言われたら今すぐ回れ右で逃げるけど! まあ、ぺルラ様は冗談でもそんなこと言う方じゃないしな〜。
「承知しました。……あ、具体的に明日は何時から勤務を開始したらいいですか?」
「そうね……定刻より、鐘一つ分遅く開始で構わないかしら?」
「えっ、朝そんなにもゆっくりしてもいいんですか? ありがとうございます!」
「こっちの台詞よ。本当に助かるわ、ありがとう」
笑顔のぺルラ様から差し出されたトレイを受け取った私は、人気が少なくなってランプで橙色に照らされた公爵邸の廊下を歩いていく。
この時間は通いの使用人は帰宅、住み込みの使用人たちももう皆個室に下がっている時間だもんなぁ。
廊下で巡回警備をしている若い護衛騎士様とすれ違って、お互いに小さく会釈をした。騎士様も、遅い時間までご苦労さんだよ。
「若様、失礼します。……若様……?」
ノックをしても返事がない。おかしいな……と思った私は、扉を開けて中の様子を伺った。
……おかしいなとは思ったんだから、後から思えばそこでちゃんと誰かを呼びに行けばよかったんだよね……。
しかし私は不用心に扉をくぐった。
「……若様!? イヴァン様!!」
ランプの灯りだけで薄暗い室内。イヴァン様が絨毯にうつ伏せに倒れている。
私は思わずトレイをその場に放り出して駆け寄った。食器が床に落ちて、がちゃんと派手な音を立てる。
「……、…………」
「……寝てる…………?」
近寄って跪き、顔を覗き込んで確認した私は、イヴァン様がちゃんと呼吸していることを確認して安堵から床にへたり込んだ。
暗くて顔色はちょっとわからないけど、すうすうと規則的な寝息を立てている。
胸、というか背中だけどちゃんと上下しているし。多分だけど、普通に眠っているだけみたい……?
あ、ずれた眼鏡のつるが顔の下になってて、頬に跡がついてるや。本当にもしただ寝ているだけなら、過労とかなのかなぁ……?
いやでも、ちゃんとお医者様に診てもらった方がいいよね。だって他にどこか悪い可能性も十分にあるからニコラス様に相談して……あれ?
「…………、……」
立ち上がろうとしても身体が動かない。よく見ると、イヴァン様の手が私のエプロンの裾辺りを掴んでいる……えっ、ちょっと待ってちょっと待って。
「若様、若様……?」
離してください、これじゃ人を呼びに行くこともできないんですけど……!?
混乱しながら、イヴァン様の手首を掴む。んー力が強い!! なかなか放してくれないな……!?
「ん…………」
「わっ! ……とと……!!」
と思えば急に手を離されて、今度は私があわやイヴァン様の上に倒れ込みそうになってしまった。
慌てて体制を起こそうとして、……あれっ? また身体が動かないんだけど!? うわ、寝返りを打ったイヴァン様が今度は私の二の腕を掴んでる!?
ちょ、ちょっと待ってやっぱり結構力が強い、痛い! ねえ!! 寝ぼけてるの、若様ー!? ねえ誰か助けてー!!
「……たん……」
「……ん? なんですか?」
何? 今、イヴァン様が寝言を言わなかった……?
「…………クラリスたん…………」
……クラリスタ?
「はいはい若様、起きてください!!」
突然耳元で響いたその声に、私はハッと意識を浮上させる。
「ほら、若様! わーかーさーま!? ……イヴァン!?」
いつの間にか部屋の中に飛び込んできていたらしいその人がイヴァン様の頬を軽く叩くと、イヴァン様の手の力が少し弱まった。そのタイミングを逃さずに、その人はイヴァン様の手を掴んで私から引き剥がしてくれる。
「アリスさん!!」
同時に、慌てて息を切らせたペルラ様の声が頭上から降って来た。
正直混乱していて何がなんだかわからない状態だったんだけど、そんな私の手をぺルラ様が引いて立たせてくださる。……あ、ちょっとびっくりしすぎてなのか、足が震えてる……。
「アリスさん、大丈夫? 歩けるかしら?」
「は、はい……」
私はなんとかうなずいて、小鹿のように足をぷるぷるさせながらもペルラ様に肩を抱かれて別室へと移動した。




