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灰の神託 ―神の席を奪う者たち―  作者: 宮生さん太
六章 正義の空白

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第七話 空席


 白は、まだ残っていた。


 残っているのは信仰ではない。

 布だ。札だ。

 柱に打たれた印だ。

 祈殿の軒先に下がる紙垂だ。


 人が消えても、印は残る。

 残るから、人はまだそこに意味を見ようとする。


 王都の朝は、冷えていた。

 火のあとの朝は冷える。燃えていた熱がなくなるからではない。燃やす理由だけが残るからだ。


 祈殿へ続く石段に、黒鴉の兵が立っていた。

 白ではない。黒でもない。濃い灰の外套。境目の色だ。境目の色は、命令を曖昧に見せる。曖昧に見える命令ほど、逆らいにくい。


 石段の下には人が集まっている。

 怒号はない。もう怒る段階は過ぎた。

 人は、怒りが終わると答えを欲しがる。


「白巫家の方は」


 年老いた女が言う。

 問いではない。確認だ。確認できれば、心は少し楽になる。


 黒鴉の兵は答える。


「記録上、職能停止」


 職能停止。便利な言葉だ。

 潰したとも、殺したとも、追放したとも言わずに、同じ結果を作る。


「では、祈りは」


「継続されます」


 その一言で、人々の肩がわずかに落ちる。安心ではない。

 空白が完全ではないと知って、少しだけ立っていられるようになるだけだ。


 祈りは継続される。

 誰が祈るかは、まだ言われない。


 石段の上では、白巫家の印がひとつずつ剥がされていた。


 釘を抜く音。布を外す音。札を割る音。

 どれも小さい。小さい音ほど、制度は死ぬ。


 誰も泣かない。泣けば、それは個人の終わりになる。

 今起きているのは、個人の終わりではない。家の終わりでもない。


 席の終わりだ。


 黒鴉当主は石段の上から、それを見ていた。


 彼の足元に、記録板が置かれている。

 白巫家所管の儀礼一覧。徴発記録。保護区画管理簿。供出台帳。


 どれも整っている。整っているから、冷たい。冷たいものは移管しやすい。


「欠損は」


 当主が問う。


「一割未満」


 側近が答える。


「意図的焼却分を除けば、実務継続に支障なし」


 支障なし。

 その言葉が出た瞬間、白巫家は制度として死んだ。死んだ制度ほど、移しやすい。


「名義は」


「王家直轄補佐機関、臨時記録庁として再編可能です」


 再編。

 壊したと言わない。奪ったとも言わない。

 再編と言えば、前からそうなるべきだったように聞こえる。


 石段の下で、男がひとり声を上げた。


「王も白巫も同じだ!」


 群衆がわずかに揺れる。この揺れが火になる。

 火になる前に、黒鴉はそこを摘まなければならない。


 声を上げた男は若い。


 腕章も印もつけていない。何にも属していない顔だ。

 属していない顔は、いちばん危険だ。何にでもなれるからだ。


「同じなら、全部壊せばいい!」


 その言葉に数人が頷く。

 頷きは小さい。だが小さいうちに潰さなければ、すぐに旗になる。


 黒鴉の兵は動かなかった。

 代わりに、書記が前へ出た。


「記録を確認します」


 それだけ言う。


 男は鼻で笑う。


「記録?」


「あなたの氏名、出自、接触者、昨夜の所在」


 書記の声は平板だった。


「南門外の倉庫群で、地方豪族カゲモリ家の使者と接触。銀二枚、受領。

 目的は、王家の無力を叫ぶ者を募ること。

 昨夜三更、酒場〈赤鹿亭〉にて同旨を発言。証言三件」


 群衆の空気が変わる。


 男の顔色が落ちる。落ちるだけで十分だった。

 反論は、記録の前で弱い。


「嘘だ」


「記録です」


 短い。

 短い言葉は終わりを連れてくる。


 男は後ずさる。だが群衆の方が先に引いた。

 引かれると、人は一人になる。一人になると、正義は急に寒い。


 黒鴉当主はそれを見ていた。


 剣を抜かなくても芽は摘める。

 記録は刃より静かで、刃より早い。


「連行を」


 命じる。兵が二人、男の両脇に立つ。

 男は抵抗しない。抵抗すれば物語になる。

 今の彼には、もう誰も物語を与えない。


 群衆は黙った。


 黙ると、人は考える。

 だが長くは考えない。代わりに、もっと分かりやすい結論を欲しがる。


「では……これから、誰が」


 今度は別の声だった。老いた男。

 問いは震えているが、本質だけは真っ直ぐだ。


 誰が、席に座るのか。


