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灰の神託 ―神の席を奪う者たち―  作者: 宮生さん太
六章 正義の空白

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第六話 処断


 処断の場は、広場ではなかった。


 広場に出せば、群衆のものになる。

 群衆のものになった処断は、すぐに次を欲しがる。

 次を欲しがる処断は、秩序ではなく飢えだ。


 だから場は選ばれた。


 王城の外郭に近い、石造りの一室。

 窓は高く、光は細い。外の声は届かないが、鐘だけは遠くに聞こえる。

 鐘は、こういう場でも鳴る。そういうものだからだ。


 室内には、必要な者だけがいた。


 王。

 黒鴉当主。

 王側の実務官。

 書記官。

 兵が二人。


 そして、翠弧。


 手は後ろで縛られていた。

 縛り方は丁寧だ。丁寧な拘束ほど、逃げ道がない。


 翠弧は立っていた。

 座らされていない。

 罪人に椅子は要らない。


 だが彼は、まるで自分だけ椅子に座っているような顔でいた。

 余裕ではない。

 立っている位置の危険さを、最初から知っていた者の顔だ。


 書記官が板を広げる。


「記録を読み上げます」


 記録。

 黒鴉の前でその語が出ると、室内の温度が一段下がる。


「各地における私刑、騒擾、偽令、資材流出、火薬流通、街道封鎖、王都外縁での煽動的言辞。これら一連の拡大について、交易路および流言経路を照合した結果、翠弧の関与が強く認められる」