 王城では、同じ問いがもっと冷たい形で交わされていた。


 玉座の間は、いつもより人が少ない。

 少ないほど、決定は濃くなる。


 王は玉座に座っていた。

 前よりも深く腰をかけている。疲れではない。体重を玉座に預けているのだ。

 人は支えが必要なときほど、高い椅子にしがみつく。


「転覆の芽は」


「大筋で摘みました」


 実務官が答える。


「地方豪族二家、資金流通を停止。

 煽動文の供給元、押収済み。

 街道封鎖を試みた一団も、王命への反逆として整理可能です」


 整理。

 今の王都では、良い言葉だった。


 王は頷く。


「黒鴉は」


 問われた当主は一歩前に出る。


「王を残します」


 即答。

 その言葉に、王は安堵した。安堵したことを顔には出さない。出せば負ける。

 だが安堵した時点で、主導権はもう半分移っている。


「残す、とは」


「倒せば正義の空白が広がります。

 空白が広がれば、群衆は次の椅子を作る。

 今はそれを許すべきではありません」


 王は目を伏せた。


 自分は必要だから残される。

 誇りではない。機能だ。


「白巫の席は」


 王が問う。


「正式に空けます」


 当主の声は変わらない。


「王権は形として残す。

 権威は別に立てる。管理は記録が担う」


 実務官がゆっくりと息を吐く。

 その三つが揃った瞬間、新しい国の形が見えたからだ。


 王は言う。


「象徴か」


「はい」


 そこから先は、誰も名前を言わなかった。

 だが全員、同じ存在を思い浮かべている。


 言葉を持たない。

 だが意味を集める。

 個人ではなく、焦点になる者。


 王は長く黙っていた。


 沈黙は、拒絶ではなかった。

 自分の頭上に別の光が置かれる感覚に、身体が慣れるのを待っているだけだ。


 やがて王は言った。


「……王は、残る」


 確認だった。

 願いでもあった。


 黒鴉当主は答える。


「はい」


「だが」


 王は続ける。


「民が見るのは、私ではなくなる」


 誰も否定しない。

 否定しないことが、いちばん誠実だった。


 その夕刻、王都の広場では古い白旗が降ろされていた。

 代わりに、何の印もない旗が立つ。

 白でも黒でもない、まだ名のない色。


 群衆はそれを見上げた。


 意味のない旗は、不安だ。

 だが意味を与えられる余地がある。

 余地があるものに、人は希望を入れる。


 希望は、いつも勝手に入る。


 石段の下で、誰かが呟く。


「白は、もう戻らないのか」


 誰も答えない。代わりに、鐘が鳴った。

 今度の鐘は警鐘ではない。集める音だ。


 人々は顔を上げる。

 火を見上げるときとは違う動きだ。

 火には怯える。鐘には従う。


 黒鴉の書記が、広場の中央で公示を読み上げる。


「白巫家の儀礼的権限は、本日をもって停止」


 ざわめきが起きる。だが怒号にはならない。


「王家は存続」


 ざわめきが少し弱まる。


「新たな秩序維持のため、象徴の設置を準備する」


 象徴。

 その言葉が広場に落ちる。


 まだ姿は見えない。

 だが人々は、すでにそこへ意味を流し込み始めていた。


「誰だ」

「王子か」

「神官か」

「いや、あの……」


 名前にならない囁きが広がる。

 まだ答えを知らない。

 だが頭を求めている。


 黒鴉当主は群衆を見下ろした。


 もう火ではない。

 欲しいのは結論だ。

 結論があれば、人は静まる。

 静まれば、制度を置ける。


 白巫の席は空いた。


 王は残る。だがもう、ただの王ではいられない。

 黒鴉は記録を握る。

 そして記録は、誰がどこでどの椅子に手を伸ばしたかを忘れない。


 空席は危険だ。だからこそ、先に埋める。


 鐘がまた鳴る。

 王都の空はもう燃えていない。

 だが灰の下で、火はまだ生きている。


 その火を覆うために、人は旗を立てる。

 旗を立てれば安心する。

 安心した瞬間から、次の奪い合いが始まる。


 それでも今は、空席を放っておくよりましだった。


 人は、誰かが座っているのを見ると安心する。

 たとえその椅子が、自分の首の高さを決めるものであっても。


 広場の群衆は、まだ知らない。


 新しい椅子がもう置かれたことを。

 そこへ誰が座るのかを。

 そしてその椅子が、白から黒へ移っただけであることを。


 知るのは、もう少しあとだ。


 今はただ、空席が埋まる前の静けさだけがあった。


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