 強く認められる。

 便利な言葉だ。


 完全とは言わない。

 だが十分だと言う。


「本人に申し開きはあるか」


 王はそう言った。

 問いの形をしている。

 だが問いではない。場を整えるための手続きだ。


 翠弧は少しだけ首を傾けた。


「申し開き、ね」


 軽い声。

 軽い声ほど、場を傷つける。


「どこからどこまでだ」


 王の眉が動く。

 不快ではなく、理解の遅れだ。


 翠弧は続ける。


「火の値段を読んだことか。白の失墜を早めたことか。それとも、皆が欲しがる言葉を先に流したことか」


 王側の実務官が言う。


「どれもだ」


 即答だった。

 即答は正義に見える。


 翠弧は笑った。


「便利だな。まとめて一つにできる」


 その笑いは大きくない。

 大きくない笑いほど、人を苛立たせる。


 黒鴉当主は翠弧を見ていた。

 その視線には怒りも軽蔑もない。

 ただ、盤面を確認する者の静けさがある。


「お前は火をつけてはいない」


 当主が言う。


 王側の実務官が一瞬だけ目を動かす。

 王も顔を上げる。


「だが」


 当主は続けた。


「火に値をつけた」


 翠弧は否定しない。


「人は安い方へ流れない。高い方へ集まる。そういうものだろ」


「その結果」


 実務官が言う。


「人が死んだ」


 翠弧は実務官を見た。

 その目に驚きはない。


「その前から死んでたさ」


 静かな言葉だった。

 静かだから、余計に刺さる。


「白に削られて、王に数えられて、黒に記録される前からな」


 書記官の筆が一瞬止まる。

 止まった筆は、書いてはいけないことを知っている。


 王が言った。


「お前は、この混乱の中心にいる」


 翠弧は首を振らない。

 ただ、少しだけ肩を落とした。


「中心にいたら、もっと先に死んでる」


 それは事実だった。

 中心にいるのは、いつも燃える側だ。

 翠弧は燃える側ではない。火の外縁で、風向きを読む側だ。


「それでも」


 黒鴉当主が言った。


「社会には中心が必要だ」


 その言葉で、場の意味が決まった。

 これは裁きではない。中心を決める作業だ。


 王は息を吐く。


「民は結論を欲している」


「はい」


 実務官が頷く。


「白巫は崩れた。王権は揺らいだ。火は広がった。今、必要なのは理解しやすい終わりです」


 終わり。

 その言葉を、この部屋の誰も信じてはいない。だが終わりの形は必要だった。

 形がないと、群衆は次を探し始める。


 王は翠弧を見た。


「お前は処断される」


 言い切った。

 言い切ることで、王はまだ王でいられる。


 翠弧は笑った。

 今度は少しだけはっきりと。


「そう来るよな」


 怖れてはいない。諦めてもいない。

 ただ、値動きを確認した商人の顔だった。


「社会が安心するには、ちょうどいい」


 黒鴉当主は何も答えない。

 否定しないことが、いちばん冷たい肯定だ。


 兵が一歩前に出る。

 処断の形式へ移る合図だった。


 そのとき、扉の外で衣擦れの音がした。


 兵が振り向く。

 王も、実務官も、書記官も目を上げる。


 扉が開く。


 ミサキが入ってきた。


 白でも黒でもない衣。まだ何の印も持たない服。

 だが彼女が一歩室内へ入っただけで、場の重さが変わった。


 誰もすぐには言葉を発しない。

 ミサキがこういう場に自分の足で入ることを、誰も想定していなかったからだ。


 王が最初に口を開いた。


「なぜここにいる」


 問いは鋭い。ただその声の底には、別のものがある。


 怖れだ。


 ミサキは王を見ない。黒鴉当主を見る。

 その視線が示すのは礼ではなく、理解の相手だ。


「その人は、必要です」


 短い言葉だった。


 室内が静まる。


 実務官が眉を寄せる。


「何のために」


 ミサキは少しだけ間を置いた。考えているのではない。

 言葉を持たない者が、言葉の形を探している間だ。


「外を見る人が、必要だから」


 翠弧が初めて、わずかに目を動かした。

 笑いは消えない。

 だが今の一言は、彼の予想の外側に触れた。


 王が言う。


「外?」


 ミサキは答えない。答えれば説明になる。

 説明は彼女の役目ではない。


 黒鴉当主だけが、その意味を理解していた。

 理解してしまったから、すぐに言葉を返さない。


 王が苛立ちを抑えながら言う。


「その男を生かせと?」


 ミサキは頷いた。


 頷きだけ。その動きは小さい。

 だがその場の誰よりも重かった。


「対価は」


 黒鴉当主が問う。


 それは政治の問いだ。慈悲では動かない。

 この場は、取引の場でしか次へ進めない。


 ミサキは言った。


「わたしが座ります」


 王の顔が硬くなる。


「……象徴に?」


「はい」


 それだけだった。


 王はすぐに理解しなかった。

 理解できたのは、黒鴉当主と翠弧だけだ。


 象徴。

 正義の空席。

 群衆が結論として欲しがる顔。


 王を残し、白巫を切り離し、黒鴉が王権の頭を押さえるための、最も都合のいい焦点。


 その席に、ミサキが自分から座ると言った。


 いや。

 座るのではない。

 座らされることを、自分で受け入れた。


 翠弧は、笑ったままだった。


 だがその笑いは、少しだけ変わっていた。

 値踏みではない。理解した者の笑いだ。


 王が言う。


「それで一人を生かすのか」


 その言葉には非難も、驚きも、少しの安堵も混じっていた。

 王は知っている。象徴が必要だと。


 しかし、自分の口からそれを決めるのは危うい。

 危ういものを、ミサキが先に差し出した。


 黒鴉当主が静かに言う。


「成立します」


 それで決まりだった。


 決まりとは、誰もが一番損をしない形が見つかった瞬間に生まれる。

 この場合、一番損をしたのはミサキだ。

 だが損をした本人だけが、それを損だと言わない。


 実務官が書記官を見る。


「記録は」


 黒鴉当主が先に答えた。


「処断は完了した、と出す」


 翠弧は、そこで初めて少しだけ目を閉じた。

 死んだことになる。名は切り離される。記録から落ちた者は、制度の外へ出る。


 それは自由だ。

 同時に、存在しないことでもある。


 兵が翠弧の縄を解く。解き方もまた丁寧だ。

 丁寧な放免ほど、後戻りがない。


 誰も、何も言わない。


 ミサキも言わない。

 翠弧も言わない。


 言葉を交わせば、取引になる。礼を言えば、軽くなる。

 軽くなるのは、今は違う。


 翠弧は一度だけ、ミサキを見た。


 その視線は長くない。値を測るものでもない。

 ただ確認だ。


 それから、何も言わずに歩き出す。振り返らない。

 扉が開き、彼の影が外へ消える。

 

 扉が閉まる。


 そこでようやく、室内に残されたものの重さが分かった。


 王は玉座にいない。

 だがここにもまた、椅子が見えていた。


 まだ空いている椅子。

 今まさに、誰かの人生を代価に形を持ち始めた椅子。


 黒鴉当主は言う。


「処断は完了しました」


 その一言で、翠弧は死ぬ。

 その一言で、世界は安心する。

 その一言で、ミサキは戻れなくなる。


 遠くで鐘が鳴った。

 警鐘でも、処刑の鐘でもない。何であれ、今は同じだ。


 音は鳴る。それを人が意味にする。

 そういうものだから。


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